花と星のコンチェルト

おべん・チャラー

1

 エリューシオ王国。王都、アリセレオス。

 街並みの中心にある、広大な土地。その中心に荘厳に佇む宮殿の奥、謁見の間。その煌びやかな部屋で、謁見は行われていた。


 玉座は一つ。初老を迎えた女王が腰かけるそこを守る様に、甲冑を纏った八人の騎士が整列していた。

 入り口から玉座へとまっすぐ続く絨毯に、女王に向かい、扉に背を向けるようにして少女が一人立っており、その隣の空間は意味ありげに空いている。


「――ところで、ヒバリだけでしょうか? ディオはいかがしました?」

「ええと……」

 この国を治める女王に尋ねられ、少女――ヒバリは口ごもった。

 謁見の間へ来る直前には二人共別々にいて、こちらへ向かう際には一般の騎士に付き添われたので、親友がどこにいるかなど検討もつかなかった。ヒバリ自身、てっきり先に来ているものかと思っていたのだ。

「それに、リヒトもいませんが、何か知ってる? ウィル」

 女王がそう問いかけたのは、茶の髪と青い瞳を持った年若い騎士だ。ウィルと呼ばれた彼は、頭を掻きかき答える。

「先ほど執務室を出た時に見かけたきり……全く、さてはまた庭園でさぼってやがるな。女王様、探しに行ってきます」

「その必要はない」

 ウィルの言葉に応えたのは、女王の右手に控えている騎士だった。眩い金の髪と切れ長の目を持つ彼は、ヒバリにも覚えがある。

 マイクロフト・フランチェスカ。九人の高位騎士の実質的な長であり、ヒバリ達を村まで迎えにきてくれた、見目麗しい騎士だった。

「マイクロフト、探してきてくれる?」優しく聞いた女王に、彼が一礼して答える。「御意に」

 威厳を滲ませる足音で彼が謁見室を出て行くと、少しの沈黙が降りた。親友が遅刻したばつの悪さにヒバリが身を縮こまらせていると、ふと玉座の女王と目が合ってしまった。彼女は慈愛の微笑みを見せ、ヒバリもぎこちない愛想笑いを返した。


 ☆


 エリューシオ王国は、代々女王が治めてきた。

 女王が夫を娶り、子を生む。産まれたのが男児であれば騎士、女児であればしかるべき教育を施して、次代の女王を継がせる事で、この国は続いてきた。


 現女王である、アンジュ・オートリシュ・スモルニア・ド・エリューシオは、政にひた向きに向き合い、国民からも愛されてきた。生涯で一人の夫を得たが、子はなし得なかった。

 次の女王が誕生するのを家臣、夫、国民、そして彼女自身は長年待ち続けたが、ついに子供は授かれないまま、年月ばかりが過ぎていった。

 跡継ぎがいないまま、自身が年老いていく事に焦りを感じていたアンジュ・オートリシュであったが、ある日その突破口を見いだす。

 それが、女王候補たる娘を宮殿へ迎え入れ、彼女自身の目で次代の女王たるかを見極め、育成する事だった。


 ☆


「――ん……」

 そよ風が前髪を揺らし、雲間から差した陽光が目覚めを誘った。

 宮殿の広大な庭園、そのお気に入りの木の根元で、リヒト・カタルーシアは目を覚ました。

 反動をつけて起き上がり、寝起き頭を無造作に掻いて、眠気の余韻を噛み締める。うっすらと青みがかった白い短髪には寝癖がついていた。

「……あー、今、何時だ?」

 日の高さに、リヒトは首をかしげる。確か今日は、女王候補の謁見があったはず。そろそろ行くか、そう思った時、不意に頭上で何かがガサガサと音を立てた。

「ん?」

 背後の木を振り向いて見上げると、次第にガサガサが激しくなった。葉がひらひらと舞い落ちてきて、猫がみゃあと鳴く声が聞こえる。同時に、それに語りかける声も。

「怖くないって。こっちおいで。――よしよし、いい子だ」

「何だ?」

 葉が抜けた木立の中にリヒトが目を細めると、頭上の太い枝に跨がって、子猫を抱える人間と目があった。と、その時――

「リヒト・カタルーシア!」

 厳しい声に呼ばれて、リヒトは反射的に立ち上がった。彼の名を呼んだ人物が、苛立ちの足取りでつかつかと歩み寄ってくる。

「貴様、ここで何をしている! 女王候補の謁見はどうした!?」

 ボサボサの頭のまま慌てて敬礼姿勢をとったリヒトに、高位騎士の長・マイクロフトが肩を怒らせて近づいて来る。脳天への拳骨を覚悟したリヒトだったが、次の瞬間、彼らの間に何者かが降り立った。マイクロフトは反射的に、腰の剣に手をかける。

 それは黒い髪と瞳を持った少女だった。彼女の民族の正装だという衣装は薄汚れ、胸には灰色の子猫が抱き抱えられていた。

 行方の知れなかったもう一人の女王候補の姿を認めて、マイクロフトは警戒の姿勢を解く。

「ディオ・フィリア・グランディエ。ここにいたか」

 彼の呆れたような視線に、黒髪の少女は笑顔で答えた。

「ごめんなさい。子猫が木から降りられなくなっていたもので」


 ☆


 苦肉とも呼べる策を講じて宮殿に招かれたのは、二人の少女だった。

 黒い髪と瞳を持ったディオ・フィリア・グランディエは、国内最強と名高い狩猟部族の村長の娘であり、いかなる時でも溌剌とした笑顔を湛えた娘だ。

 そしてその親友、ヒバリ・グラスレッドは、淡い黄色の髪を持ち、愛らしい瞳の中に慈悲深い心を宿した少女だった。

 ひと月前に女王の要請を受けた二人は、今朝早くに宮殿に到着したばかりであった。


 ☆


 一般の騎士に子猫を預けて、マイクロフトに言われるがままに着衣の汚れをあらかた落としたディオは、リヒトを従えた彼に連れられて、謁見の間に到着した。

「お待たせいたしました、陛下。リヒトと、もう一人の女王候補を連れてまいりました」

 扉を開いてそう言ったマイクロフトに反応して、玉座を向いていたヒバリがこちらを振り返った。

 騎士二人は女王に一礼し、玉座の脇を固める様に直立不動の姿勢をとっている七人の中に入っていった。整列順が決まっているらしく、リヒトはウィリアムと赤髪の騎士との間に、マイクロフトは女王の右手に収まる。

 親友の隣に並んだディオの姿に、女王が驚いていた。あらかた汚れを落としたと言っても、見る目が見れば分かるらしい。

「ディオ・フィリア・グランディエ。その恰好は、いかがしました?」

 ディオは気恥ずかしさに染まる頬を誤魔化す様に、ポリポリと掻きながら答えた。

「汚い格好でごめんなさい、女王様。庭園に、木の枝に登って降りられなくなっていた子猫がいたので……」

 ディオの返答に、女王は顔をほころばせる。

「まあ。して、その子猫は無事に済みましたか?」

 女王の言葉にディオは笑顔を返した。

「はい、怪我も無さそうで、良かったです」

「それは良かった。優しいのね、ディオ」

 女王の言葉に照れくさそうに俯いたディオを、ヒバリは誇らしげに見つめた。


「――さて、ヒバリ・グラスレッド」

 優美な威光を感じさせる声で凜と呼ばれて、ヒバリは居住まいを正し、「はいっ」と答える。女王はゆったりと視線を移した。「ディオ・フィリア・グランディエ」

 改めて名を呼ばれて、ディオも姿勢を正す。「はいっ」

「まずは、二人共に礼を。よくぞ女王候補という重き立場を承知してくれました。あなた達のどちらかに、このエリューシオ王国の未来がかかっています。王国の未来、国民の未来のために、どうぞ、研鑽に励んでくださいね」

 二人の女王候補は息を飲みつつ、コクリと頷く。ついに始まる。始まってしまった。

 二人の少女の神妙な面持ちに、女王は笑いかけて続ける。

「ここにいる騎士達を紹介しましょう。みんな、エリューシオ最高の騎士です。彼らにはあなた達の教育も任せてあるわ」

 彼女は、ズラリと整列した九人の騎士を示した。

「第一騎士団長、マイクロフト・フランチェスカ」

 呼ぶ声に応えて、マイクロフトが騎士達の列から一歩踏み出し、二人の女王候補に向けて性格通りの厳格そうな礼をした。

「第二騎士団長、レイドック・ヒューゴ」

 女王の左に立っている、長い銀髪と浅黒い肌を持った騎士が同じく前に出て、二人に頭を垂れた。年の頃はマイクロフトと同じで、ここにいる騎士の中では最年長に当たるという。

「この二人には、あなた達の護身術教育を担当してもらうわ。マイクロフトの剣の腕の右に出る者はいないし、レイドックの魔法は王国一よ」

 二人の騎士の雰囲気は、優しい声音の紹介とは正反対だった。ヒバリは、気を抜くと泣き出してしまいそうだ、と思う。隣のディオを盗み見ると、彼らの醸し出す強者の波動に、下ろした拳を堅く握り込んでいた。

「第三騎士団長エドワルド・オズモンド」

 呼ばう声にマイクロフトとレイドックが静かに列へ下がる。代わりにマイクロフトの隣に立つ赤髪の騎士が、一歩踏み出して一礼した。

 左目の上の毛束だけがピンクに染められていて、纏う空気は先ほどの二人よりずっと軽かった。打って変わったその雰囲気に、ヒバリは詰めていた息を吐く。すると彼女に向けて、ウインクが一つサッと投げかけられた。

「第五騎士団長、ウィリアム・オルガ」

 エドワルドのウインクにヒバリが顔を赤くしていると、リヒトの隣にいた茶の髪の騎士が進み出て頭を下げた。騎士の中ではリヒトと並んで年若く、爽やかな印象を受ける。 

「この二人には、あなた達の社交教育をしてもらいます。エドワルドはダンスが上手なの。でも、ウィリアムに優しく教えてもらった方がいいかもしれないわね。あなた達二人共とても可愛いから、エドワルドの悪い癖が出るかもしれないわ」

 女王の言葉に、候補の二人がきょとんとすると、彼女は可笑しそうにコロコロ笑い出して、エドワルドが狼狽した情けない声を出した。「じょ、女王様……」

「第六騎士団長、アイゼル・ポスチア」

 気を取り直した女王の声で、姿勢を正したエドワルドとウィリアムが列に下がり、代わって前に出た知的そうな片眼鏡の騎士が丁寧な礼をした。

「第九騎士団長、ノルディス・クラウディア」

 その容姿と騎士団服がちぐはぐな印象の、愛らしい瞳をした少年がぴょこんと出てきて、元気よく「よろしくお願いします!」と言った。年の頃はウィリアムやリヒトと同じか、もしくはもう少し下に見える。

「彼らには、あなた達の学習教育を担当してもらいます。アイゼルは何でも知っているし、ノルディスからは治癒魔法や薬草学について、十分過ぎるくらい学べると思うわ」

 治癒魔法? 薬草学? 聞き慣れない言葉に女王候補達は眉根を寄せたが、流れを止めて質問するのは憚られた。

「第八騎士団長、ジェレミア・マイルス」

 アイゼルとノルディスに代わったのは、女王の前にあっても、まるで羽根を広げた孔雀の様な美しさの騎士だった。前に出た彼は、令嬢の様な仕草で膝を折って頭を垂れた。彼なのか彼女なのか……女王候補達は混乱した。

「第七騎士団長、シシーム・リュカ」

 次いで呼ばれた紫色の髪をした痩身の騎士が、にこりと微笑んで礼をする。腰のあたりで組んでいる両手の指の繊細さに、ディオは驚いた。まるで騎士とは思えない、綺麗な指だった。

「彼らにはあなた達の芸術教育を担当してもらいます。ジェレミアの審美眼は折り紙付きよ。シシームはリュートがとても上手なの。お茶会でも時々弾いてもらうのよ。――このエリューシオが誇る九人の高位騎士も、今日からあなた達の味方よ。分からない事や困った事があれば、何でも言ってちょうだいね」

 言って女王が見せた慈愛の笑みは、候補の二人の緊張を少しだけ溶した。

「それでは――」女王が話を続けようとしたところで、慌てた様子で割って入ったのは、リヒトだ。

「ちょっ、女王!? 俺は名前を呼ばれていませんが!?」

「リヒト、いつもお前は、陛下になんたる言葉遣いを――」

「いいのよ、マイクロフト」

 リヒトを叱りようとするマイクロフトを、女王は代わらない声音で諫める。

 彼女は少々思案を巡らせたが、やがてにっこりと微笑んで女王候補の二人に語り掛けた。

「二人共、一息つきたい時には、このリヒト・カタルーシアを呼ぶといいわ。仕事をサボる技にかけては、天下一品よ」

「……」

 女王候補達が言葉を無くす。一瞬の静寂が流れた。エドワルドとジェレミアが耐えきれず噴き出す。「……ふっ……くっくっく……」「ぷくくくく……」

 隣にいるウィリアムが、顔を引きつらせて何とか堪えていた。代わりに明後日の方向を向いて、笑い続けるエドワルドを肘で小突く。その彼もノルディスに小突かれているが。

 マイクロフトが目も当てられない、と言う顔で頭を悩ませ、アイゼルとシシームも眉尻を下げて微笑んだ。レイドックは無表情にリヒトを一瞥した後、また目を閉じる。

 女王から不名誉を賜った彼は、ぽつりと尋ねた。

「……俺は何か、教育とかはしなくていいので?」

 少しの間を置いて、神妙な面持ちの女王が答える。

「……貴方、まさか、自分が人様に教えられる事があるとでも思っているの?」

 エドワルド、ウィリアム、ジェレミア、ノルディスの四人が、耐えきれずに噴きだして顔を背けた。


 ☆


 二ヶ月後の夜に、各国の要人を招いた夜会が開かれるそうで、女王候補の二人はそこでお披露目という事になるらしい。

 マナーなどあって無い様なものである村での集会ならいざ知らず、世界中の要人を集めたパーティーだなんて大それたものに、自分たちが出席するのは恐れ多い……そう女王候補達が口にすると、女王はにっこりと笑った。皆で教えるから大丈夫。何も心配することはない、と。

 そして、女王候補としての期間は一年間。その間に候補の二人は研鑽に励み、女王はどちらかから、その座を譲り継ぐ次期女王を選ぶ事となる。選ばれた者は正式に王女としてこの国を継ぐ立場となり、女王と共に実際の政務に携わっていく。


 宮殿を出、揺れる馬車の中でディオは詰めていた息を吐き出した。

「っはぁー、緊張したー! まだドキドキしてるよ……」

「女王様、優しかったね……」まるで恋する乙女の様にうっとりとして、ヒバリが言う。煌びやかな宮殿、慈しみに溢れた女王、美しい騎士達……。全てが夢のようでいて、現実感が無い。そしてそれは、馬車を降りても変わることは無かった。

 女王に『あなた達の生活の為の離れを用意しているから、今日は帰ってじっくり疲れを癒やしてね』と言われるまま馬車に揺られてきたが、まさか『離れ』までが豪奢な宮殿だとは思わなかった。

 いや、確かに先頃出てきた宮殿に比べたら随分と規模は小さいが、彼女たちが出身する小さな村の家々ほとんどがすっぽりと入ってしまいそうな佇まいである。彼女たちに言わせれば、紛れもなくここも『宮殿』だった。

 案内として付いてきた一般騎士を見て、ヒバリが震える声で訊いた。

「あの……ここが、『離れ』なんですか……?」

 どうか嘘だと言って欲しい。こんな立派な宮で生活するなど、想像するだけで目眩がして吐きそうだ。

 しかし、その二人の願いは生真面目な顔で頷いた騎士に裏切られた。

「ええ。こちらが女王候補様方の為の離宮でございます」

 答えを聞いて候補の二人は息を飲んで顔を突き合わせた。

「どど、ど……どうしよう、ディオ!? 私達、こんな……こんな立派な建物で生活するなんて、思ってもみなくて……ててて、手が!」

 握り合わせた両の手をガクガクと震わせているヒバリにそう言われるディオは、もはや魂が現実を逃避してしまったかのように、ポカンと口を開けて動かない。目は離宮を見上げている様で、しかしそこには何も写していなかった。

 キャンキャン喚く子犬の様な村娘二人を騎士が冷めた目で見ていると、離宮の扉が開いて中から二人の女性が現れた。

 エプロンドレスを着たその二人は、玄関の段差をゆっくりとした足取りで降りて、女王候補の前に立った。その様子に気付いたディオとヒバリも、何とか意識をここに戻す。

 エプロンドレスの二人は揃って綺麗なお辞儀をして、「ようこそ、女王候補様」と言った。候補の二人の様子が落ち着いたのを見て取って、騎士が説明をする。

「こちらの者達は、貴女方の宮殿での生活をお手伝いさせていただく、侍女でございます」

 じじょ、と小さな声でオウム返しをしたヒバリに、黒い髪を簡素なカチューシャで留めた方の女性が、微笑んで口を開いた。

「ヒバリ・グラスレッド様のお手伝いをさせていただくよう、仰せつかっております。ユフィー・エルディアと申します」

 ポカン、と開いた口が塞がらない様子のヒバリを流し見て、ユフィーの隣に立つ女性が口を開く。

「スコール・ド・アンリエッタと申します。ディオ・フィリア・グランディエ様のお手伝いを仰せつかっております」

 水色のポニーテールの彼女は、無感動な表情でそう言った。白い肌理の整った肌が、彼女の無機質な感じと相まって、人間味を感じさせない。

 ユフィーが足を一歩引いて、宮の扉を示した。

「お部屋へご案内致します。どうぞこちらへ」

 候補の二人がおずおずと目を見交わせると、ここまで案内してきた騎士は「では、私はここで」と頭を下げた。

「明日の日程は、後ほど届けさせましょう。馬車を遣わせますので、お時間通りにお願い致します」

 女王候補の二人が何が何やら色々と飲み込めないまま、馭者に鞭を繰れられて馬車は行ってしまった。それを呆然とした面持ちで見送った二人を、二人の侍女が再び「どうぞ、中へ」と誘う。

 候補の二人は顔を見合わせて覚悟を決めると、離宮への段差を上がった。


 ☆


「ねえ、あなた。今日、女王候補の謁見をしたわ」

 夫の私室で二人でワインを舐めながら、アンジュ・オートリシュが言った。二人のグラスにワインを注ぐのは、侍従ではなく、マイクロフトだ。

「覚えてる? 前に話した二人」

「ああ、もちろん。君の話す事なら、一から百まで」

 アンジュの夫、ヴィルハイムが上機嫌に答える。「君が森で迷った時に、道案内をしてくれた天使たちの話だろう?」

 少女の様に頬を朱に染めて、アンジュが嬉しそうに笑った。

「あら、覚えてたの? うふふっ」


 それはおよそ一年前。辺境の森を抜けて、首脳会議の為に隣国を訪れようとしていた時だった。

 騎士団に護衛されて馬車で森へ入ったアンジュだったが、御者が道を間違えて、元の道に帰れなくなってしまったのだ。

 その時に連れていたのがレイドックであれば魔法でどうにかできただろうが、生憎その時に護衛を任されていたのはマイクロフトが率いる第一騎士団だった。

 段々と日が落ちてくる。いつまでも森の中で立ち往生している訳にはいかなかった。マイクロフトは部下数人を斥候に行かせたが、戻って来る気配は無い。

 どうしようか、と途方に暮れていた時に、二人の天使が舞い降りた。

 森へ薬草を採りに来ていたという二人の少女に道に迷った事実と行き先を告げると、彼女たちはいとも簡単に馬車を正しい道へと導いてくれた。幸い、斥候に遣わした部下たちともそこで再会する事が出来た。

 女王は礼を授けようとしたが、もうじき日が落ちるから、急いで森を抜けた方がいい、と、二人はそれを辞退した。

 ちょうどその頃、『女王候補を宮殿に迎え入れ、後継ぎを選ぶ』との案が採択されたばかりである。

 女王、アンジュ・オートリシュは名前の分からないその二人の事をすっかり気に入り、どちらかに女王を継がせると決めたのだった。


「あんないい子達、滅多にお目にかかれる事無いわ。ねえ、マイクロフト」

 ワインのおかわりを継ぎながら、マイクロフトは渋い顔をした。

「……少々不安はありますが、あの二人に任せるとしましょう」

 彼の眉間の皺に微笑みながら、両手を胸に当ててアンジュは言う。

「あら、何の不安があるというの? 私達を見守って下さっている女神の意思も、そう言っているのだもの。何の心配も不安も無いわ」

 そして注がれたワインを一口飲んで、思い出した様に、はっと瞳を開いた。

「そう、あなた、聞いて! 今日ディオが、謁見に少し遅れて来たのだけどね、その理由が、木から降りられなくなっていた子猫を助けていたんですって! それを聞いた時、もう私、なんっていい子なんだろうって胸打たれちゃって!」

 グラスを置いたアンジュは、両手を組み合わせた。ヴィルハイムは、妻の熱の入れように若干引き気味である。

「まったく、あの子達の話となったら止まらないな、君は……」

「あなたも実際に会ったら分かりますよ! ヒバリなんかとても愛らしい瞳をしていて、それこそ本当に天使が舞い降りたんじゃないかと思うくらいなんだから……」

 ヴィルハイムはマイクロフトに目配せし、肩を竦める。彼は目を見合わせたが、顔には出さずに息を吐いた。


 ☆


 夕食や湯浴みをすっかり終えた、ヒバリは侍女のユフィー・エルディアに、化粧台の前で髪を梳かれていた。

 肩まであるヒバリの直毛は結う程には長くない。村での彼女達の主な仕事となる薬草狩り際に長い髪の毛が木々に絡まない様に、村の女性達は大半が同じ様な長さにしている。

「ヒバリ様の御髪のお色、本当に素敵です」

 主の髪を優しく梳きながら、ユフィーは歌う様に言った。

 ユフィーの髪の毛は黒かったが、ディオの様なからすの濡れ羽色ではなく、少し赤茶けた黒だ。その髪を簡素なカチューシャが留めていて、彼女の純朴そうな雰囲気とよく似合っている。

 侍女の言葉に、ヒバリの顔がさっと赤くなる。鏡の中の俯いた主人に目を止めて、ユフィーが訊いた。

「どうなさいました?」

 答える主人の声は、微かに震えている。「いえ、何だか、夢みたいな事の連続で。女王様から直々にお言葉を頂いて、あんなに素敵な騎士様達がいて……私なんて、そんな大した人間じゃないのに……」

 鏡の中で主従の目が合う。

「宮殿に通して貰うだけでも凄いのに、こんな立派な離宮を貸して貰って……あなたみたいな可愛い方にお世話をしてもらって、お風呂はめまいがするほど大きいし、ベッドはふかふかで……」

 夢見心地というより恐縮しきった様子のヒバリは、言いながら両手の指をもじもじと合わせている。鏡の中の主人のいじらしさに、思わずユフィーの櫛を持つ手が止まった。

 女王候補達が通された離れは二階建ての二棟構造となっており、両棟にそれぞれ専用の浴室と手水があるとの説明を、侍女に案内されながら受けた。広々とした玄関ホールにある大階段と、一階のこれまた二人で使うには広すぎる食堂が唯一の共用スペースだった。

 それぞれの棟の二階には寝室と応接間があり、どちらも一人で使うにはあまりありすぎる。大体、一介の村娘が応接間など何に使うというのか。

 女王候補達の目眩が一日中収まらない中で彼女たちは何とか食事と湯浴みを済ませて、今はそれぞれの侍女と共に一日を終える準備をしていた。

 ユフィーの髪を梳く手が止まった事に気付いたヒバリは、自身の発言を思い返して慌てて軌道修正をかける。すっかり舞い上がった発言に、ユフィーは呆れてしまったのだろうと思った。

「もちろん、女王候補の責任は重大だし、女王様に選ばれたからにはしっかりとやるつもりです!」

 ところが、ユフィーは鏡を見て嬉しそうに笑っていた。

「私、ヒバリ様みたいな可愛らしい方のお世話が出来て、本当に……心から嬉しいです。少なくとも私には、あなた様は最高の姫君ですわ」

 思ってもいなかった言葉に、ヒバリは恥ずかしそうに顔を覆う。「そ、そんな事……私なんて……」

 再び櫛を動かしながら、ユフィーは鏡越しの主人に声かける。その声は母の様な慈愛に溢れていた。

「謙虚は美徳でございますけれども、名実共に姫君になるかも知れないお方なのですから、そうやって自分を否定ばかりしないで下さいな。それと、私めにはそんなに丁寧な物言いをしなくて良いのですよ。私はヒバリ様の侍女でございますから。グランディエ様を思い出して下さいまし」

 言われて、確かに食堂で会ったディオは侍女相手に砕けた言葉を使っていたのを思い出す。食事時の風景を思い出して、ヒバリは笑った。

 その笑みが何を意味しているのか気付いたユフィーは、無表情に続ける。

「スコールの『あれ』は忘れて良いです。悪い見本ですから」



 広い食堂に体を縮こまらせていた女王候補二人は、それぞれの侍女に椅子を引かれておっかなびっくり席に着いた。間もなく給仕が食事を運んで来て、二人の候補への挨拶もそこそこに卓へと並べていった。

 カトラリーの銀は全て磨き上げられており、候補の二人は侍女の二人にマナーを軽く教えて貰いながら食事を続ける。持つのも恐ろしい程に美しい食器を使うのは緊張して、自然と女王候補の口数は減っていた。

 事が起きたのは、ヒバリがメインを終えてデザートを待っていた時の事である。

「アンタ、何でこんな事も出来ないのよ!? 信じられない!」

 突然上がった声に驚いたヒバリは、飲もうとして口に含んだ水で溺れてしまう所だった。「ヒバリ様! ――もう、スコール。突然大きな声を出さないで」

 ゲホゲホと餌付いているヒバリの背中をさすりながら、ユフィーが卓の向かいにいるディオの隣に非難の目を向ける。

「大体、ご主人様に向かってそんなに声を荒げるなんて……」

「だって、こいつが何回言っても理解しないんだから、仕方が無いでしょう!?」

 そう言ってキッと目をつり上げるスコールからは、初めて会った時の落ち着き払った様子は微塵も感じられなかった。怒りのせいか白い肌に血の気が差して、遙かに人間らしくなっている。

 侍女が上げた突然の大声に目を丸くしたディオの前では、ヒバリがややしばらく前に食べ終えたステーキが見るも無惨な姿になっている。その犯人であろう彼女は、ナイフとフォークを左右逆に構えていた。 

 襟元のナフキンをベトベトに汚しているディオに、ユフィーが頭を下げる。

「ご無礼をお許しください、グランディエ様。ほら、スコールも謝って」

「嫌よ! 何でこんな、マナーひとつ出来ない奴にこの私が謝らなくちゃいけないのよ! 何で私じゃなくて、こんな奴が女王候補なのよ!」

「スコール!」「フンだ!」

 ユフィーの言葉に更に頑なになったスコールは、腕を組んだままそっぽを向いてしまった。色々諦めた様なため息を吐いて、ユフィーは三度ディオに頭を下げる。

「申し訳ありません、グランディエ様! 彼女、育ちが育ちだから、どうしてもプライドだけは高くって……」

「『だけ』とは何よ!『だけ』とは!」

 今度はスコールが声を荒げる。

「いや、まあ、事実だし、気にしてないよ。よく知らないけど、きっと私より彼女の方がよっぽどお嬢様なんだろうし」

 それはヒバリも思っていた。名前に『ド』の音が入るのは、近くも遠くも女王の血族に連なる貴族と聞いた事がある。本人は多くを語らないので確信は無かったが、ユフィーが言うところの意味を考えるとどうやら正解であるらしい。

 手を振ってからからと笑うディオに、スコールは我が意を得たりという顔をしてふんぞり返った。

「ほうら、見なさい! ちゃあんと自分の育ちをわきまえてるわ!」

 もはや、自分の立場を忘れている。立場とかはどうでもいいのだが、勝ち誇った様なその表情はどうにも面白くない。

「…………やっぱり、歯、一本折っていい?」

「ディオ!」

 笑顔を崩さないままに呟いたディオを、ヒバリが嗜める。不穏な言葉と固めた拳に侍女二人はビクリと肩を震わせた。

 ディオが食べ終わらない事には食事は進まない。何はともあれ、この食事の時間のキーマンはディオだ。フォークとナイフの使い方を三人がかりで教わった彼女がステーキを何とか食べ終わった頃には、全てがすっかり冷め切っていた。


 ☆


 夜の帳が降りて、宮殿は静寂に包まれた。

 夜の宮殿の警備は各騎士団が一週間ごとに持ち回りで行っている。この週は第四騎士団が担当しており、騎士達が持ち場に着いている中で、団長であるリヒトは副団長と交代で見回りをすることになっていた。

「団長、時間ですよ」

 副団長が疲れた顔をして休憩室に入ってきて、リヒトは休憩中に片付けようとしていた書類の山から顔を上げた。

「ん? ああ、もうそんな時間か」

 椅子にもたれながらぐいー、と伸びをするリヒトに、副団長は呆れ顔をする。

「団長……そんなに書類をため込むから、こんな時間に焦って片付けなきゃいけないはめになるんですよ」

 夏休み明け前の学生じゃないんですから、と呟いて、副団長は頭を振った。リヒトは座った目で言い返す。

「うるせーな。なんなら手伝ってくれてもいいんだぜ」

「ご冗談。俺は俺で、手配諸々で忙しいんですから」

 副団長は装備を軽くしながら飄々と答える。兜を外して、露わになったアイスランド・ブルーの髪をさらりと流した。

 ほらほら、早く行ってくださいよ、と副団長に追い立てられる様にして、リヒトは装備品を手に休憩室を後にする。上司がいると休めるものも休めないらしい。

 見回りは決まったルートで行われる。通用門へ向かうと、そこを持ち場とする部下二人が、姿を見せたリヒトに形ばかりの敬礼を見せた。

「団長、聞きましたよ」

「女王候補の謁見、サボるところだったらしいじゃないっすか。フランチェスカ様にこっぴどくやられたんですって?」

 部下達がにやにや聞いてきたのを、リヒトは憮然と言い返した。

「お前ら、しょーもない事言ってないで、黙って仕事しろ仕事」

 マイクロフト・フランチェスカの第一騎士団や、レイドック・ヒューゴの第二騎士団とは違い、第四騎士団の部下達はリヒトに砕けた口調を使う。

 尊敬されていないわけではないのだろうが、どうもリヒトの方が部下達の大半より年若いせいだろうか。彼の堅苦しくない性格もあって、軽口を叩きやすいらしい。

「で、どうでした?」

「あ? 何が」

 いつも通り乱暴な調子で聞き返すと、色めき立った様子の二人は代わる代わる喋り出した。

「何がって、その、女王候補に決まってるじゃないっすか!」

「二人ともヴィゼアーダ村の出身だって聞きましたけど……あの村って、狩猟民族の村じゃないっすか。筋骨隆々の女傑がきたんじゃないのかって噂になってますよ」

 あられも無い噂に、リヒトはぐるりと目玉を回す。

「バッカ、お前ら、そんなしょーもない噂話、女王の耳に入ってみろ。話の出所も、話を流した奴も、縛り首にされちまうぞ」

 今回の候補達への、現女王の熱の入れようは、『次期女王候補育成案』採択の会議で嫌と言うほど知っている。女王は森の中で突然現れた天使達に、一目惚れをしてしまったのだ。

「じゃあ教えてくださいよ」「実際に会ったんでしょう?」

 団の中でも特に噂話が好きな二人だ。仕方ない奴らだな、とリヒトはため息を吐いた。

「どうっていっても、街にいる女達と変わらない……いや、見方によっては街の女達よりずっと純朴だな」

 昼寝から目覚めた時の、あの数瞬を思い出す。着ている衣装がどうなるかなど気にせず、木の上で子猫を助けていたディオ・フィリア・グランディエ。

 あの時は気にも留めなかったが、リヒトとマイクロフトの間に寸分違わず降りてきたあの身のこなしは、街の女達には真似できまい。しかも彼女は、国内最強の狩猟部族の長の娘であるという。

 今更気づいた事実に、リヒトはなんだか可笑しくなった。彼からこぼれた笑みを見逃さず、部下達は目を輝かせて聞いてくる。

「あれ、団長なんか嬉しそうじゃないっすか。なんかいいことあったんですか?」「もしかして、思い出して笑顔になっちゃうほど可愛かった、とか!」

 そう言った部下の額を、リヒトは篭手でこつん、と軽く小突いた。

「バァカ、お前はいつまでもそんなオズモンドの奴みたいな事言ってるから、みんなの荷物持ちにされんだよ」

 第三騎士団長、エドワルド・オズモンドの様な女泣かせと一緒にされては敵わない。そしてこの部下は、団の訓練行程でいつも仲間の荷物持ちをされている。

 自分はマイクロフトほど固い頭を持っているつもりはないが、つまりはつまらない話をする男ほど、他人を泣かせるか後で自分が泣くことになるものだ。そういうことだと、リヒトは思う。

 しっかり仕事するんだぞ、と言って右手へ進んだリヒトを、部下達はふわっとした敬礼で送り出した。 


 ☆


 暖かい寝具に包まれていたが、ヒバリは一向に眠れなかった。慣れない寝具に目がさえるのは、仕方が無い。

 何度か寝返りを打つが、眠気のねの字も来る気配が無い。彼女はついに目を開けた。

 暗闇に慣れた目に、カーテンの隙間から差し込む月光がまぶしい。月の光を浴びにバルコニーに出るのは、ただの思いつきだった。どうせこのまま横になっていた所で、眠れそうにない。

 しんと静まりかえった大きすぎる部屋を横切って、身の丈もある窓を開ける。バルコニーに足を踏み出すと、静寂の中、月の光に照らされた見知らぬ庭園がそこにあった。

 知らない庭園。慣れない寝具。足下に引っかかるネグリジェ。

 今朝までとは、自分のいる世界が百八十度変わってしまった。あの布きれで出来た、慣れた寝床が恋しい。

 ――いいや、恋しいのは家族。

 ここには女王がいるが、母はいない。ユフィーがいるが、父はいない。

 こんな気持ちの時に手をつなぎたいディオでさえ、厚い壁を隔てた更に向こうの部屋で寝息を立てている。

 ヒバリはざわざわとした不安を内に閉じ込める様に、その場で手を組んで目を閉じた。

 その時。

「女王の天使様は、何を憂いておられるのか?」

「?」

 聞こえた声に、目を開く。庭園に生えた立派な木が、夜風にそよそよ葉を揺らがせている。その中に瑠璃色の瞳があった。太い枝の一本に腰掛けて幹に背を預けるその姿は、第三騎士団長のエドワルド・オズモンドだった。

「こんばんわ、子猫ちゃん」

「こ、こねっ…!?」

 謁見の時に聞いたのとはまた違う、夜のしじまが似合う優しい声音。不可思議な呼び名も相まってヒバリが顔を真っ赤にして声を荒げると、エドワルドは唇に人差し指をやった。

「声を上げちゃダメだよ、子猫ちゃん。俺の隠れ家がばれちゃうから」

「『隠れ家』って……オズモンド様のですか? この庭園が?」

「そ。庭園っていうか、この時間の、この木の枝。ここから見る宮殿が最高なんだ。月光に照らされて、まるでこの世のものでは無いような儚げな雰囲気になる」

 そう言ってエドワルドは首を戻した。ヒバリも身を乗り出してその方向に目を向ける。月明かりに照らされた宮殿が見えた。昼間とは違った静謐な佇まいに、思わず小さく「本当だ……」と声が出た。

 そのまま気の済むまで宮殿を見つめて、ややあってから体勢をバルコニーの方に戻す。木の枝に腰掛けるエドワルドは、口の端を上げてこちらを見ていた。

 月光に生える深い瑠璃色の瞳に、ヒバリの胸がとくんと高鳴る。

「大切な場所、なんですね」

「ああ。心が安まる」

 答えるエドワルドはまた宮殿の方に目を戻した。そして上の方の木の葉をかき分けて月を見上げて言った。「今夜は特にいい月だ」

「そうですね……」と肯定したヒバリにまた口の端を持ち上げて、彼は居住まいを直す。そうして気が乗ったのか、あるいはただの気まぐれか、少しの間の後エドワルドはぽつぽつと喋り出した。

 高位騎士の仕事は会議に訓練、巡回に警護……上げればきりが無いと言う。確かに国を守る騎士達をまとめ上げる責任のある立場、息つく暇も無いのだろう。ヒバリがそう思った直後に、彼は「息つく暇もないよ」と自嘲気味に言った。

「……私も、」ぽつり、と気がつけば言葉が滑り出ていた。

「……私、も……息もつけなくて……寝付けなくて……」

 ダメだ。これ以上言ってしまっては涙が零れてしまう。ヒバリがそれ以上は言わずに俯くと、エドワルドの優しい声が降ってきた。

「そりゃあそうだ。この一日で世界が全く変わっちまったんだからな」

「無理して自分を押し込める事ぁ、ねェ」優しく言われた砕けた口調に彼の本音を聞いた気がして、結局涙が溢れてしまう。せめて泣き顔を見られない様に、ヒバリはうつむきを深くした。

 そのまましばらく二人で夜風に当たっていた。ヒバリの涙も乾いた頃、エドワルドがふと尋ねる。 

「それにしても、女王候補の子猫ちゃんは、なんでこんな所に?」

「え?」

 その質問が高位騎士の口から出た事に驚き、ヒバリの声が裏返った。

「あの……ここ、私の部屋です……」

 ヒバリが自身の後ろの窓を指さして申し訳なさそうに言うと、一瞬二人の時間が止まった。

 やがて、ポン、と一つ手を打ったエドワルドだったが、その顔がみるみるうちに朱に染まる。

 そして今更ながらに自分の行為の罪深さに気づいて、片手で顔を覆った。

「俺とした事が、女性の寝所に忍び込む様な真似をしてしまうとは……」

 一人で悶絶しているエドワルドにヒバリがきょとんとしてしばし、彼は顔を上げた。青白い月明かりの中、はっきりと分かるほどに顔が赤い。

「――グラスレッド嬢、大変な失礼をした。これを最後に、今後ここには来ない事を誓う」

 言うが早いか身を翻して、枝をひとっ飛びに飛び降り、彼は小走りに立ち去ろうとした。。

「あのっ、私、誰にも言いませんから……だから……」

 言葉はヒバリが思うより早く、口から滑り出ていた。彼の足が止まり、こちらを振り向く。

 今度はバルコニーから身を乗り出したヒバリの頬が、赤くなっていく。彼女自身、どうして彼を止めたのか、分かっていなかった。

 ただ、今を逃したら、もうこの昼間と違う瑠璃色に、会えない様な気がしたのだ。

「……だから……またここで、お話相手になってくれますか?」

 ヒバリが続けたその言葉に、エドワルドの胸の中の何かが疼いた。

 貴婦人や街の女達とは違う純粋な瞳が、精一杯の勇気に震えている。

 その姿がいじらしくて、可愛らしくて、エドワルドはまた、微笑んだ。

「子猫ちゃんの願いとあらば、喜んで。では、来週の今日、この時間に」

 

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