第3話


 どこからどこまでが「生きている」ことになるのだろう。

 息をしていなければ死んでいるのか。爪や髪が伸びなくなれば死んでいるのか。心臓が止まれば、もしくは瞳孔が開けば、それは死んでいることになるのだろうか。

 死を定義するには、まず生きているとはどのような状態であるか定義する必要がある。しかし意外か、その定義はきちんとなっておらず、つまり我々はまだ、生と死の境界を観測することが出来ていない。

 止めよう。最近は、歳をとったのか、余計なことを考えることが多くなっている。仕事に集中しなければ。

 扉を開け、物音のしない病室に足を踏み入れる。そこにはいつも通り、二人の人間がいた。

「先生……こんにちは。今日はいい天気ですねえ」

 ベッドの脇のスツールから立ち上がり、綺麗なお辞儀をする女性、と、ベッドの上で微動だにしない、男性。

 見飽きた配置、見慣れた角度。ここ数ヶ月、全く変わらない光景だ。

「……どうも。良い秋晴れ、ですね」

 男性は、ここに来てから、一度たりとも目を開けたことはない。

 自発呼吸は可能、血液循環も正常。覚醒の機能は保持されている、しかし、意識は戻らないまま。

 俗に言う、植物状態。大脳が死んでいる状態、とも言い換えられる。

 回復する可能性はあるが、意識が失われている期間が長引けば長引くほど、それも低くなっていく。この患者であれば、自立して生活出来るまで治る確率はもう、十もあるかどうか。

「…………」

 容体にも、沈黙に包まれるこの病室も、ずいぶん前から、変わらない。

 女性は、面会時間のほとんどをここに座って過ごしている。男性が目を覚ますのをひたすらに、待っている。

 彼は、医学的には、生きている。日本では、大脳のみならず小脳と脳幹全てが死ななければ、脳死とはみなされないからだ。

 しかし。

 しかし、彼は本当に。生きていると、言えるのだろうか。

 意思のままに身体を動かすことも、自ら口を開き言葉を紡ぐことも、能動的に外界の刺激を享受することも出来ない彼は、果たして、人間として生きているのだと、言えるのだろうか。

 俺は、いや、私には、わからない。

 いくら生命を永らえさせたとしても、本人にはその自覚も、実感も無い。そこにあるのは、生物学的に生存している肉体だけ。

 そして、それを望んだのはこの女性だ。

 毎日ここに通い詰めている彼女は、段々と、正気を失っていっている様にも感じる。それはそうだ、治る見込みも薄い人間の病状を一日中ずっと慮っていれば、気だって滅入る。疲れだってする。救いが、希望が、毎日、分かりやすく目減りしていっているのだ。

 では一体、彼女は、誰を想ってその選択をしたのだろう。何を考えて、恐らく誰も幸せにならないその判断を下したのだろう。

 私とてそれなりに歳を重ねてきた、こんな事も、幾度も遭遇した。

 決して、わからないわけでは、ない、はずだ。その気持ちを察することは、不可能ではないはず、だけれども。

 やはり、私には、わからない。

 いや、わかろうとしてはいけない。いけないのだ。

 ここで、さも分かった風に、理解してあげた様に。決して理解など出来はしない他人の思考を、完璧に把握出来ていると思いあがれるほど。そんな道化を演じられるほど。私は馬鹿ではない。

 かといって。一切歩み寄れないことを知っていながらそんな素振りを見せ、慰めようとするなどという鬼畜の所業をする気にもなれない。それほどに堕してはいないし、そんな下種な行動で満たされるほど私の自尊心は薄っぺらくない。

 彼女の悲しみは、その感情は。それまで生きてきた、歩んできた道筋の全てを含んだ複雑なものであり、彼女の人生そのものが導き出した現在への結論に相違なく。この世の他の誰一人とて、推し量ることなど不可能。慮ることそれ自体が傲慢の髄であろう。

 詰まる所。私にできることは、何一つないのであって。


 私は、それ以上何も言わず、病室を後にした。


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