メイプルハウスへようこそ

若葉エコ(エコー)

第1話

 1


 何処かの除夜の鐘が鳴り、こたつに置いた腕時計のアラームは、新しい年を報せた。

 東京の大学に合格し、この外見だけ洋館のようなアパート「メイプルハウス」に住み始めて、二回目の年越しだ。


 冬休みのバイトも、大晦日と元旦は休み。

 つまり、することが無い。

 なら友人や仲間とでも、遊びなり二年参りなり行けばいい。そう思うかも知れないが、生憎と俺にはそういう仲間もいない。

 かと言って、単身でこの夜中に出掛ける行動力も、残念ながら持ち合わせてはいない。

 怠けている訳ではない。

 単に一人が好きなのだ。


 7畳という、中途半端な広さのフローリングの真ん中。

 そこに鎮座したコタツに入り、年越しのカップそばを啜りながらぼんやりとテレビを眺める。


 画面の中では、めでたいめでたいと頻りに騒いでいる。

 何がめでたいものか。

 ただ「一日」が消化されただけではないか。それがたまたま人の決めた暦の境目だっただけ。


 こよみは、人間が決めたもの、つまり人工物だ。

 従ってその区切りとなる正月や元日も、自然界には存在しない。

 別に元旦じゃなくたって、地球と太陽が自転、公転を止めない限りは陽は昇り、沈む。元旦の日の出は、悠久の時を繰り返してきた中の、たった一回に過ぎない。


 新年は新たなる気持ちで迎える、というのも、あまり理解出来ない。年末だから床屋に行ってきなさい、という理屈も分からない。

 大晦日と云われる昨日と、元日と云われる今日。一体何が違うのか。

 全く以って理解不能だ。

 くだらない。そんなことを考えている俺自身も、まったくくだらない。


 だらだらとテレビを見続けて、いつの間にか外が明るくなっていた。案の定、初日の出はスルーしてしまったようだ。

 と、未だ耳に馴染まない着信音が鳴る。発信源はコタツ布団の下に潜り込んだスマホだ。


「あんた、今年も帰ってこないつもりなのかい。成人式はどうするね」


 久しぶりの着信は、田舎の母親からの電話だった。

 今日は、明けて一月一日。

 新年の挨拶くらいあるかと思ったが、そんな儀式はすっ飛ばして、これである。そんな親だから、俺が新年や元日を蔑ろにするのかと云えば、そうではないけれども。


 それにしても、だ。

 成人式をどうするって、母親だって大体の見当は付いてるだろうに。

 正月どころか、大学への進学でこの街に来てから、一度も帰らなかったのだから。夏休みは、バイトと大学の勉強に費やして終わったし。

 その俺がだ。

 元同級生共に遭遇する危険を冒してまで、地元の成人式なんぞに出席する訳ないだろうが。

 成人式も、他人が決めたもの。式に出席しようがしまいが、当の本人が拒否しようが、二十歳は無慈悲に訪れるのだ。


 とはいえ、ここまで育ててくれた大恩ある母親の寂しそうな声を、まるっきり無視は出来ない。

 妥協案として、記念撮影だけでもしに帰ろうかな。


 × × ×


 中学校の三年間は、ちょっとした地獄だった。

 理由は単純。イジメだ。

 空気の様に、なるたけ存在を消しながら暗黒の時代を過ごした俺にとって、地元の同級生はほとんどが敵か無関係に分類される。

 高校は市外の県立に通ったので、そこで中学時代の縁は断ち切れることが出来たけれど。


 同窓会など、卒業後の関わりは全て拒絶してきた。もとより俺に関わるような物好きなどいるとは思えないのだが、よくも同窓会の案内なんか寄こしたものだ。



 ふと思い出す。

 中学時代、俺と同じように、いや、もっと酷く、苛烈にいじめられていた女子がいた。

 周囲に比べて大人びた雰囲気を持つ彼女は、俺よりも苛烈にイジメの被害に遭っていた。

 彼女は病弱だったのか学校を休みがちで、林間学校や修学旅行も、当然のように不参加だった。


 彼女をいじめていたのは、主に女子たちだった。

 何かにつけて悪口を言い、事件があれば濡れ衣を着せ、さらには彼女の持ち物を、隠したり捨てたりしていた。

 彼女はいつもにこにこして耐えていたが、それは、いじめっ子達の燃焼促進剤にしかならなかった。

 一切逆らわない彼女に対するイジメはエスカレートしていき、ついには直接的な暴力に繋がった。


 ──それは、いつもの如く独りで帰宅していた途中だった。

 富士川の河口近くの河川敷。

 川に掛かる鉄橋の下に近づいた時、悲鳴が聞こえた。

 声の主は、遠目でも分かる。

 数人の女子が立つ中、彼女だけが河川敷に転がってた。


 その時、思わず声の方向へと駆け寄ってしまったのだが、その時の俺の感情は「同類相憐れむ」というやつなのだろうか。

 しかし悲しいかな、俺も彼女と同類、である。


 弱い側の人間だ。


 いじめっ子の前に身を晒して助けるなんて、ヒーローみたいな真似が出来る筈はない。

 お巡りさんこっちです、と鼻をつまんで声を変え叫んで、警察官が近くにいるようにいじめっ子たちに錯覚させるのが関の山だった。

 蜘蛛の子を散らす様に逃げてゆく、イジメっ子女子たちの姿が見えなくなった時、その場には泣きじゃくる彼女しか残っていなかった。

 彼女に駆け寄った俺は、ハンカチを渡して足早に去った──


 確か、そんな感じだったな。その数日後、彼女は転校していったのだが。


 今思えば、情けない武勇伝だ。

 しかし俺の中では、燦然と輝く小さな勲章となっている。そして俺自身にも、あれから少しずつだが変化があった。

 まずは、怒ることを覚えた。

 それから、それまで甘んじて受けていた仕打ちを理不尽と思えるようになり、その気持ちは次第に増大していった。

 そして中学三年の進路相談の時、イジメの事実を新しい担任に打ち明けると共に、隣の市の高校を受験出来るのか訊いた。

 答えは「可能」だった。そして、イジメに気づくことの出来なかったことを担任の先生は詫びてくれた。それだけで当時の俺の溜飲は下がったのだ。


 事実を知った担任は、親身になってくれた。志望する隣の市にある進学校のレベルに対応出来るだけの問題集や参考書を探してくれた。

 分からない問題は、メールで教えてくれた。


 イジメはもうたくさんだ。こいつらイジメっ子が居ない場所に行こう。

 奴らさえいなければ、きっと平穏な生活を送れる筈だ。その気持ちだけを支えに、猛勉強した。


 その甲斐あって、俺は地元から離れた進学校へと進めた訳だ。

 今思うと運が良かったのだが、進学校の生活は平穏だった。

 独りではあったが、ほとんどの生徒が勉強に追われていたので、他人に構う暇も無かったのだろう。

 こうして高校でも勉強を継続し、なんとか偏差値の高い東京の国立大学へと進学出来たのが、一昨年の春である。


 東京での大学生活は、天国だと思えた。

 高校までのようなクラス分けが無く、すべて「個」で解決出来た。条件さえ満たせば、受けたい講義も聴講出来る。

 まあ、そういう大学のそういう学部を選んだのだけれど。

 学生向けに作られたアパートは狭いけれど、家賃は安くて天国だ。


 なんでも昔は、楓荘というアパートだったらしい。大家さんに孫が出来た時に建て替えて、今のメイプルハウスという名前になった。

 話好きの大家さんの弁である。


 大家さん以外の近所付き合いはない。

 人付き合いといえば、たまに教授に呼ばれて研究室で茶飲話に付き合う程度で、他の学生などに対しては、無関心を貫いていればそれで済んだ。

 サークル?

 知らない子です。


 さて、成人式がどうのと考えている内に過去を思い出したのだが、ここである疑問が生じた。


 中学時代の「彼女」の存在である。

 名前なんか覚えていない。

 彼女だけでなく、中学時代の同級生の名前なんかもう記憶から消えてしまっている。

 中学の卒業アルバムなんぞとっくに処分した俺にとって、彼女は永遠に「彼女」でしかない。

 きっと彼女も同様に、俺のことなど覚えていないだろう。

 だが、ふと気になった。

 彼女は、なんという名前だったのだろうか。勉強ばかりしてきた悪癖だろうか、疑問は解消しなければ夢見が悪い質になってしまっていた。

 ふと鏡を見る。

 まあ、大学生になって顔つきも変わったし、身長も平均よりも数センチ高くなった。

 市全体の成人式の中なら、すぐに俺と気づく奴も少ないだろう。

 疑問解消の為に腹をくくった俺は、二日の朝、母親に帰郷の連絡を入れた。

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