普通の二人の物語

白川 慎

本編

政略結婚。


14歳の誕生日、わざわざ政略って言葉がつく意味すらたいしてよくわからないまま婚約者ができた。婚約者は二歳年上の、同じ伯爵位の家の嫡男のかた。物静かなその人と結婚するのだと言われ、そうなのかと思いながら数年たち、もっと条件のいい奥さんが見つかったと婚約が破棄されたのが18歳の誕生日の4か月前。


そうなのねと、それしか思わなかった。物語や友人から聞くようなドキドキもワクワクもソワソワもなにもなかったんだもの、しょうがないじゃない。


18になってから結婚相手を探すというのはなかなか難しい。それも踏まえて元婚約者の家からはそれなりの賠償金を頂いたし、なんならそのお金は私の自由にして構わないと落ち込んだりと情緒不安定になりつつも父がはっきりと言ってくれたので、死ぬまでのんびり田舎の僻地で一人で過ごすのもありかなと思っていた。


「…縁談、ですか?」

一応傷心の身として様々なしがらみから解放された私がのんびり隠居生活を楽しみ始めるやいなや、突然父の執務室に呼び出されて縁談の申し込みが来たと告げられて驚く。しかもお相手は同じ伯爵家でも我が家よりも、元婚約者の家よりもはるかに上の家の嫡男のかたと言われてさらに驚く。父は何やらあまり乗り気ではないようだが、格上の家なら願ったり叶ったりなのではないのだろうか。

「確かに我が家にとって良い縁談ではあるんだが、な。」

なぜか歯切れの悪い父に首を傾げてしまう。家は伯爵位の下の方。容姿も教養も中の中。社交上手なんてお世辞にも言えないほど人付き合いが苦手で、正直アーデス伯爵家の御嫡男と聞いてもどこの誰だかわからないほど社交界には縁も無ければ興味もない。その上さらに婚約破棄をされた娘となれば、夢のような話ではないのだろうか。

「まあ、お前はのんびりしているからな。どちらにしても我が家から断れる話ではないし、とにかく一度お会いしてみなさい。」

いまいち的を得ないながらも頷くと、一通の手紙を渡された。父の許可を得てその場で広げてみると、力強いながらも美しいと思える筆跡が書いたその人をあらわすように踊っている。内容は顔合わせを兼ねて食事に行かないかというもので、アラステアという名前の方なのだとしっかり覚えつつ父に了承を伝えた。


その後2度ほど手紙のやり取りをして、昼食をアラステア様のお勧めのところを予約してくださるという事になり、あっという間にその日を迎えてしまう。夜が明けるなりこちらが引いてしまう程やる気に満ちた侍女に叩き起こされ、湯浴みだマッサージだとしっかり目が覚めないうちから磨き上げられた。朝食で一度休憩時間を与えられたが、父も母もどこか浮かない顔をしている。何か素行が悪いとか評判が悪いなどがあるわけではないというのに、一体何がそんなに気になるのかがわからない。聞けば余計な先入観は持つべきではないとはぐらかすのに、そんなあからさまに狼狽えられるとかえって怖くなってしまう。とにかくこんな訳ありを貰って下さるという奇特な方なのだからいい人だろうと自分に言い聞かせ、ドレスから小物一つに至るまでああでもないこうでもないと白熱した議論を交わす侍女たちにもみくちゃにされて何とか支度を終えた。

「アラステア・アーデスだ。」

約束の時間通りに我が家にいらしたアラステア様は低く心地の良い声で言う。

「ごきげんよう。アラステア様。レティーシャ・ハウストです。以前夜会で一度お会いしましたよね?」

元婚約者と付き合いからどうしても出なければならなかった夜会でお会いした方だとわかり、全くの初対面ではなかったと少し肩の力が抜ける。会ってみてやはり容姿が、とでも言われたらさすがの私でも傷付いて一日部屋に籠ってしまうかもしれない。

「ああ。覚えていてくれたんだな。」

アラステア様は本当に僅かだが口角をあげてくれた。すっと差し出された腕に手を乗せるとゆっくりと歩き出す。アラステア様はからだが大きいので私もいつもより大きな歩幅で頑張らなければと思ったが、ちゃんとこちらに合わせてくださり、とても細やかな気遣いをされる方なのだと思った。

「どうぞ。」

馬車に乗る時もきちんとエスコートしてくださり、とても優雅で落ち着いた身のこなしにどんどん安心してしまう。同時になぜこのような立派な紳士が私のような者を妻になどと望むのだろうかと疑問に思うが、そんなことを口に出せるわけもないので心の中にしまった。


案内されたのはこじんまりとしたレストランで、超高級店などに連れて行かれたらどうしようと思っていた私は心の中で盛大に安堵の溜息をついた。店の奥が個室になっていて、人の視線を気にする必要もなく、話し上手なアラステア様と食べたことのないとても美味しい食事を存分に楽しんだ。食後に少し植物園に寄り道をして、花に詳しいアラステア様にいろいろ教わりながら食後の運動を兼ねて散歩をした。あまりの美味しさにいつも以上に食べてしまったので、腹ごなしにちょうど良かった。

「今日はとても楽しかった。その、また、どこかに誘ってもいいだろうか?」

我が家についてお別れの挨拶を、と思ったところでアラステア様が少し緊張した様子でおっしゃるので、嬉しくなって自然と笑みが零れてしまう。

「うれしいですわ。ぜひ、また。」

アラステア様はほっとしたように眉間のしわを薄くし、私の左手を取って指先に挨拶のキスをしてくれた。なんだかドキドキしてしまって最後の挨拶はぎこちなくなってしまったかもしれない。ただでさえあまり洗練されているとは言い難いのに、もし不快に思われてしまったらどうしようと一人落ち込んだ。

「どうだった?」

普段着に着替えてから父の執務室へ行くと、母と二人で待ち構えていた。

「とても素晴らしい時間を過ごさせていただきました。」

両親の向かいのソファに腰を下ろしてそう答えると、二人は揃ってほっとしたように肩を撫で下ろした。

「アラステア様はとても紳士的な方でしたし、花や木にもとても詳しくて、食後に植物園にも連れて行っていただいたのですが次々と名前やどんな花なのかを教えてくださりました。」

寄り道したことを伝えると、父と母は驚いたように顔を見合わせてしまう。

「ねえ、レティーシャ。」

普段から気弱な母が更に弱々しい声と仕草で私を呼ぶ。何かと思って母の顔を見るが、何か言いづらそうに何度か父をちらちらと見た。

「その、ね。アラステア様、怖くないの?」

やっとのことで聞いた言葉をすぐには理解できず、数秒おいて首を傾げてしまう。

「怖い、とは?」

問いを重ねることはよくない事ではあるが、質問を理解できないのでしょうがない。聞き返すと母は何か意を決したように両手を握った。

「見た目が、熊みたいでしょう?縦も横もとても大きくて、城の騎士にも劣らないほど筋肉がすごいし。それに表情も少なくて、いつも怒っているように顔を顰めていらっしゃる。決して悪いかたではないのだという事はわかっております。次期伯爵家当主として日々とても熱心に執務をこなしていらっしゃるようですし、お父上からの信頼も篤いようです。」

でも、と母は視線を泳がせた。そこまで聞いてやっと両親の危惧を悟る。どうやらアラステア様は見た目が怖いらしい。

「アラステア様とは以前もお会いしましたが、怖いとは思いません。からだは確かに大きいですが、私の歩幅に合わせてくださいますし、エスコートをしていただいても乱暴な素振りなど一度もございませんでした。見た目は、人それぞれ感じ方は違うと思いますが。私はとても素敵な方だと思います。」

はっきりと言い切ると、父も母もあっけにとられたような顔をして、そして次に満面の笑顔になった。

「そうか。よかった。お前がそう言うのであれば大丈夫だろう。あちらから何かない限り、この話は進めてしまって構わないね?」

「はい。私は何も問題などありません。」

即答すれば、父は力強く頷いてくれた。


とんとん拍子に話は進み、両家が一堂に会した席の後で母が極度の緊張から数日寝込んでしまったこと以外は特に問題もなく、心配していたアーデス伯爵ご夫妻にも表面上は歓迎してもらえた。アラステア様であればもっと美しく教養のあるご令嬢でもご縁が結ばれただろうに、私のような不良物件ではアラステア様の御両親は不満どころではないだろうと内心びくびくしていた。内心はそうではないにしてもご一緒させていただいた間はお二人ともとても優しくしてくださり、少しでも認めていただけるように頑張らなくてはと決意を新たにする。


色々な日取りがあまりにも性急だったことに驚きはしたものの、私の18歳の誕生日が1ヶ月後なのでそれと合わせ、結婚式は3ヶ月後のアラステア様の29歳の誕生日にすることに決まった。こんなにも急ぐものなのかとも思うが、私が訳有りだという事実を踏まえれば、これ以上なにか問題が起きないうちにというのも頷ける。


婚約式のドレスは時間的に既製品を手直しするしかなく、その分結婚式のドレスはアーデス伯爵夫人が懇意にしているというお店に掛け合ってきちんと時間をかけた物以上の素晴らしいものを用意してくださるという事になった。正直なところたいした顔でもなければはっきりとした凹凸もないからだなので、既製品を手直しするぐらいでちょうどいいと思っていた。それでも義理の母となる方の申し出を断れるはずもない。丁寧にお礼とすべてお任せするという旨の手紙を書いて送った。


アラステア様の意向で婚約式やら結婚式や披露パーティーなどが軒並ごく近い身内のみでのものになったことは本当にありがたかった。伯爵家の夫人となる身でそうは言っていられないのだが、大勢の人と接することは苦痛だ。可能であれば社交の場には出たくない。どうやらアラステア様も同じような思いを持っていらっしゃるとわかった時は本当にうれしかった。どうしても避けられないものにしか出ないということをアラステア様は言いづらそうにしていらっしゃったが、私にとっては願ってもみないことだ。


ドレスの採寸や私の嫁ぎ先へ持っていく荷物と嫁入り道具の用意などに合せて、まさかの格上の家との結婚で大慌てでマナーやダンスの復習までもが短い期間の中に組まれた。アーデス家の歴史や血縁関係なども覚えなくてはならず、のんびり隠居生活は夢のまた夢と消え去った。寝る時間を惜しんで勉強にいそしみ、人生で一番勉強していると自他共に認める毎日があっという間に過ぎ去っていく。その間を縫うようにしてアラステア様とのお出掛けがあり、私の唯一の癒しの時間となった。

「随分無理をさせてしまって、すまない。」

結婚式を二週間後に控え、婚約時代最後の二人でのお出かけとして王都の美術館に向かう馬車の中でアラステア様が項垂れて呟いた。化粧でなんとかごまかせないかと侍女たちにがんばってもらったが、やはり目の下のクマと頬のやつれはごまかしきれなかったようだ。

「私が今までさぼりすぎていた結果ですわ。もう、本当に、アラステア様の妻となるには至らな過ぎて、こちらこそ申し訳ございません。」

せっかくのお出かけだというのにこんな疲れた姿を見せるしかないことを謝罪すると、アラステア様はゆっくりと首を横に振った。

「あなたはあなたのままでいいんだ。」

そっと右手にアラステア様の左手が重ねられ、私の小さな手はすっぽり包まれてしまう。アラステア様の大きなあたたかい手は安心する。思わず指を絡めたくなるが、それは何とか堪えた。

「ありがとうございます。」

アラステア様の優しさに疲れが薄らいだように感じた。そしてやはり今になってもどうしてアラステア様が私を妻にとおっしゃって下さったのかがわからない。こんなに優しくて立派な方が私のようなものを求めるとは、過去に何かあったのだろうか。社交界には出ていないし、友人とはいっても学院時代の数名と手紙のやり取りしかしていないので噂などまず私の耳には入ってこない。今更アラステア様の過去に何かあったのかなど聞ける相手もいなければ、私が聞き回っていいことでもないと思う。むしろそんな時間があるのであればいまだ読み終わっていない教本を一冊でも読み進めることの方が先だ。

「足元に気を付けて。」

気を取り直して決意を新たにしているうちに美術館の前に付き、相変わらず優雅な所作でエスコートしてくださるアラステア様の手を取る。とてもからだがしっかりしていらっしゃるので、たとえ転げ落ちそうになってもアラステア様であれば難無く受け止めてくれるだろうという安心感がある。その安心感があるからこそ、変にからだに力を入れることなくしっかりとステップを踏んで降りることができる。


美術館でやはりアラステア様の知識の広さに感動し、今までとは違うアラステア様のお勧めのレストランで蕩けてしまいそうなほど美味しい夕食をいただいて、帰りの馬車の中では一人であれば鼻歌までも歌っていただろうという程に幸せに満ちていた。

「レティーシャ。」

呼ばれて隣に座るアラステア様を見上げると、とても真剣な顔をされていたので驚いてしまう。

「必ず、幸せにする。」

何もかもが頭の中からすっ飛んで行った。婚約式の前に正式なプロポーズはしていただいたが、あの時の感動とはまた違う、とてもあたたかなものに心が満たされた。こんな訳ありを娶らなければならないほどの事情を抱えながら、それでもこうして真摯に言葉にしてくださるアラステア様は優しいというのを通り越している気もする。

「私も、アラステア様に少しでも幸せになっていただけるよう、誠心誠意つくすとお誓いします。」

目頭が熱くなるのを瞬きを繰り返して散らし、きちんとアラステア様にからだを向けて姿勢を正してから答えた。不意に腕をとられ、気が付けばアラステア様の腕の中にいた。抱きしめられていると理解した途端に顔から火が出る。

「アラステア様!?」

情けなくも声が裏返ってしまうが、それどころではない。数回手を握られたことはあったが、わずかな時間で離され、こんな風に抱きしめられることなどなかった。大混乱に落ちているというのにたくましい胸板や太い腕、自分よりやや高い体温などしなくていい情報収集を瞬時にしてしまう。

「すまない。」

アラステア様がそう言って離れると、ちょうど我が家についたのか馬車が止まった。心臓が口から飛び出そうなことになっているが、何が何だかわからないままにアラステア様にエスコートされて馬車を降り、そこからまったく記憶がないまま気が付けば翌朝朝食を食べているという人生初の驚愕の経験をした。


緊張でふらつくからだに、豪華すぎるドレスがこれ以上ないほどに重く圧し掛かる。とうとう迎えた結婚式当日。昨夜はほとんど眠ることができなかった。幸い数日前から式に向けて勉強よりも睡眠を取ることを優先したので、クマは酷くはない。ここまで来て悪足掻きをするよりも、式当日に倒れないことの方が大切だという母の忠告に従っておいて本当によかった。

「アラステア様がお見えなのですが。」

もうすぐ式が始まるという時になって侍女が慌てた様子で飛んできた。何かあったのかと血の気が引くが、とにかくお通しするように指示を出して必死に立ち上がって控室の奥から出ようともがく。トレーンもヴェールもとても長く、ドレス自体も上等な絹を金額など想像もしたくないほど贅沢に使っているので、普段動きやすいなドレスしか着ない私は椅子から立ち上がって方向転換するだけでも一苦労だ。侍女たちが数人がかりで裾を持ったり手を貸してくれたりとみんなで大騒ぎになるが、結局椅子から数歩離れたところまでしか移動できない間にアラステア様の方がこちらに来てしまう。花嫁の決まり事として結婚式の3日前から式の最後のキスまでの間、新郎に顔を見せてはいけないという習慣があるためヴェール越しでしか見れないが、アラステア様の燕尾服姿は思わず見とれてしまう程格好良かった。

「すまない。どうしても式の前に声を聞きたくて。」

アラステア様はなぜか気まずそうにしながらいつもより小さな声で呟くように言う。ヴェールがかなりしっかりしているので、アラステア様からは私の顔は見えない。見方によっては大きなシーツをかぶっているようにも見えると言われる状態なので、アラステア様の視線が彷徨われてしまうのはしょうがない事だろう。

「もう支度は終わっておりますので。私もアラステア様とお話ができてよかったです。ここに来てとても緊張してしまって、先程から侍女に何度も気を失うのはすべて終わってからにするようにと励まされていたのです。」

アラステア様の姿が見れてほっとしたこともあり、ついうっかりふふっと声まで上げて笑ってしまう。アラステア様も緊張しているのか、強張った顔でゆっくりと両手を差し出してきた。そっと手を重ねるとお互い微かに震えているのがわかり、同時に苦笑してしまう。

「すまない。俺がしっかりしているべきなのに。これでは余計に不安にさせてしまうな。」

「そんなことはありません。アラステア様が緊張なさっているのならば、私が緊張して当たり前だと少し安心いたしました。」

参列者は両家共にかなり絞っている。極めて近い親戚と、それに並ぶほど親しい知人のみで、教会の席の半分も埋まっていない。例え裾を踏んで転んだとしても何の問題にもならないと先ほど緊張で動けなくなった私にわざわざ心配して様子を見に来て下さったお義母様がたくましく胸を叩いて保証してくださった。元婚約者の時にはどんなときにも緊張はなかったが、アラステア様が相手だとどうしてもこの方の人生に深く関わるという重圧のようなものを感じてしまう。少しでもアラステア様に相応しい妻でありたい。横に並んで見劣りしない自分でありたい。欲を言うのであればアラステア様をきちんと支えられるようになりたいと、おこがましいにもほどがあることを考えてしまうのだ。

「今日まで本当に急がせてしまった。だが、ここからはゆっくりでいい。あなたのペースでかまわないから、俺の妻になって欲しい。」

この方はどこまで誠実な方なのだろうと改めて途方に暮れる思いがする。アラステア様は何か事情があって結婚されていなかったのだろう。でも、私が知った限りこの方にはどこもおかしいところはない。アーデス伯爵家にしてもおかしな噂どころか歴史ある家であり、過去には何人も何人も名を残す武官を輩出している由緒正しい家柄だ。いまもアラステア様の弟二人は国軍に籍を置き、それぞれにすでに頭角を現していると聞く。一度お会いすることができたが、お二人ともアラステア様よりは細いもののしっかりとしたからだをされ、そしてアラステア様と同じくとても紳士的な方だった。嫁などそれこそ選びたい放題だろう。それでも私をというからにはやはり何かしら事情があり、そしてそれは私が立ち入るべきではないのだろう。

「至らないことも多くありますが、宜しくお願いいたします。」

アラステア様からは私の顔は見えないので、表情を見せられない分、今だけは私から重ねた手をそっと握らせてもらう。手の大きさも倍近く違うので、握るとはいってもアラステア様の指を掴むという方が正しいかもしれない。アラステア様も返事を返すかのように握り返してくれ、私の両手はすっぽりと包まれてほとんど見えなくなってしまった。


私と父は操り人形の方がまだましだというほどのぎこちない歩みでバージンロードを進んだ。父からアラステア様に渡され、堂々とした佇まいにほっとしてしまう。母の事は常々気が弱い人だと思っていたが、父のあまりの頼りなさに生まれて初めて不安を覚えた。アラステア様も緊張しているのかいつもより強張ってはいるが、それでも真っ直ぐに前を見るその姿に無条件に安堵を覚えてしまうのはしょうがないことだと思う。そこからは少し落ち着いて立つことができ、ヴェールをあげてもらってからの誓いのキスまではしっかり記憶することができた。ゆっくりと近づいてくるアラステア様のお顔に息が止まってしまった。慌てて目を閉じて唇に柔らかな感触を感じた瞬間、音がしたのではないかと思えるほど爆発したかのように一瞬で全身が熱くなり、そこからの記憶はほぼない。祝福の鐘の音や参列者かたの盛大な拍手、両家の両親の嬉しそうな顔など、とても断片的なものだけが残り、はたと気が付けば湯浴みも何もかもが終わったらしくアラステア様の寝室の大きなベッドの端に腰掛けていた。ドアの開く音に飛び上がるようにして立ち上がり、今までで一番ぎこちない歩みでこちらに来るアラステア様にどんどん緊張が高まる。

「…怖いか?」

手を伸ばさずともすぐに触れられる距離で立ち止まったアラステア様に問われ、少し考えてから首を横に振る。

「怖くはないです。ただ、恥ずかしいというか、申し訳ないというか。」

言葉にしてみて改めて落ち込む。顔だけでなくからだも大したことはないのだ。胸らしきものはある。無理矢理寄せれば谷間もできる。しっかりくびれてはいないが、太っているという程ではないと自分に言い聞かせている。その程度なのだ。

「俺は、正直に言うが、ほとんど女性に触れたことが無いんだ。何度かエスコートをしたことはあっても、その程度しかない。」

驚愕の事実に思わず目を丸くして見上げてしまうと、アラステア様は気まずそうに視線をそらしてしまった。こんな魅力的な方だしエスコートもとても落ち着いていらっしゃったので女性になれている方なのだと思っていた。

「10代のころから見た目が怖いと、女性には避けられていた。そのころは弟たちや友人たちとからだを鍛えて競い合うことにばかり夢中になっていて全く気にもしていなかったんだが、結婚だの跡取りだの、そういう話になってみて初めて周りを見てみたら、女性だけでなく同性からも出会いがしらなどでは驚かれるという状況になっていた。」

アラステア様の独白を静かに聞きつつ、首を傾げてしまう。

「そこまで、怖いですか?」

口に出すつもりはなかったが、思わず漏れてしまって慌てて手で押さえる。決して大きな声ではなかったが、距離が近いのでアラステア様に聞こえないはずがない。アラステア様の視線は感じるが、今度は私が視線をそらす番だった。

「君は、初めて会った時から俺を怖がらなかった。」

何処か嬉しそうな声が上から降って来て、恐る恐る顔を上げる。アラステア様はとても穏やかな表情で私を見つめていた。

「あの夜会で君の婚約者だった男が怖がりながら挨拶を口にする横で、もしかしたら目が見えていないのではと思う程、自然に俺の前に立っていた。」

アラステア様は楽しい思い出を語るような口ぶりだが、そんなことを思われていたなんて、一歩間違えれば頭の足りない子認定をされてしまっていたのではないかと血の気が引く。

「一目惚れっていうんだろうな。レティーシャ・ハウストという名前とあの男が婚約者と言っていたことしかあの日は頭に残らなかった。婚約者というからには、まだ俺にもチャンスはあると。次の日から仕事放り出してあの男と君の事を調べ、家の繋がり以外に二人の間にはないだろうとわかったらもう止まれなかった。あの男が飛びつくであろう女性との間をあらゆる伝手を総動員して繋いだ。あまりに強引なやり方で父にも母にも怒鳴られて罵られたが、どうしても君を手に入れたかった。」

淑女たる者涙を見せてはいけない。家庭教師に言われ、教本にも書かれていたことではあるが、今は涙が零れることなど気にしていられなかった。

「何か、事情があって、私の様な、訳ありを、娶らざるを得なかったのでは、ないのですか?」

言葉が詰まるのをもどかしく思いながら何とか言い切ると、アラステア様は驚いた顔をして、それからぐしゃりと顔を歪めた。

「すまない。俺の言葉が足りず、誤解をさせてしまったんだな。」

大きな手が私の頬を覆って指で涙を拭ってくれるが、思ってもみなかった期待が芽吹いてしまってとても止まりそうにない。

「訳ありにしたのは俺だ。最初から、きちんと君に言うべきだった。家とか跡継ぎとか、そんなことはどうでもよかった。レティーシャ。君が欲しかった。」

止まるどころか勢いを増した涙は、私の視界を歪めてアラステア様のお顔を見え辛くする。

「私、を、求めてくださった、んですか?」

「そうだ。君が欲しかった。」

「私、アラステア様の事、好きになって、いい?」

「どうか愛してくれないか?大切にする。幸せにする。だから、どうか、言葉だけでもいいから愛していると言ってほしい。」

愛しているといいたくて、それでも込み上げる嗚咽に邪魔されて声にならず、アラステア様の胸に飛び込んだ。

「あい、して、ます。」

泣き声なんだか言葉なんだか自分でもわからない声を絞り出す。アラステア様はしっかりと私を抱きしめてくれて、うまく言葉にならない分を埋めようと必死にしがみつく。

「夢じゃ、ない?」

はたと自分に都合のいい夢を見ているのではと思いついて口にすると、アラステア様の押し殺したような笑い声が聞こえた。

「それは俺の言葉だ。夢じゃないよな?」

夢ではないと言い切ってくれなかったことが不安になり、勢いよくアラステア様を見上げてしまう。どっちなのかと言おうとして、唇を塞がれて言葉にできずに終わってしまった。


翌朝、感情に流されてとんでもないことを言葉だけでなく色々やってしまったことに身悶えて、あまりの恥ずかしさに朝の挨拶すらそこそこにベッドから逃げ出した。私はお義母様のところへ逃げ込み、アラステア様はひたすら剣を振っていたそうだ。夕食を終えてもお義母様にへばりついていると、お義父さまからそろそろアラステア様を返すからお義母様を返してくれと言われ、問答無用で寝室に押し込まれた。その夜は会話らしい会話もできないまま終わったが、翌日から二人で少しずつ歩みより、政略結婚すら諦めた私は幸せな結婚生活を送ることになる。

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