悲しい愛
東樹
第1話、スマホと亀のような僕
しばらく音信不通だった友人から職場の方にかかってきました。
僕の仕事はとある飲食店の厨房です。
その時、注文が立て込んでいました。しかし突如連絡が途絶え心配していた相手ですから、無視する事も出来ません。
電話に出たホールスタッフから子機を受け取り、仕事の合間を見て事情を聞くと。スマホを失ってしまったとの事です。
この電話は友人の物を借り、以前、渡しておいた店の名刺を頼りに掛けてきたそうです。
僕は電話相手の友人をシゲちゃんと呼んでいました。三度の飯よりお酒と女遊びが大好きな細身の男です。
僕は連絡が途絶えていたシゲちゃんから電話がきて、安心しつつも「ごめん、スマホなくしちゃった」と、あっけらかんとした態度で答え謝らないシゲちゃんに対し、マッチの火程度の小さな怒りが灯りました。
何故ならその紛失したというスマホというのは、僕の名義で携帯会社と契約し、月々の料金は僕の口座から引き落とされている、言わば僕がシゲちゃんに貸している、僕のスマホだったからです。
「いいよ、いいよ気にしないで」
しかし気の弱い僕はシゲちゃんに文句を言うことは出来ません。
「取り合えず一回会って話をしよう。次の休みはいつ?」
「水曜日、17時からでもいい?」
「夕方か、俺新しいスマホ見たいし、もっと早く会えない?」
営業中、しかもけっこう忙しい時間です。しかも店の電話を使ってプライベートな約束を取り決めていますから、同僚の目が気になってきました。
せめてもの救いは話の相手が男という事でした。僕と話している相手が同姓という事は、最初に電話にでたホールスタッフがよく知っています。
女性と職場の電話を使って話していた、という妙な噂が立ち後ろ指を刺されたら、どんな顔をして出勤していいか、わからなくなってしまいます。
「ねえ、もう少し早く会えないかな?それから飲みに行くのはどうだい?」
「ごめんシゲちゃん、その日、病院に行かなければいけないんだ!」
そう言うと受話器の向こう側の声が一旦途切れました。
「わかったよ。水曜、17時から、待ち合わせは”E”の前で」
電話が終わり僕は静かに受話器を戻しました。病院に行くというのは嘘ではありません。
2年程前から月に2~3回のペースで心療内科に通っていたのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
言った通り僕は昼前に病院へ行きました。心療内科の医師とほんの数分間話をして、処方された薬を薬局で貰い帰宅します。
朝と夜に飲む三種類の抗うつ剤と、寝る前に飲む睡眠薬です。
これらの薬品にかれこれ2年はお世話になっています。しかし改善に向かっている実感は薄く、それは焦りの材料となり、気力は乏しくて虚無感とどす黒い不安に苛まれてしまいます。そして負のエネルギーは心身共に蓄積されていくのです。
まるで綱渡りをしているような精神状態です。ただ病院へ行って薬を貰って帰ってくるほんの数時間の外出だけで、僕の精神を激しく消耗させるのです。
自宅があるアパートに着いた頃にはお昼前でした。いつもは店員が複数人で食べるものと勘違して、箸を2膳か3膳、袋に入れるほどコンビニの惣菜をバカのように大量に買い込んできて、胃に押し込みます。
しかし今日は珍しく虚無感が勝り薬だけ貰って部屋に戻り、ベッドに横になりました。
僕しかいないワンルームのアパート、ガサゴソと物音が聞こえ布団の中で顔だけを動かして、音の正体を追いました。
するとテーブルの上にゴキブリが1匹、蠢いております。
おそらく何日か前に食べて、そのままにしておいたカップ麺の容器の中に、乾いてこべり着いたスープや麺の残りカスに誘われて出てきたのでしょう。
それ以外にもテーブルの上やその回りの床には、散乱したコンビニ弁当の容器や空のビールの缶などがありました。
不潔で不快な気持ちはあります。しかし今の自分にそれらを片付ける気力はありません。それになんだか目眩と耳なりまでしてきたので、じっと目を閉じました。
休みの日はとても好きです。今みたいに体調が悪くなってきても、目を閉じて布団の中でじっとしていればやりすごせるからです。
太陽が少し西の方に移動するまで布団の中で微睡んだ真似をしていたら、だいぶ調子も良くなり、亀が動くように、のそのそとベッドから抜け出す事ができました。
そして適当に服を着て家を出て、シゲちゃんとの待ち合わせ場所に向かいました。
本当の事を言うと、今飲んでいる薬はアルコールとの相性は悪く、禁酒すべき状態にあります。
しかし独り暮らしで恋人のいない僕にとって、気をまぎらわせる物がアルコールしなか無いのです。
そう言うと言い訳がましく聞こえるでしょうが、こういう病気は食欲にも異常が出て、食欲が減退するようですが、僕の場合逆で異常な過食衝動として異常が現れました。
その勢いは食欲が増すというより、お腹が空いていようが、満たされていようが関係なく、食べ物とアルコールを口に放り込みたいという衝動が猛牛の如く暴れるのです。
腹に食べ物を詰め込めるだけ詰め込み、酔いが回ると平静を取り戻す、事はありません。
今度は食べ過ぎてしまい太ってしまう女々しい恐怖感が湧き、トイレでさきほど貪った食べ物を全て吐きいてしまいます。
ある時なんか、近所の居酒屋で一人で生ビールを飲んで今したら、例の猛牛が心の中で暴れだし、そんなに高くもない居酒屋で一人、5、6千円くらい飲み食いしました。
それだけじゃ飽きたらず、その足で近くのラーメン屋に行き生ビール数杯と唐揚げとラーメンを食べ、腹一杯になってもまったく猛牛は大人しくなりません。
今度は某牛丼屋で牛丼を食べ、次にコンビニのトイレで、指を口に突っ込んで嘔吐して、そのコンビニで缶ビール数本と弁当を買って、家に戻ってからまたそれらを胃に放り込みんでから、トイレに駆け込み嘔吐してようやく猛牛が大人しくなりました。
そして抗うつ剤と睡眠薬を服用した所でようやく平静を取り戻すのも束の間、次は猛牛が暴れる代わりに食べ物を粗末にあつかった罪悪感がどっと押し寄せて、ベッドに潜り込んでメソメソと泣くのです。
寂しい感情のまま汚い部屋で、今にも落ちてきそうな天井をじっと見ていると、まるで暗黒の最深部に閉じ込められたような、気持ちになってきます。
すごく孤独でした。
”こんな人間は死んだほうがいいんじゃないか”と思うと、こんな自分が情けなくなってきて、また更に悲しくなり涙が流れてきます。
まるで悲しみの上に悲しみを塗たくるような毎日の繰り返し。
調子の良い日が月に数回あって、行動力や意欲を取り戻す時もあります。しかしそういった健全な気持ちにですら中身がなく、どこか漠然としています。
まるで的がないのに矢を射っているようなもので、すぐに疲弊して狼狽し、虚しさと悲しさがまたやってきて、僕をどうしようもない過食人間にするのです。
そんな僕に、うつ病という姿の見えない敵と、戦う熱意と情熱を与えてくれたのがシゲちゃんでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
《補足》
うつ病の薬を服用していたらお酒は絶対に飲んではいけません。
薬とお酒を一緒に飲んで、すぐに死ぬ事はありませんが、回復をただ遅延させるだけです。
お酒というのは速効性があり飲べば気分もよくなり、うつ病による不安は緩和されます(個人差はあります)。
しかしそれは一時的で酔いが覚めれば元に戻り、むしろ薬の効果を弱らせる分、病気をゆっくりと泥沼の方へ引きずり込んでいきます。
お酒はちゃんと病気を治してから楽しく飲んだ方がいいです。
しかしどうしてもお酒が辞めれないのは、うつ病の他にアルコール依存症の可能性もあるので心療内科の先生に、ちゃんと相談しましょう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます