第5話 マンバとクロル
クロルという名の女の子の所持物となった僕は、てっきりすぐさま苛酷な労働に従事させられると思っていたのだが、彼女は僕をそのようには扱わなかった。
与えられた食事を終えた僕からスープの入っていた器を回収すると、「もう立てる? 無理そうならしばらく寝ててもいいけど」とクロルは僕に言ったのだ。僕は粗悪なベッドから地面に立ってみた。見返すと、ちくちくと肌を刺激していたものは繊維ではなく草そのものだった。どうやらベッドでさえなかったらしい。
枯草だろうか? 茶色くこんもりと積まれた塊の上に僕は横たえられていたわけだ。皮膚に付着した草切れの一部を払っていると、ほとんど固定されていない布がはらりと落ちた。
「あらまあ」
女の子らしく可愛い悲鳴をクロルが上げることはなかった。服を剥ぎ取られた僕にこの布を与えたのは彼女なのだから当然なのかもしれないが、しげしげと見られるのは流石に恥ずかしいものがある。
クロルの黒い瞳が見つめる先を目で追うと、僕の股間は陰毛に覆われていなかった。やはり僕は子どものようだ。同時に下半身全体が視界に入る。そこには右膝が含まれている。
僕の右膝には手術痕がまったくなかった。
角度を変えて眺めてみたが、外科的な侵襲の形跡はどこにもなかった。左足も同様に綺麗なものだ。この両足はどうやらまったくの健康体であるらしい。
「素晴らしい」
僕は呟くようにして言った。口元が緩むのが自分でわかる。顔を上げるとクロルの呆れたような顔が待っていた。
「あんたさ、もうちょっと何ていうか、恥じらいってものがないの?」
「それはそっちも一緒じゃないか? どちらかというと、淑女こそ恥じらうべきだと思う」
「しゅくじょ? 色んな言葉を知っているのねえ」
クロルはニヤニヤ笑ってそう言うと、地面に落ちている布を拾って続けた。「これであんたの服を作ってあげる。ちょっとこっちにいらっしゃい」
長方形の1枚布を体に巻きつけ、肩の上で重なった部分をブローチのようなもので留められた。腰のあたりを紐を使って縛ればフィクションの世界で見てきた“昔の人”といった具合の服が出来上がる。見事なものだと僕は思った。できれば下着が欲しいところだけれど、贅沢は言えないだろう。
「できあがり」とクロルは言った。
僕が目を覚ました枯草ベッドの部屋はどうやら住居エリアではなかったらしく、衣装をあつらえてもらったのは別の家屋の中だった。おそらく家畜小屋のようなところに生死の定かでない子どもが放り込まれ、その所有者となった女の子が布を被せてくれていたのだろう。
世話を焼き、衣類と食料と休息を与えてくれた。たとえ拾った子犬の面倒をみるような行動だったとしても、僕にとってそれは大いなる救いであったに違いない。
実際僕がこの救いに対してどのような反応をするかわからないのだ。無償の好意と言っても過言ではないかもしれない。かつて医療に従事していた者として、この女の子の精神性のようなものに感動していると、僕たちのいる住居エリアに侵入してきた者がいた。男だ。ひとり警戒する僕をよそに、クロルは彼に向かって得意そうに胸を張った。
「マンバ、おかえり。やっぱりこの子生きてたよ」
「ほんとかよ」
男は鋭い目つきで僕を見る。体は大きく精悍な顔つきをしているが、どこか幼さのようなものも感じさせる出で立ちだった。子どもとなった僕から見てそうなのだから、意外と若く、あるいはまだ少年と呼ぶべき年齢なのかもしれない。
「それで、こいつは結局何者なんだ? 面倒事はごめんだぞ」
「身包み剥いだくせによく言うよ。約束だから、この子はあたしのものだからね」
「はいはい、おれは何もしないからな、お前が勝手に育てるんだぞ」
野良犬を拾ってきた子どもに対するような口ぶりでそう言うと、マンバは肩から提げていた鞄のようなものを机に置き、椅子にどっかりと座ってその中から水筒を取り出した。僕が先ほど与えられたものと同様のものである。栓を抜いて喉を潤し、手の甲で口元を拭いながら僕を強く睨みつけた。先ほど答えの得られなかった質問を僕に投げつける。
「それで、お前は何者なんだ?」
「それが、何て言ったらいいのか、僕にもよくわからないんだ」
肩をすくめてそう言う僕を、マンバは強く睨みつけた。「はあ? 殴られたいのか? 何だその口の利き方は」
言われて僕は自分が子どもになっていたことを思い出した。すこぶる生意気な態度を自然と取っていたことだろう。この野性味あふれる男に殴られたら前歯がすべてなくなってしまってもおかしくない。僕は素直に謝罪した。
「ああ、えっと――すみません。自分でもよくわからないんです。気づいたらここにいて、クロルさんに介抱されていました」
「クロル、こいつ何言ってんだ?」
「あたしもさっき訊いたんだけど、よくわかんないって言われたわ。街の人かどうかも教えてもらえなかった」
「怪しいことこの上ないな」
マンバは大きくひとつ息を吐き、黙って僕を睨みつけたまま腰のあたりに手をやった。彼の体と椅子と机で見えないが、何かを取ろうとしている。おそらくプレゼントをくれるつもりはないだろう。
はたして再び目に入ったマンバの右手にはナイフのようなものが握られていた。
「ちょっと! あたしのだからね」
「それはこいつの態度次第だ。何が目的でこの家にもぐり込んできたのか調べにゃならん」
マンバは慣れた手つきでナイフを握り、刀身の腹の部分で自分の膝をトントンと叩いた。左手で水筒を傾ける。「大人しく話す気にはならないか?」
「もぐり込むも何も、僕は気づいたらここにいたんですけど」
「知ってるさ、お前を見つけて拾ってきたのはおれたちだからな、しかしお前はあの時死にかけていた、というかほとんど死んでいた、それがまだ昼の鐘も鳴ってないんだぞ、そんなに元気でいられる筈がない、わざと死にかけた振りをしていたんじゃないのか?」
精悍な顔つきで鋭く睨みつけてくる、今の僕と比べて明らかに屈強な男は僕にそうまくしたててきた。何とも答えようのない当然の疑問に対して僕は困り果てる。
「――気持ちはわかりますよ。当然そう思うだろうと僕も思います。でも、本当に自分でも何が何だかわからないんです。確かに僕はすっかり元気ですけど、最後に覚えているのは、どこか別の場所でとにかく苦しくて死んでしまいそうだったということです。そこには母らしき人や父らしき人がいて、僕を看病してくれていました。でも助からないんじゃないかというようなことを話していた気がします。そして気づいたらここにいました」
このよくわからないが何かの判断を誤ったら死に繋がりかねない状況で、僕に許された選択は『正直でいる』ということだけだった。より正確に言うなら『嘘をつかない』ということだ。僕の与えた情報がどう判断され、どのような利益・不利益に繋がるかはわからないが、少なくとも何かを偽ってそれが後に判明するよりは良い結果となるだろう。
あえて伝えない情報は、ついさっきまで医師として成人男性の生活を営んでいた筈だということだけで、おそらくはフィアマの行動に引きずられるようにしてこのような状況に陥っているということだ。これは隠しているわけではない。訊かれていないので話さないというだけだ。少なくとも現時点では。
「ねえ、嘘はついてないんじゃないの?」
膠着状態のようになってしまった僕に対する嫌疑について、クロルはマンバにそう言った。彼は唸り声を上げながら、それでも僕を信用することができないのだろう、苛立たしげにナイフの腹を指でトントンと叩きつづけた。
「本当に自分でもよくわかってないのかも。まだ子どもなんだし、たぶんそこそこお金持ちの家の子なんでしょ? それまで街から出たことがないんだったら、自分が街にいたことすらわからないもんじゃない? 別世界に迷い込んだように感じるのかもよ」
「――確かにな。ブレスがなければろくな働き方ができないからな。ありえないことじゃないかもしれない」
僕の生殺与奪権をもつ兄妹の間で交わされる会話を僕は見守ることにした。どうやら即座に殺されることはなさそうだからだ。変な介入を行って流れが変わる危険や、ほかの答えようのない質問を浴びせられる危険をあえて冒す必要はないだろう。
「とにかくあの子はあたしのものなんだから、そもそもマンバにそれをどうこうする権利はないでしょ」
「仕方ないな、そういうことにしといてやろう。――怪しい素振りを見せない限りは」
話は終わろうとしているようだ。マンバはナイフを腰に付いた鞘に納め、水筒を大きく傾けた。
「お前、名前はなんていうんだ?」
「ミノレです」
「ミノレか。まあとりあえずよろしくな。おれはマンバだ。こいつはクロルで、お前はクロルのものらしい。知ってるな?」
「知ってますよ。よろしくお願いします」
「これも知ってるかな? お前が肩につけたブローチは、うちにとって割と大切なものなんだ。できれば返していただきたい」
僕は驚いて自分の左肩に目をやった。クロルが付けてくれたブローチが鈍く光っている。マンバはクロルを睨みつけた。
「――ごめんなさい。でも、ほかに留めるものを持ってなかったの」
「おれのピンを貸してやってもいいし、ずっと面倒みるつもりならちゃんと服を縫ってやれ。これはだめだ、こんな子どもに持たせてたら、そのへんのクソガキに殴って取られて終わりだぞ」
どうやらクロルはなけなしの財産といえるような装飾品を、拾って自分のものにした僕につけていたらしい。ひょっとしたら、先ほど僕をひどく警戒していた原因のひとつがこのブローチだったのではないだろうか。だとしたらこのブローチが憎いというものだ。
肩についたブローチを軽く引っ張って固定のされ方を観察すると、ピアスのキャッチのようなものでピンが固定されているようだった。ピンに貫かれた布がなるべく傷まないように注意深くキャッチを緩め、ピンをそこから取り除く。うまくいった。キャッチで再びピンを納めると、僕はそれをクロルに手渡した。
「大事なものだったんだね、ありがとう」
「あたしはよかったんだけどね。それに、あんた結構似合ってたわよ」
懲りていない様子のクロルはそう言うと、マンバに咎められる前にそそくさと移動した。ブローチを元々の保管場所にでも置いてくるのだろう。
肩の固定を失った布がひらりと上半身から落ちていく。腰のところを紐で固定していなければまた全裸を晒していたかもしれない。僕からブローチを取り上げた形になったマンバは少しばつが悪そうな顔をした。
「仕方ねえな。おれの古着を1着やるから、それをとりあえず着ることにしろ」
そう言ったマンバはしばらく僕を待たせると、一揃い着るものを用意してくれた。膝のあたりまである細身のシャツを腰のあたりで紐で縛り、どちらかというとサンダルに近い草鞋のような履きものを与えられる。パンツというより股引に近い下着は比較的清潔そうなことが有難かった。
「――ありがとうございます」
僕がペコリと礼をすると、「なあに、それ全部よりお前の服の1枚の方が高かった」とマンバは肩をすくめて口だけで笑った。「実は礼を言うのはこっちの方だ」
そういえば彼らは僕の身ぐるみを剥いで売り払ったようなことを言っていた。そこそこ金持ちの家の子で、街から捨てられた存在だと思っているような口ぶりだった。どちらもその剥された身ぐるみから察した情報だろう。
「そういえば、何か買ったの?」
戻ってきたクロルが訊いた。マンバは鋭い目つきを和らげ、“満面の”と表現すべき笑顔を浮かべた。
「もちろん買ったさ。ピエルナスだ」
「ほんと!? やったじゃない!」
「やったんだ。これでおれも球師になれるかもしれない」
「お父さんに近づけるね」
「それだよ」とマンバは言った。
ピエルナスとは何だろう? 文脈上職業名のように思われるが、タマシというのもわからない。僕にはわからないことだらけだったが、わからないことをすべて訊くのが新たな疑惑を呼び込む事態は歓迎できないため、僕はその疑問をぐっと飲み込んだ。
「どこにいるの?」とクロルが訊いた。
「その中だ」
顎をしゃくって机に横たわった鞄の方を指し示す。言われてみれば鞄の中で何かが動いているのに僕は気づいた。
この動きの主がピエルナスというものなのだろうか。だとしたら動物の名前ということになり、家畜か何かの一種だろうか。
マンバの鞄はトートバッグのように大きく口が開いている。そこからのそりと何かが這い出てきた。とても緩慢な動作だ。どうやら動物で間違いなさそうである。
「すごい。これがあたしたちのピエルナス?」
「そうだ。これがおれたちのピエルナスだ。やっと個人練習ができるんだ。選考にも出られる。おれは必ず球師になってみせる」
「マンバなら絶対できるよ。頑張って!」
「もちろんだ」とマンバは言った。
ふたりは俄然盛り上がっており、僕はすっかり蚊帳の外だった。蚊帳の外から彼らのピエルナスとやらを観察する。アルマジロのような見てくれの生物で、しかし暗い緑色をしているため印象がずいぶん違う。可愛く見えないこともないだろうが、愛玩用ではなさそうだった。
これを使って練習をする? 僕にはまったく意味がわからなかった。
「本物を近くで見るのははじめてか?」
上機嫌な様子でマンバが訊いてきた。この疑問を肯定するのはさほど不自然な流れではないだろう。「ええまあ」と適当に相槌をうって小さく頷く。のそのそと動くピエルナスの頭部を掴んで鞄から引きずり出すと、マンバは深緑のアルマジロを地面に向かって叩きつけた。
「な!?」
驚愕する僕をよそに彼ら兄妹は平然としていた。ようやく手に入れた未来への希望といった具合の歓迎ぶりからは想像もつかない態度である。
床に叩きつけられたピエルナスに目をやると、そのアルマジロに似た生物は、アルマジロのように丸くなっていた。
「これでわかるだろ? ピエルナスだ」
マンバは笑ってそう言った。僕はピエルナスから目が離せない。
おそらく“タマシ”は“球師”と書くのだろう。丸くなったピエルナスは、暗い緑色をした球体だった。僕の知るサッカーボールやバスケットボールくらいの大きさだ。
座ったまま器用に足を使ってその球体を宙に浮かせると、マンバは両手でキャッチした。僕たちが部活で行うボールの空気圧を確認するような動作を行う。満足げに大きくひとつ息を吐き、彼は球体を地面に弾ませた。
どんな仕組みでその弾力を保っているのだろうか。ピエルナスという名の深緑のアルマジロのような球体は、地面から跳ね上がってマンバの手に再び収まった。
「やろうか」
マンバがニッと笑いかけてくる。僕は反射的に自分の右膝に目をやり、そこにいかなる障害も存在しないことを再確認する。
「もちろん」と僕は言った。
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