第2話 協力要請

 

 職業柄、患者やその家族に感謝されることは少なくない。


「先生に会えてよかったです」


 嬉しいことにそんなことを言われた経験も僕にはあるが、治療前の患者に隔離室内で告げられたのは流石にはじめてのことだった。


 さらに、この出会いが幸運であると伝えてきたのは若く美しい外見をした女性で、彼女はマットレスにまっすぐ座って僕を見ている。僕は努めて平静に会話を続けた。


「それはよかったですね。僕も会えてよかったと思っていますよ」

「ほう。君も感じられるのか?」

「感じる? 何をです?」

「神力をだよ」

「シンリキですか。ええと、先ほど仕事内容を話していたときに言っていた、あなたが研究されてるものですかね」

「その通りだ」フィアマは満足そうに頷いた。「君は神力を感じるか?」


 その視線のまっすぐさと瞳の美しさに僕は少し戸惑った。語り口に真実味があるとでも言えば良いだろうか、若手であるとはいえ精神科を専攻してこれまでに培ってきた経験の中で、こんな戸惑いははじめてである。


「どうですかね、あまりよくわかりませんが」


 妄想を語る患者への反応として無難な、肯定も否定もせず話の続きを促すような返答を僕はした。フィアマは「そうだろうな」と小さく頷く。「この世界では神力とはまた違った力をうまく活用しているようだ。必要のない能力は衰えるものだし、君がそうなってしまったのも無理はない」


 シンリキなるものを研究するというフィアマは、しかしそれを感じられない僕に優越感をもつわけでもないのか、淡々と言葉を続ける。僕は肯定にも否定にも取れない発言をしているわけだが、それに対してじれったさや物足りなさを感じる素振りも見受けられない。


 フィアマの態度からは通常の判断力が備わっているような印象を受ける。カタカナの名を名乗り、キャラクターじみた言葉遣いでシンリキの話題について話すのでなければ、知性的であるとさえ言えるかもしれない。僕は彼女の話を深掘りして聞くようになっていた。


「それで、そのシンリキでは何をすることができるんですか?」

「色々だよ。元々は小さな力だったらしい。しかしわたしたち僧侶の研究により、今では様々な局面で活用できるようになっている。中にはその精神を別の世界に転移させられる者も出てきたというわけだ」

「それがあなたというわけですか?」

「そうだ」

「凄いですね」

「わたしは凄いんだ」とフィアマは言った。


 しかしその落ち着いた態度からは自尊心がくすぐられた様子は感じられず、当然そうなのであり、今更何者かの証明を必要とはしていない、といった雰囲気を変わらず彼女はまとっていた。病識がない、つまり自分が病気であるという自覚がない状態で精神科病院に入院となり、隔離室に入れられた患者が入院当日にこのような態度を取ることは難しいだろう。


 どんなに強烈で確固たる妄想を抱いていたとしても、それが自分や周囲に悪影響をもたらすものでなければ問題とはならない。彼女が現在こうしているのは入院前にトラブルが生じ、今自殺を望む意思を口にするからだ。


「フィアマさんはそんなに凄いひとなのに、どうして死にたいと思うんです?」


 だから僕はそう訊いた。この不思議な美女の頭の中の世界に興味が湧いていたのかもしれない。彼女は少し驚いたような顔で僕を睨んだ。


「聞いてなかったのか? あちらに帰るためにだよ」

「そういえばそうでしたね。ええと、たとえばこちらに来たのと同じ手段で戻ることはできないんですか?」

「もちろん試した。でもだめだ。ほかにも試してみたが、ここではわたしは神力を使うことができないらしい。おそらくこの体がふさわしくないのだな」

「今は使うことのできない力を使ってここにきたというわけですか?」

「そのようだね」とフィアマは言った。「命あるものはいずれ滅ぶわけだから、天寿を全うするのを待つというのも悪くはないが、それには気の遠くなるほどの時間がかかる。手っ取り早く死なせてくれると助かるのだが」


 シンリキという力を使ってこの世界に来たのはいいが、この世界ではその力を使うことができないらしい。死ねばあちらに帰れるのだという。ヘンテコな設定ではあるけれど、明らかな矛盾はないようにも思えるところが悩ましい。


 こうして肯定も否定もせずに話を続けさせるのは、その主訴の中から精神的疾患の種類のようなものを鑑別し、それぞれにふさわしい治療を施すためというのが目的のひとつだけれど、中には語っている内に病状が改善してくるケースも確かに存在する。それは稀なケースでとても不思議なことだが、精神科領域における患者との対話はそれ自体が治療となる可能性があるため、十分な時間をかけ大切に行う必要があると僕は考えている。


 僕はフィアマとの会話を続けながら、出会いの幸運について説明されていないな、とぼんやり考えた。


「ところで、僕と会えて幸運だったと言ってましたが、それにも何か理由というか根拠のようなものがあるんですか?」


 それとも単なるフィーリングのようなものですか、と言外に含めて僕が訊くと、フィアマはニヤリと笑った。最初に僕を見たときの笑顔だと僕は思った。「そうだった。わたしはそれを話して君の協力を得なければならない」


「僕の協力?」

「そうだ。何か条件があるなら言ってくれ。わたしに協力して欲しい」

「僕は医療従事者ですから、もちろんできることならお助けしますよ。ただ、何でも、というわけにはいきません。僕にできることなら考慮します。できないことは、どんな条件を提示されてもできません」

「――すると、元々できることに関しては、何も対価はいらないと言うことか?」

「そうですね。対価というか僕の望みは、言うならフィアマさんがちゃんと良くなってここから出て、幸せに暮らして欲しいということですよ」

「そうか。立派な考えだ。神力もあることだし、あちらの世界に生まれていれば是非僧侶になってもらいたいたかったものだな」

「それは残念ですね」


 僕は笑ってそう言った。フィアマも薄い笑顔を浮かべ、僕たちは短い時間だが黙ってお互いを見つめ合った。うぬぼれでなければ一定の信頼関係を築けたのではないかと思う。目線の高さを合わせるためにしゃがんでいた足が少ししんどくなってきた。僕の右膝は怪我の影響でやや不自由なのだ。


 不自然な体制を強いられていた脚部の緊張をほぐすために立ち上がって背伸びをし、「まだ死にたいなと思います?」と僕はフィアマに訊いてみた。


「いや、君が協力してくれるなら問題ない。おそらく君の神力を利用すればあちらに戻れることだろう」

「僕のシンリキ?」


 聞き逃していた。僕のシンリキとは一体何のことだろう? 先ほど僕にはそれがあると言っていた気がする。


「自覚はないかもしれないが、君は神力を持っている。かなり強い。こんな状態で破綻することなく、よくコントロールできているものだと思うよ」

「そうなんですか、僕にシンリキが。すると、僕も別の世界に移動ができるんですか?」

「それは無理だね。君には技術がないだろう。――しかしわたしには技術がある、この体には神力がないのだがね、そこで協力が必要なんだ。君の神力を使って転移させてもらおうと思っている」

「転移。ここからいなくなっちゃうんですか? それは困るな。入院患者が突然隔離室内で消えたなんてことになったら病院中が大騒ぎですよ」


 少しおどけて僕が答えると、フィアマは真面目な顔で考えに沈んだ。やがて彼女は顔を上げ、ゆっくりと言葉を選ぶように並べていく。


「上手に移れば、おそらくそのような痕跡は残らない。世界には“遊び”のような余裕があって、矛盾しないようにできているんだ。わたしがここに来たときも、このような、この空間にとって自然な体が用意され、君たちと意思疎通が可能な言語を操れるようになっている。わたしが転移で消え去ったとしても、おそらく君たちに大きな迷惑はかからないものと考えられる。わたしは元々存在していないような扱いになるのではないかな」

「そうだといいですね」と僕は言った。


 この女性の話のどこまでが妄想によるもので、どこからがその妄想を元に自分で考え出したストーリーなのだろう?


 一般的に、疾患に由来する妄想の話は突拍子もないものが多く、整合性が取れていないものがほとんどだ。その滅裂な内容に疑問を持たず否定することができないというのが病状であるため、たとえば抗精神病薬などを使ってその病気の部分をケアしてあげれば、あとは自分の力で快方に向かうというのが治療のイメージとなる。


 しかし、フィアマの話す内容は荒唐無稽なものではあるのだが、その中に一定の論理性のようなものが存在するようにも感じられた。このすべてを妄想自体が構成しているとは考えづらい。薬剤によって脳の異常なシグナル伝達を調整し、“病的な”妄想を生じさせないようにすることは期待できるかもしれないが、自分で望んで作ったストーリーを否定することがどれだけできるだろうか?


 そのように考えたところで、そんな必要はないということを思い出した。日常生活に害とならないのであれば、あらゆる思想は自由である。彼女の問題は入院に至ったようなトラブルを起こし得ることと、隔離室に入る原因となっている希死念慮の存在だ。


 僕の協力を得られれば死ぬ必要はないとフィアマは言っていたので、適当に調子を合わせてシンリキの研究とやらをしてやればよい。それで“死ぬ”関連の言動が落ち着けば隔離室からは出られることだろう。作業療法などを通じて社会生活にある程度の適応をさせれば退院の目途もついてくる。


「協力って、具体的にどうすればいいんですか?」

「わたしも他人の神力を使うのははじめてだからな、手探りで色々試す必要があるだろう」

「それじゃあまた来ますから、そのときまでに具体的な方法を考えておいてください」

「承知した」


 フィアマは頷きそう言った。「ありがとう。協力に感謝するよ」


「内容によりますけどね」


 意外なほど素直な感謝の言葉に驚きながら、僕は隔離室の扉を閉めた。


○○○


 時間内はどっぷりと働き、定時を迎えた僕は速やかに病院を後にした。当然派遣元の大学病院に立ち寄ることなどはせず、しかし今回一風変わった症例を担当することになった今夜はなんとなくそのまま帰る気がしない。


 そこで『マカロニ』へ向かうことにした。品ぞろえをコロコロと変えるため前回気に入ったメニューを次回食べられるとは限らないという意味不明な趣向を凝らしているが、全体的なパフォーマンスが気に入り足繁く通っている飲食店だ。常連と言っても良いだろう。


 地理的に『マカロニ』からそんなに離れていないところも派遣先の病院の優れた点だ。定時に上がれることもあって、僕の『マカロニ』出現率はこの春からむしろ高くなっている。


 カランカランとドアについた鐘が鳴り、僕の来店を店内に告げる。カウンターにはいつも通りの光景が広がっている。棚に並んだグラスを磨いていたらしい店長である西片にしかたさんは僕を見るとニコリと笑った。


「いらっしゃい。今日は早いね」

「まっすぐここに来ましたからね」


 店内にほかの客はいなかった。僕はカウンター席に腰かけ、今日出せるメニューの書かれた黒板に目を運ぶ。オススメ欄に大きく“肉”と書かれていた。


「“肉”って何です?」

「実は良い肉が入ってね、鉄板焼きにしようと思ってるんだ。旨いよ、先生」


 西片さんはそう言いニヤリと笑った。僕が医師免許を獲得してからというもの、この人は僕のことを先生と呼ぶ。やめてくれと言っても聞かないので放置している次第である。


「じゃあお任せで、適当に焼いてください。それとビールを」

「かしこまり~」


 珍妙な返事と共に西片さんは料理に取り掛かり、僕の前にお通しのポテトサラダと生ビールが用意された。滑らかな舌触りのポテトサラダを楽しみながらビールをひたすら飲んでいると、焼かれた前菜的なものが皿に乗せて並べられる。


「野菜と、しめじ、こんにゃくです。軽く塩を振ってますので、味が足りなかったらこちらのタレをご使用ください」


 不自然なほど慇懃な態度でそれぞれを説明する西片さんに僕は思わず笑ってしまった。


「なんですかその感じ」

「良い感じの鉄板焼き屋ってこんなマスターのイメージなんだけど。だめかな」

「完全に馬鹿にしてるように見えますよ。まあでもいいです、面白いから」

「アリかな?」

「アリです。どうぞ続けて」


 僕は良い感じの鉄板焼きに処された野菜を口に放り込み、ビールを飲んだ。ジョッキが空くと自動的におかわりされる。阿吽の呼吸というやつだ。ヘンテコな店の常連の特権である。


 ふざけたような態度であるが、腹が立つほど美味だった。焼き方に秘密でもあるのだろうか? ただ焼いて塩を振っただけですという様子のこんにゃくがこんなに旨いとは信じられない。


「どうだい?」メインの肉を焼きながら西片さんが問うてくる。

「とても美味しいです、悔しいことに。ビールが進んでしまいます」

「それはよかった。是非売り上げに貢献してくれたまえ」


 西片さんは鉄板の上でお肉をフランベさせた。お好み焼きに使いまわしてそうな大きなヘラの上に肉を乗せ、フランス料理に被されているようなイメージの覆いを使っているが、ヘラのせいで微妙な隙間ができている。おそらく何かに必要な隙間か、ただのカッコつけでしているかのどちらかだ。


 スナップエンドウの一部を試しにタレにつけて食べてみると、これも実に旨かった。焼き野菜だけで飲めと言われても十分可能と思われる。2杯目のビールを空けたところでカランカランとドアについた鐘が鳴り、新たな来客を僕らに知らせた。


 何の気なしに入り口を見ると、そこには常連のひとりが立っていた。スラリとした細身の美人で、少し酒の入った僕にフィアマの容姿を連想させる。


「おや先生、今日は早いな」


 上機嫌なのだろうか、河相さんはそう言い薄く微笑んだ。

 

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