精神科医転生

柴田尚弥

第1話 入院患者

 

「ソチだ」と声をかけられた。


 かつての冬季オリンピック開催地が頭をよぎったのは今朝の朝礼後に行われた雑談の話題のせいだろう。今日から新しく僕の指導医を務める先輩が精神科医になったきっかけとして、ロシアのリプニツカヤを語ったのだ。この若くして現役を退いたフィギュアスケートの選手は引退の原因に拒食症を挙げていて、彼女の熱心なファンだった先輩は精神科医になることを決意したらしい。


 もっともらしい顔でそんなことを語る彼に、「でもソチ・オリンピックって2014年ですよね。計算合わなくないですか」と声をかけた僕は医局長に笑われた。


「今こいつが長々と語った動機は全部嘘だ。真面目に聞いて損したな」

「ああちょっと、バラさないでくださいよ。これからなんとか帳尻を合わせてどこまで騙しとおせるか頑張ろうと思ってたのに」

「嘘なんですか」と僕は言った。「いったい何のためにそんなことを」

「ディベートの訓練だよ。おれは1日1個嘘をつくことに決めている」


 先輩はそう言い、ニッと笑った。いったい何のためにそんなことをするのだろう、この人自身も何か精神的な疾患を持っているのではないだろうか。そんなことを考えていると、「――というのも嘘だ。別に毎日困らせたりはしないから、ま、よろしくな」と先輩は僕の肩を叩いて言ったものだった。


「よろしくお願いします」注意深く愛想笑いを浮かべ、僕は先輩と握手した。


 僕の身分はレジデントだ。1年間の期限付きで大学病院から民間病院に派遣される若手医師で、民間病院ならではの症例を経験して指定医の資格を得るための要件を満たすのを目的としている。それさえできればあとはせいぜい派遣先の病院の利益になるよう精一杯奉公してきなさいというのが実態で、2-3ヶ月程度を目安に指導医を変え、様々な先輩方にご指導ご鞭撻のほどを乞うて歩くわけである。


 それが「ソチだ」と声をかけられた。「オリンピックですか?」という返しはつまらなすぎて許されない。措置入院のことだろう。入院形態の一種で、自傷他害のおそれがある人が発見された場合に行政の権限で入院させられるものである。僕にとっては期限内に必ず経験しなければならない患者のひとりが来たわけだ。


「いくぞ」と先輩は僕に伝えた。僕は小さく頷いた。


 どうやら患者は既に病院に連れてこられているらしく、僕は措置入院引き渡し時の診察には立ち会えなかったことになる。とりあえずこの患者で経験を積んでおけということなのか、その辺は誤魔化してこの症例でレポートを書けということなのか、どういうつもりでそうなったのかは確認しなければならないだろう。


 しかしとりあえずは目の前の患者を診るのが大事なことだ。僕は先輩の後ろについて廊下を歩く。


「患者の名前はフィアマさんだ」と先輩は言った。「カッコカリだけど」

「カッコカリって何です?」


 そう訊く僕に、先輩はカルテを手渡した。氏名欄に“フィアマ(仮)”と書いている。僕の眉間に皺がよる。


「どこの国のひとですか?」

「わからない。見た目は日本人、日本語を話せる。ペラペラだ。しかし名前はフィアマとしか言わず、生年月日も住所も身寄りも職業も、何もかもがわからない。答えはするけど埒があかない」


 僕は言葉を失った。「――そんなことって、あります?」


「あまりないね」と先輩は言った。「少なくともおれははじめてだ」


 フィアマは椅子に座っていた。拘束されているわけではなく、僕には落ち着いているように見える。若い女性だ。美人と言って良いだろう。あまり外国人には見えない。


「こんにちは」と先輩は彼女に声をかけ、僕もそれに倣って声をかけた。


 先輩と並んで彼女の向かいに腰かける。診察室は、仮に患者から襲い掛かられても緊急回避ができるような机とドアの配置になっている。ちらりと僕の方に目を向けた瞬間、彼女は驚いた様子を一瞬見せた後、とても意味ありげにニヤリと笑った。


「なんだ? 知り合いか?」

「いいえ全然。知りませんよ」


 まったく心当たりのない僕は逆に動揺してそう言った。


「ふうん。ま、思い出したら何でも言えよ」


 僕は静かに頷きながら、必死で記憶を呼び起こそうとした。しかしまったく思い当たるふしがない。フィアマは若く綺麗な女性で、精神科の病院で措置入院患者として会うのでなければその外見を魅力的に思うことだろう。少なくとも知っていたら忘れたりはしない筈だ。


「先ほども訊きましたが、もう一度お名前を伺ってもいいですか?」


 僕の動揺を気にせず、先輩は診察をはじめていた。おそらく僕に見せるための復習も兼ねているのだろう。


「名前はフィアマだ。知りたいのなら教えてやるが、理解できないのをわたしのせいにするのではない」

「すみませんね。誕生日はいつですか?」

「わたしたちは誕生した日付をわざわざ記録したりはしない」

「ええと、どなたか同居されてる方はいますかね?」

「教皇、僧侶、使用人。枚挙するに暇がない」

「ご職業は何ですか?」

「わたしは僧侶で、仕事内容は神力しんりきの研究・活用だ。こうして異世界へ来られる能力を持つのはわたしだけだよ。もっとも、こうして捕まってしまったわけだが」


 フィアマは余裕たっぷりという仕草で、しかし自虐的な笑いを浮かべた。おそらく先ほど同じようなやり取りを行ってきたことなのだろう、先輩は「こんな感じだ」と目で言った。そして再びフィアマに向かう。


「今回のトラブルがどんな原因で起こったのか説明できます?」

「トラブル? トラブルの原因は、君たちがわたしを捕まえようと企んだことだろう。その目的は自分の胸にきくがいい」

「何故ここに連れてこられたのかわかりますか?」

「わたしを自由に死なせないつもりなのではないかな」

「そうです。あなたは自殺しようとしていましたね。どうして死にたいと思ったのか、よかったら教えてもらえますか?」

「簡単だよ。あちらに帰るためだ」

「死んだら“あちら”に帰ることができるのですか?」

「そうだよ、1度だけだが実証済みだ。だから君たちはただわたしを死なせてくれればそれでよい。わたしが迷惑をかけることはない」

「なるほど。――ではとりあえずお部屋に案内しますので、ゆっくり休んで一緒に問題を解決できるようにしていきましょう。主治医はわたしですが、こいつもお話を伺いに来ると思いますので、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 僕は名乗ってペコリと挨拶をした。フィアマはやはり意味ありげな笑みを浮かべて僕を見た。


○○○


「さて」


 ナースステーションで手書きのカルテに診察記事を書き入れながら、先輩は僕をじっと見た。「どうしようか」


「なかなか強烈な主訴でしたね。落ち着いてはいるようですがハッキリ自殺願望を話してますし、隔離室直行ですか?」

「とりあえずはナース監視下でちょっと見て、それから隔離室に入れようと思う。薬物療法をはじめて希死念慮が取れたら解放かな。それまでに身元がわかっていることを願おう」

「本名すらわからないんですもんね。戸籍がないパターンとかってどうなるんです?」

「――どうなるんだろ? おれは経験したことないけど、これがはじめてになるかもしれん」

「とても勉強になることですね」

「まあな。たくさん勉強するためにも、色々話を聞いてやれ。なんだかお前に気がありそうだったしな、美人だし、口説くなよ」

「口説きませんよ」

「ヒポクラテスに誓え」

「医学の父で冗談を言うのは不謹慎じゃないですか?」

「正しいことを言うものだねえ! じゃあ基本お前に任せるから、何かあったり訊きたいことがあったらいつでも何でも訊きなさい」

「はあい」と僕は頷いた。


 ほかの担当患者の様子を伺い、必要な処置を施し、予定外に来た外来患者を診ている途中にフィアマが隔離室に移動したと連絡が入った。外来患者に薬を与え、診察記事を締めくくると、僕に与えられた今日中に必ずこなさなければならない仕事がおよそ終了となる。


 僕は大きくひとつ息を吐き、レジデント用に与えられた個室で研究発表用のデータ整理を行うか、ケースレポート用の症例のまとめを行うかを頭の中で天秤にかける。どれも期限はあるがかなり先で、かつ地道な作業だ。気分が乗らずに取り掛かるのは難しい。


 気の進まない地道な作業か、これまで見たことのない症状をしている若い美人の様子を見てくるか。とても簡単な決断だった。


 彼女の待機する隔離室は鍵付きの重厚な扉の向こう側に並んでいる。アルバイトでお邪魔した他所の病院ではまさに“独房”と表現すべき前時代的な隔離室を目の当たりにしたこともあるけれど、この病院の隔離室はかなり綺麗だ。


 転倒防止のために極端に段差が少なく、有事に速やかな拘束ができるような造りになっているなど、知っていれば随所に工夫が見られるが、前知識がなければ自由な移動が規制されただけの個室に見えてもおかしくはない。


 ナースステーションからモニタで様子を伺うと、フィアマはマットレスの上に座り、微動だにせず何か考え事でもしている様子だった。足を複雑に組んだいわゆる座禅の形はしていないが、精神を集中していると言われればそうなのだろうと思われる。しばらくそのまま眺めていると、微動だにしていなかったフィアマの頭部が動き、カメラの方に顔を向けた。


 録画の容量を節約するためか、きわめて荒い画質で顔の細部はわからない筈なのに、モニタ越しにフィアマと目が合っているのが僕にはわかった。緊張を強いられる。モニタ越しの視線など感じるわけがないにも関わらず、微動だにしていなかった彼女はどうしてこちらを見ようと思ったのだろう?


 ナースステーション内で周囲の様子を伺ったが、モニタを注視しているのは僕だけだった。オカルトめいた体験を自分から誰かに話しかけて伝える気にはならない。僕は心臓が強く鼓動するのを感じながら、フィアマの待つ重厚な扉の向こうへと足を向けることにした。


○○○


 扉は僕の持つ鍵で開けられる。不穏や粗暴性が見られる場合には屈強な男性看護師に付き合ってもらったり、あるいは透明なアクリル板越しに面会しても良いのだけれど、僕はひとりで直接顔を見ることにした。


 シリンダーが回り、しっかりとした手ごたえと共に開錠される音がする。その質量に見合った速度でゆっくりと扉を開くと4つの隔離室が並んでいる。フィアマがいるのはそのうちのひとつで、現在ほかの部屋に患者はいない。


 背後で電子管理された扉が施錠される。その機械的な音を聞きながら、僕はフィアマの部屋へ近づく。室内からこちらの様子はわからない筈だ。日光を取り入れるための窓はついているが、患者にとって刺激となり得る外の様子や音はほとんどが遮断される造りになっているのだ。


 モニタで中の様子を伺うと、フィアマは先ほどと同じ姿勢を保っているようだった。僕が今いる前室のようなスペースとフィアマの座る隔離室内を隔てる扉の鍵は完全電子管理となっており、ボタンで開閉することができる。僕はゆっくりとその扉に近づき、開錠ボタンを指の腹で押した。これまでのレジデント生活で何百回も繰り返してきた動作の筈なのに、何故だかひどく緊張した。


 カチリ、と開錠される音が小さく響き、扉自体の重みでわずかに動く。手を伸ばして扉を開くと、予想通りの姿勢のまま、フィアマは顔だけをこちらに向けていた。何かあったときのためにすぐに扉を閉められる位置で僕は軽くしゃがみこむ。


「こんにちは」


 座っているフィアマと視線の高さを合わせた僕は、いつもの調子で口を開いた。フィアマは僕を射抜くように見つめながら、「やはりそうか」と呟くようにして言った。


「こっちの部屋はどうですかね。少しは落ち着きました?」

「そうだな、己の幸運に感謝しているところだ。あるいは必然なのかもしれないが」

「幸運ですか」


 それは意外な発言だった。病識のない精神科患者は入院している状態を不幸に感じるものである。それは当然なことで、自分が病気で治療の必要があると思っていないのだから、入院というより逮捕、あるいは監禁されているような受け取り方をするのがむしろ自然だ。


 それをフィアマは幸運だと言う。躁状態になっている患者の中には溢れる多幸感と結び付けてそんな発言をする者もいるが、彼女の態度は躁様であるようには僕には見えない。だから僕は質問を続ける。


「何が幸運なんですかね?」

「君との出会いがだよ」

「それはどうも」と僕は言った。僕は口説かれているのだろうか?

 

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