第96話
「海だーッ!」
「うみだー」
知識でしか知り得なかった巨大な水たまりの存在に、瞳を輝かせてレオが走り出す。その後ろを走って追いかけるモニカは海に感動しているというよりは単にレオのものまねをしているだけのようであった。
「ふ、二人とも! 急に走ったら危ないから!」
このなかで誰よりも危険に敏感で息子を溺愛しているアドラが二人の行動を止めていないため、危険がすぐ傍にあるわけではないと思いながらも走り出した子ども達のあとを慌ててクリスティアンが追いかけて、
「はぐッ!?」
行こうとしてすぐに砂に足を取られて転んでしまった彼をアドラが助けることなどあるはずがなく、砂浜にはまったく不似合いな冷たすぎる視線を彼に浴びせるだけ浴びせたのちに彼を無視して子ども達のもとへと歩いて行く。
「あれ? クリスティアンおじさんは?」
「おー?」
「気にしないで良いわよ。二人とも、近づくのは良いけど水の中には勝手に入っちゃ駄目だからね」
「はーい!」
「おー」
無視をするアドラ以上に、彼女の言葉を素直に聞いてまったく欠片も心配してくれる様子の見えない子ども達の対応の方に傷つけながら、クリスティアンはトボトボと砂まみれになってしまった身体を叩きながら起き上がる。
「ねえ、ママ! 海の水って本当にしょっぱいの?」
「ええ、そうよ。飲めば飲むほど喉が渇くから絶対に飲んだら駄目だからね」
「……おにくにかける」
「あー……、まあ蒸発させりゃ塩が出来るっちゃ出来るが」
「すぱいす」
肉食の少女にとって、現在目の前に広がる大海原は、その全てがお肉を美味しく仕上げてくれるサポートとして映っているのだろうか。
「間違っても飲むなよ」
「がんばる」
どこかズレた答えを返す少女の頭をアドラが少し乱暴に撫で上げる。瞳を細める少女に、むしろ横に居たレオの方がより嬉しそうにしていた。
「アドラ、あそこ」
「ただの商人馬車だな。護衛も居るようだが……、まあ何もしなけりゃ通りすぎるよ」
追いついたクリスティアンが目で示す方向からは二頭の馬が引く馬車が一台。彼らが馬車に気付いたように、馬車を操る御者もまた彼らに気付いて会釈を投げる。
適当に会釈を返すアドラに、丁寧に頭を下げるレオとクリスティアン、そしていまいちよく分かってなさそうなモニカと四者四様の彼らは、端から見れば仲の良い家族のようである。
御者や馬車の周囲を歩いていた護衛もまたそう思ったのだろうか。特段に彼らのことを警戒する素振りを見せずに道を通り過ぎていく。
馬車が目指すのは、アドラ達と同じ方角。彼らが今居る砂浜からでも遠目に見えつつある港町であった。
「さすがにすれ違う人が増えてきたね」
「町が近いからな。レオ? ベリーのことはどうするか覚えている?」
「うん!」
母の質問に少年が元気よく返事を返し、大事に背負ったリュックを揺らす。
「ベリーが元の大きさに戻ったら大変なことになるから絶対に札は外さない!」
「でも?」
「僕とモニカちゃんが危険な目に会いそうな時で、傍にママが居ないときはすぐに外す!」
「よろしい」
アドラが居ない時。であって、アドラとクリスティアンが居ない時ではないあたりが……、止めておこう。
「モニカ、おなかすいた」
「港町だからな。旨い魚が食えるぞ」
「おにく」
「魚にしとけ、そこは」
若干悲しげな少女ではあるが、魚でも良いかと切り替えたのかそれともすぐに忘れてしまったのか。
「行こ、モニカちゃん」
「うん」
差し出されたレオの手を嬉しそうに握りしめ、彼女は港町へ向かうのだった。
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