第3話


「ママ! この人怪我をしているんだよ! はやく手当してあげて? お願い!」


 服の裾を引っ張りながら薬箱を受け取らせようとする息子に、彼女が応えることはなかった。正確に言えば、その余裕がなかった。

 確かに自分の息子は、怪我をしているのが動物だとは言わなかった。だが、普通に考えれば動物であると思うじゃないか、と彼女の頭の中は困惑している


 苦痛の表情を浮かべる男性の脇腹は赤く染まっており、怪我をしているのは明らかではあるものの、彼女はそれをも無視する。

 そして、石を握りしめた右手を振り上げた。狙いは……、少女。


「ママ!?」


 母親の行動にレオは悲鳴をあげる。

 だが、彼女は息子の悲鳴を聞いても動きを止めようとしない。出来ない理由が、目の前の少女にはあったのだ。


 木漏れ日を反射してキラキラと輝く彼女の美しい黒髪の合間から小さく見えたのは、まるで黒曜石のように美しい角であった。

 角を持つ。

 この世界に於いて、魔族であることを示すなによりの証拠。


 ヒトの敵である役割を与えられた生物、それが魔族だ。彼らは皆、角を持って生まれてくる。どうしてヒトと魔族が戦うかなど尋ねる者など居りはしない。それは、この世界に生きるすべての者にとって当然なことであるからだ。ヒトは魔族を殺し、魔族はヒトを殺す。

 その当然に従って、彼女は振り上げた石を少女の顔へと振り下ろす。


 はずだった。


「!?」


「チャノ ミコ ピフルァ!」


 足元で膨れ上がる殺意を感じ取り、彼女は咄嗟に息子を抱きしめながら右へ飛び込むように転がる。さきほどまで彼女が立っていた場所を、直径30㎝ほどの火の玉が通り過ぎていく。


「チッ、素直に死んでいれば良いものを!」


「くそ……っ! にんげ、ぐっ!」


 転がった勢いを利用し彼女はすぐさま立ち上がる。泥だらけになったことも、せっかく持ってきた薬箱と牛乳の小瓶を落としてしまったことも気にせずに、息子を抱きしめている左腕に絶対に落とすまいと力を入れる。

 怪我をして横たわっていた男性が、歯を食いしばりながら立ち上がる。今にも倒れそうなほどふらふらな彼であったが、その瞳に宿る意志は炎のように燃え盛っていた。

 殴れば簡単に倒れてしまいそうなほど焦燥している相手だというにも関わらず、アドラに余裕はない。それは、大切な息子を抱えていることも理由ではあるのだが、さきほど彼が放った火の魔法。下級呪文であるにも関わらず、そこに込められた濃い魔力に、不用意に受けてしまえば一撃で吹き飛ばされるほどの威力を感じ取ったことがなによりの理由であった。


(くそッ! せめて剣があれば!)


 反省が後悔に変わる。

 自分一人で在れば素手であろうと、多少の怪我は覚悟して飛び込んでいくのだが、息子を抱えている今そんなことが出来るはずがない。彼女は自分の中での優先度を間違えてしまわないように、どうにか逃げるチャンスを探る。


「はぁ……ッ! はぁ……ッ!」


「あんた……、人間だろう。どうして魔族の子をかばっているんだい」


 魔族の角は身体の成長に合わせて伸びていくため、子供ならともかく成人男性とまでなれば髪の毛で隠しきれるようなものではない。そして、目の前の男性にはいくら探しても頭に角が見つからない。


「貴女には、かんけッ! ないッ!!」


「そう、……かい!」


 斜め後ろに飛びながら、彼女は石を振りかぶる。狙いはまだ眠っている魔族の少女。魔法で防ぐにしろ、その身を盾にするにしろ、必ず隙が生まれる。その隙に全力で村まで逃げ帰え、


「ばかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


「「!?」」


 ろうという彼女の目論見は、腕の中から発生した大音量によって阻止された。使われるはずだった運動エネルギーによって、態勢を崩してしまった隙に、なにより大切な息子が彼女の腕から逃げ出し、彼女と男性の間に、あまつさえ男性に背を向けながら両手を広げて立ちふさがる。


「レオ!? 何しているの、こっちへ来てッ!!」


「ママの馬鹿!!」


 悲鳴に近い彼女の叫びは、少年の怒りにかき消されてしまう。


「怪我をしているんだよ! 困っている人になんてことするの!!」


「ちがっ! その子は魔族でッ! レオ、良いからこっちへ来なさい、お願いだから!!」


「そんなことするママは、ママは……」


「レ、」


「ママは嫌いッ!」


「ごふぉ!?」


 それは見事な吐血であった。

 あっという間に生気を失った彼女は、まっすぐに前のめりで地面へと倒れ込んでいった。


「もう大丈夫だよ! 僕が手当てしてあげるからね!」


「…………ぁ、りが……」


「わぁあ!? お、おじさん!?」


 誰もが見惚れる優しい少年の笑顔に、ふっ、と力の抜けた男性は、こちらはまっすぐ後ろに倒れていくのであった。

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