断片十一 市丸

 オヤジは朝からひっきりなしに到着する言卵を休む暇なく読み取り、ようやく落ち着いたところで遅めの昼飯をかっくらっていた。

 そんなところに門生が言卵が届きましたと報告しにやってきた。

 口に飯を含んだままだったのでなにやらモゴモゴとオヤジは言ったのだが、どんな言葉をいったのかは想像がつく。

「管鰻を全部食っちまおうか」

 そろそろ独立をさせてほしいと言い続けてきたミツヲの独立を引き止め続け、伸ばしに伸ばし引き伸ばしに引き伸ばして独立するのを先送りにさせ続けた挙げ句、もうこれ以上は引き止められないというところまできてしまったと感じた先週、とうとう諦めてミツヲの独立を認めたばかりだった。

 オヤジが許すと言った瞬間、ミツヲはペコリと頭を下げ、そしてくるりと踵を返して駆け足で部屋を出て、行き違う門生たちに「あばよ、元気でな」と言いながらそのままその足で街を出ていってしまった。

 なんの余韻も後腐れもなく、すっきりあっさりとしたミツヲのその行動にオヤジは感心したのだが、今日のような忙しさが訪れるなどとは思いもしていなかったのである。こんなことだったら、引きちぎれてもいいからミツヲの独立を伸ばし続けとくんだったよ、とオヤジは後悔する。

「まったく、こんなに忙しいと拵える暇もないよ。どうしてくれんだい」とオヤジは聞こえがしに言う。聞いている者などそばにはいないし誰に対してというわけでもないのだが聞こえがしに言いたい気分なのだ。

 だからといってオヤジが本当に拵えたがっているかというとそういうわけではない。そもそも本当にそのつもりならば管鰻屋などやっているわけがない。とにかく文句を言いたかっただけだ。

 その一方で拵えであることが嫌なわけでもない。拵えとして生まれてきたことは残念にも思っていないし逆に誇りにさえ思っている。ただ、自分の思う通りに生きたいだけなのだ、オヤジは。

 オヤジが生まれた時期は、オで始まる名前を拵えにつけるのが流行っていた時期だった。だからオヤジもそう名付けられた。今はそんな名前をつけることも少なくなったのだが、名前を見ただけでオヤジが拵えであることをみんな知ってしまう。勝手に知られるのも嫌だった。ようするに自分の思い通りにならないことが大嫌いなのだ。

 それを世間では自分勝手という。

 オヤジが店を構えている街、市丸は、よき川が、こと川、きく川の三つの川に分かれる場所の少し上流にある大きな街である。

 よき川、こと川、きく川の三つの川はさらに下っていくとそれぞれ二つあるいは三つの川に分かれていく。わかっている範囲でよき川は合計十七本の川に別れていくらしい。

その先がどうなっているのかは誰も知らない。それどころかこのよき川の上流がどうなっているのかも知るものもいない。市丸からよき川の上流へと向かうといくつかの街はあるのだが、その街を越えたその先がどうなっているのか、よき川の始まりがどうなっているのかは誰も調べたものがいないのだ。

 それというのも今の所、この世界に住む者たちが暮らしていくのに充分な広さがある。さらに石灰岩が主流のこの土地には長い間の雨水の侵食で鍾乳洞がいたるところにある。横の広さだけではなく縦に対しても十分な住む世界があり新しい土地など必要はないのだ。だから調べようとするものなど誰もいない。


「三番瓶に入っています」と門生が伝えた。

「ご苦労」

 仕事に入るとオヤジの口数は少なくなる。

 オヤジは腕をまくり、瓶の中に手を入れる。いつもならばヒヤリとした瓶の中の水が心地よいのだが、今日は冷たいだけだった。

 瓶の底に横たわっていた管鰻を捕まえ、机の上に置く。机の上には真っ白な布が広げられている。

 机の上の管鰻は眠っていた。

 産卵場に戻ってきた管鰻は門生に捉えられ、そして下垂体のある箇所に針をさされる。管鰻はその場所に刺激を受けると眠るのである。この方法が発見されるまでは戻ってきた管鰻は言卵を取り出すまで再び冬眠をさせられていた。しかし、続けざまの冬眠は管鰻の体力を奪っていく。そのためほぼ半数の管鰻はその時点で生命を失ってしまっていた。なので昔は一匹あたりの単価も高かったのだが、この方法が使われることによって失われてしまう管鰻の数が大幅に減り、単価も大幅に安くすることができた。

 オヤジはゆっくりと慎重に管鰻の産卵口から言卵を絞り出していく。一粒一粒、産卵口から出た言卵が真っ白な布の上に並べられていく。

 最後に一回りだけ大きい言卵が出てきた。発信者が誰なのかを意味する言卵であり同時に最後の言卵であることを意味する。


「シゲか」

 オヤジの口元に笑みが浮かんだ。

 が、じきにその笑みが吹き飛んでしまうことをオヤジはまだ知らない。

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