五章 禁忌の悪薬
第214話 地獄の始まり
「はぁ……はぁ……はぁ……」
疲労困憊で呼吸が激しく乱れる。
立っているのがやっとで、もう一歩足りとも動ける気がしない。
だが、『紅髪の悪魔』は休むことを許してはくれなかった。
「主よ、休憩は終わりだ。奥にいた魔物を連れてきてやったぞ」
「……ちょっ……と、待って……はぁ……休憩……足りない……」
「まだ特訓を始めてから八十二戦しかしてないぞ? 疲れるには早すぎるのではないか?」
大変困ったことに、『紅髪の悪魔』ことフラムは疲労というものを知らないようだ。
様々なスキルによって俺の身体能力は格段に強化されているとはいえ、所詮はただの人間。竜族であるフラムとは基本スペックが違い過ぎた。
このままフラムの基準で特訓を課せられれば、いずれは死んでしまうのではないだろうかといった不安が頭をよぎる。
「ほら主よ、どうやら魔物は主を待ってはくれないようだぞ?」
『何がほらだ!』と声を大にして言いたいが、実際問題それどころではなかった。
大森林とも呼べる深い森の奥からぞろぞろと大多数の魔物が近寄ってくる気配を俺は捕捉する。
『ギャャオッ!』
『グルルルゥゥッ!』
鳴き声と共に森の奥から姿を見せる魔物たち。
赤紫色の禍々しい棘を甲羅から生やした亀や、見るからに分厚い皮膚に覆われた黒い四足獣など、多種多様な魔物が俺を目掛けて突っ込んでくる。
「もう勘弁……」
紅蓮を握っている右腕は『これ以上は戦えない』と悲鳴を上げているかのようにプルプルと震えているが、気合いと根性で紅蓮を構える。
「ではそろそろ私もいくぞ。主よ、私と魔物の攻撃を見事に捌ききって見せるのだ!」
こうして、八十三回目の地獄が始まろうとしていた――
時は遡る。
エドガー国王に呼び出されて王城に行った日の夜、ナタリーさんとマリーが作ってくれた夕食を食べ終え、食堂で全員が各々寛いでいた時、唐突にフラムがこんなことを言い始めたのが全ての始まりだった。
「ふむ。なぁ主よ」
「どうかした? もしかして、まだ食べ足りないとか?」
「……違うぞ。そもそも私はそんなに大食いではない」
「「……」」
フラムの言葉を聞いたこの場にいた殆どの者が胡乱げな眼差しをフラムへと向けた。勿論、俺も含めてだ。
「何故そんな目で私を見るのだ! ――って、そんなことはどうでもいい。それより主よ、私はふと思ったんだが、祝勝会と何とか式までの約一ヶ月間は暇ではないか?」
「褒章式ね。確かに予定は何もないし、暇と言えば暇かな? 皆で旅行するのも良いかもしれないなぁ」
ナタリーさんとマリーはこのところ留守番続きだったこともあるし、俺たちも戦ってばかりだったことを考えると、ここは気分転換に旅行するのも悪くはない――そんな呑気なことを考えていた俺とは違い、フラムの考えは全く別のものだった。
「違う。違うぞ。そうではない」
「……えっ?」
声のトーンを一段階下げ、フラムは真剣な眼差しで俺の瞳をロックした。まるで獲物を見つけた肉食獣の如き、鋭い眼差しだ。
背筋に悪寒が走る。
それは恐怖からではない。嫌な予感がしたからだ。
絶対にろくでもないことをフラムが言い出す、そんな予感がしてならないのだ。
そして、俺の勘は見事に的中する。いや、してしまったのだ。
「私はこの間の主の戦いを見て思ったのだ。まだまだ主は強くなる余地が残されている、と。立ち回りやスキルの運用方法もそうだが、特に防御面に不安があると私は考えている」
ぐうの音も出ない正論だった。
数多くのスキルを所持することによって、俺は常人を遥かに超えた力を得てはいるものの、スキルを扱いきれているかと問われれば、答えは否だ。加えて戦闘経験は乏しく、特にこれといった戦闘訓練を積むことなく、ここまで戦ってきていた。
要するに、俺の強さは完全にスキルに依存してしまっているということだ。
訓練を積んでいる騎士であればスキルがなくともそれなりに戦えるだろうが、俺はそうじゃない。おそらくスキルが無ければゴブリンすら倒すことは出来ないだろう。
「フラムの言う通りだと俺も思――」
俺の言葉が最後まで紡がれることはなかった。
「――よし。なら決まりだな」
「え? 何が……?」
フラムの中で一体何が決まったのだろうか。俺にはさっぱりわからない。
「特訓だ、特訓だぞ。私が直々に主を鍛えるという話だ」
「……特訓? フラムが俺に? なんだか危険な香りしかしないんだけど……」
俺の勘が告げている。絶対に危険だ、と。
だが、俺が不安に思っていることを知ってか知らずか、イグニスがティーポットを片手に笑みを浮かべながら俺の横に立ち、羨望の言葉を告げる。
「フラム様から手解きをお受け出来るコースケ様が羨ましい限りでございます。火を司る竜族であれば泣いて喜ぶほど栄誉なことでございますから」
どうにもイグニスの言葉が信じられない。
泣いて喜ぶのではなく、辛さのあまり泣いてしまうのではないのかと勘繰ってしまう俺がいた。
「……やっぱり皆で旅行にしない?」
フラムは好意で特訓を申し出てくれているのだろうが、俺の口から出た言葉はこれだった。
しかし、俺の提案が認められることはなかった。
「却・下・だ・ぞ。主よ、何をそんなに不安そうにしているのだ? 大丈夫だ、安心するがいい。必ず私が主を強くしてみせよう」
一体、どこをどう安心すればいいのだろうか。
だが、特別講師をしていた頃のフラムを見る限り、決してスパルタというわけではなかった。
手加減をしながら生徒と戦い、駄目だった箇所をキチンと説明していた記憶がある。
そう考えると、案外大丈夫な気がしないでもない。むしろイグニスの言う通り、喜ばしいことなんじゃないかと思い始める。
「よし、決めた。ぜひともフラムにお願いするよ」
「うむ。任せるのだ。では明日の朝から早速特訓を始めよう。期間はそうだな……。二週間くらいにしておこう」
「わかった。フラムに従うよ」
「水と食料は忘れずに準備しておいてくれ」
「水はわかるけど、何で食料? 別に屋敷で食べればいいんじゃない?」
例え遠く離れた地でもゲートを設置すれば屋敷へ一瞬で帰れるのだ。水は必要だとは思うが、食料が必要だとは到底思えない。
「――甘い! 甘過ぎるぞ!」
バンッとテーブルを叩くとフラムは席から立ち上がり、俺に向かってビシッと指を差す。
「期間はたったの二週間なのだ。寝る間も惜しんで訓練あるのみ! 屋敷に帰るなどという甘えは許さないぞ」
「え? ちょっと待って……。寝る間も惜しんで? 流石に二週間も起きていられないから! 人間は寝なきゃ死ぬから!」
「大丈夫だ。限界は私が見極めるから安心するがいい。死なない程度に休憩は与えるつもりだぞ」
死なない程度に? つまりは生死をさ迷う限界までという意味ではないだろうか。
これはマズイ。とんでもなくマズイ。
フラムには何を言っても聞き入れてはくれないと判断した俺はディアに救いの眼差しを送る。『助けて下さい』と。
しかし――
「……ごめんね、こうすけ。わたしは陰ながら応援してるから」
救いの手が差し伸べられることはなかった。
ディアは申し訳なさそうに視線を反らし、飲みかけの紅茶に口をつける。そしてそれは、ナタリーさんとマリーも同様だった。
「では主よ、私は部屋で特訓メニューを考えてくる。主は明日からのための準備に取り掛かってくれ。日が昇り次第出発するつもりだ。ではな」
そう言い残し、フラムは部屋へと戻っていった。
このようにして地獄の二週間が始まり、まだ特訓が始まってから三日しか経っていない。
未だに一睡も許されておらず、眠気もさることながら体力的にも精神的にも限界が近い。
ちなみに現在俺とフラムがいる場所は王都の西にあるダンジョンだ。俺の足で全力疾走して半日ほどかかる場所にそのダンジョンはある。馬車で移動したとしたら三日は掛かるだろう場所だ。
高難易度かつ広大なダンジョンということもあってか、今日に至るまで誰とも出会っていない。
「終わっ……た……」
最後の魔物を倒すと共に俺は地面に倒れた。
「ふむ。流石に休息が必要なようだな。主よ、三時間後に再開するぞ。それまで身体を休めるがいい」
「たっ……たの、三時間……」
休憩時間が少なすぎると文句を言う前に俺の視界はブラックアウトし、深い深い眠りについたのであった。
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