ひとひら ひらひら
戸木かや
第1話 桜
今年は暖冬だったというのに、暦上では春になっても厚手のコートを着なくてはいけないような寒さが続いた。少し暖かくなったと思って、春物を着てはみるのだけれど窓から手を出して外気に触れると、その服装では無理だと、たしなめるように風がピーピーとトキコの手を吹き付けて、結局分厚く野暮ったい冬物を着込むのだった。
トキコは春が好きだ。厳しい冬に耐えた植物が、そっと奥ゆかしく顔を出して、かぐわしい香りを放つ。薄く色づく柔らかな若葉、ひらひらとなめらかに踊るちょうちょ、か細く高い声で囀る小鳥たち。どうせ死ぬなら春がいい。桜が咲き乱れるこの季節に、うっとりと死んでいきたい。
ようやく訪れた春の空気を思いっきり吸い込んで、自転車のチャイルドシートに座る娘のサクラの柔らかい頬を指先で、そっとつつく。今日はサクラに満開の桜を見せたくて、桜の名所と名高いお城のある公園に自転車でやってきたのだ。心地よい風と自転車のコトコトとした優しい揺れにサクラは先ほどから眠ってしまっていた。
「サクラ。ねえ、サクラ起きて」
サクラは少し顔をイヤイヤと振って、トロトロと目を開け、トキコの方を気だるそうに見つめる。その細めた目がナリタさんのそれにそっくりで、少しトキコの胸を痛くさせた。
「おかあしゃん、着いたの?」
舌足らずな口調で、サクラが問う。まだ二歳なのに、サクラはおしゃべりが上手だ。
「私とトキコがおしゃべりやからやわ」
姉のミチルはしたり顔で言う。
「ずっと思ってたんよ。めっちゃおしゃべりになるか、無口で人の話をよう聞く子になるか」
姉の言う通り、「めっちゃおしゃべり」になったサクラは満開の美しい桜に感嘆の声をあげた。
「おかあしゃん、すごいねぇ。ミチルちゃんと見たね、桜」
「そうやなあ、ミチルちゃんとお花見行ったな。こことはちゃうけど・・・・サクラは賢いな、よく覚えてたわ」
先週、まだ五分咲きくらいの桜を三人で近くの公園に観に行ったのだ。
姉と私は、いつも発泡酒のところを奮発してビールを片手にまだ若い桜の花たちを愛でた。
「ねえ、おかあしゃん」
「どうしたん?」
「きれいねえ、桜」
「そうやなあ、きれいやなあ」
サクラはヘルメットをもどかしそうに外そうとする。
「あかんで、今とったら。自転車置きに行ってからお散歩しよ」
「はーい」
サクラは素直に片手をあげて、元気に返事をする。保育園での指導の賜物だ。
イヤイヤ期が収まったのか、最近のサクラは表情が柔らかくなった。
「イヤイヤ期は、ほんま地獄やで。何言ってもギャーギャー、何してもイヤイヤ。お風呂にはいるだけで一時間かかったことあるわ」
うんざりした口調で、そう話したのはトキコの小学生の頃からの親友のフユコである。フユコには、サクラより二つ年上の息子がいるのだ。
「こっちまでおかしなる。買い物行って大の字にどーん!と寝転んだりするねん。何しても暴れるからそっと見守るしかないねん。だいたいの人は、あらあら大変やねって流してくれるけど、そんな人ばっかりちゃうからな。躾なってないとか、親は何してるんやって聞えよがしに言われたこともあるわ。暴れるの無理やり抱きし起こして、授乳室空いてたからそこに入って一緒にワーワー泣いてもたこともある。そしたら知らんお母さんがたまたま入ってきて。大丈夫?って背中さすってくれてさ・・・・その人もなぜか泣いてて、その人のお子さんも一緒に四人でわんわん泣いたわ」
「なんか壮絶な話やな。お腹にいるだけでこんなにしんどいのに、産まれてからもまだそんなしんどい思いせなあかんの?」
「せやで」
「てか普通さ、妊婦不安にさせへんもんちゃうの?」
フユコはテーブルに突っ伏してケタケタ笑った。
「何言ってんの、今更。その子ひとりで産むって決めるまでにどんだけトキコは不安な思いしてん。もうなんにもないやろ、怖いもん」
「いや、怖いよ」
「怖くないよ、何も」
フユコは立ち上がって、紅茶のお代わりを入れるふりをして、わざと私に背中を向けて優しい声で言った。
「これからのトキコの人生楽しいことばっかりや。幸せなことしかないわ。お腹の子は、きっとトキコに似て気が強いやろうから、たくましく生きていけるやろ。それに、トキコがお母さんなんやから、間違いなくええ子に育つよ」
ぽとん、ぽとんとティーカップに雫が落ちて、自分の流した涙に気が付いた。
いつの間にか、フユコが私の肩に手をおいて、背中をさすってくれた。
「大丈夫や、私もおる。ミチルちゃんもおるやん。最強や」
ぼんやりとそんな事を思い出しながら、自転車置き場の表示を確認して、そちらの方向へとペダルとを漕ぎ進める。
「ねえ、おかあしゃん」
「はいはい」
「きれいねえ、桜」
「そやね。サクラと同じ名前のお花やもんな。世界で一番きれいやわ」
「おかあしゃんも」
「え?お母さんの名前はサクラとちゃうで」
「桜、きれいね。おかあしゃんみたいにきれいね」
サクラは振り返って頬を染めて、幸せそうににっこりと微笑みながらそう言った。
思いもよらないサクラの一言に、幸せすぎて、胸がはちきれそうだ。
「ありがとう。サクラ・・・・ほら着いたよ。行こう」
ヘルメットを外して、そっとサクラを降ろす。そのまま走りだそうとしたサクラの手をしっかり握って、美しい桜並木に向かって二人で歩き出した。
最強や。
何も怖いもんないわ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます