ロリタは薄暗い部屋のなかで目を覚ます。


 すぐに、椅子で寝息を立てているフランチェスカを見つけた。

 こうして黙って寝ているときだけは可愛いな、と、ロリタはベッドで上半身を起こしつつ思う。


 テーブルに視線を移動させると、濡れたタオルと水の溜まった桶があった。


(看病してくれてたのか……)


 思いつつ、またフランチェスカの寝顔に目をやる。

 月明かりに照らされたブロンドの少女に、ロリタは思わず息を呑む。

 ……部屋には、他に人の気配はない。

 どうやら、この家には自分とフランチェスカの二人だけのようだった。

 ロリタはじっとフランチェスカの小さなかおを見つめると、ゆっくりと手を近づけ――


「……いたいけな少女の寝込みを襲うなんて、いけない人ですわ」

「うわっ!」


 いじらしい笑みを浮かべるフランチェスカに驚いて、ロリタはベッドの上で飛び退く。


「べ、べつに襲うつもりじゃ……」


 ロリタは毛布を体に手繰り寄せる。


「まあ、美しいものに触れてみたくなる気持ちはわかります。まして自分を見張っている者が誰もいない状況であれば、それをするなというほうが無理な話ですものね」

「寝ぼけてないで、こんな夜更けにこんなところでなにをしているんですか」


 つんとした口調でロリタが言う。

 フランチェスカは自分の唇を指でなぞり、


「まあ、看病はしなきゃね。約束がまだですから」

「約束?」

「ええ。途中で邪魔が入って延びてしまった約束です。昨日の夜の」

「なんのことだかわかりかねますね」

「夜中に一仕事を終えた後、わたしを相手にしたあげく水泳までしたというのに、あなたはちゃんと身体を温めないからそんな風邪なんか引くのですわ。どうせ冷たい水で身体を流しただけなのでしょう?」


 ……フランチェスカとロリタはお互いに見つめ合う。


「フランチェスカ、なにがいいたいんですか?」

「あなたはゾロです」


 簡潔に言った後、


「もっとも……わたしがそれに気づいたのは、モンテロのところで出会ってからのことですけれど」

「伯爵のところで?」

「ええ……わたしがキスをしていない女の子って、そう多くはありませんから」


 フランチェスカは片目をつむっておどける。


「そんな馬鹿なこと……」


 ロリタは、フランチェスカから視線を外して取り合わない。


「あなたが眠っている間、こんなものをみつけましたわ」


 フランチェスカは言うと、この家の天井裏に置かれていた黒い覆面と剣をロリタに見せ付ける。

 そして鞘に納まっている剣を少し指で弾き出すと、


「わたしの剣を拾っていてくれてありがとう。助かりましたわ。やっぱりお互いに慣れ親しんだ道具のほうがよろしいかと思いますから、あなたの剣もお返しいたしますわね」


 フランチェスカは剣を入れ替え、片方をロリタのベッドの上へと放る。

 ロリタは渡された剣を引き出し、刃に異常がないことを確認すると、なれた手つきでまた鞘に収める。


「……ゾロはあなたの方ですよ」


 ゾロの剣を傍らに置いて、ロリタは静かに言った。

 思いもしない言葉にフランチェスカは目を丸くしたが、


「どういうことかしら」


 すぐに勝気な顔に戻ってたずねる。

 ロリタは憮然として、


「覆面を被っているのはあなたでしょう? あなたはどうしていつだって、作り上げた自分でしか他人と関わろうとしないんですか? 自分の執事の前でだって、あなたは変な口調で自分を演じてるじゃないですか」

「アントニオのことは信頼していますわ」


 フランチェスカが笑顔で返すと、


「答えになっていませんね。あたしなんかより、あなたの方がよほど正体が知れないって思います」


 表情少なく言うロリタ。

 フランチェスカはゾロの覆面を手で弄びながら、


「……自分の正体なんてものは無意味じゃないかしら? まして、このヴェネツィアでそれを語るのは野暮ですわ。それにわたしはゾロのように、己の正体を隠しているわけではありませんので」

「なにが違うというんですか?」


 するとフランチェスカは、凛とした表情で右頬を手で覆うと、


「ヴェネツィアの仮面は隠蔽ではなく、社交に晒す己の素顔です。我らが仮面舞踏会マスカレードでは、仮面の下の顔こそうたかたのまぼろし。仮面で飾り付けて宴に興じる我らの姿こそ、人の心を映し出した真実の光景ではありません?」

「欲望を晒してどうするんですか? 欲望の力を意志の力で統率しないでどうするの? そうやってあなたたちが欲望にしか目を向けていないから、自分たちが一つの大きな意思に操られているのをおざなりしてしまっているんです」

「抑えることのできない欲望なら、他人に全て任せてしまえばいいんじゃないかしら」


 フランチェスカはロリタのベッドへと両手をついて身体を寄せると、


「あなただって、本当は色恋をしてみたいんじゃないのかしら。わたしがあなたに積極的なのは、我慢をしているあなたが可愛いからこそですわ」


 ぐ、とロリタは押し黙る。

 フランチェスカはベッドの端に腰掛け、


「……でも、今は無理にあなたの覆面を剥ぎ取ろうなんて考えてはいません」


 フランチェスカはゾロの覆面をロリタの手元に投げると、立ち上がって一度伸びをする。


「けれど、あの夜の約束だけは守っていただきますわ。時期がくれば、勝負の続きをやりましょう」


 ロリタはゾロの覆面を掴み、黙りこむ。


「さて」


 フランチェスカは言うと、さっと服を脱ぎだした。


「――って、ちょっと! いきなりなにしてるんですか!」

「なにしてるって、服を脱いでいるに決まっていますわ」

「だから、着替えてなにをするつも……」


 服をどんどん脱いでいくフランチェスカに、ロリタはベッドの上で身を引きながら訊いていたが、


「ロリタ、なにか変なことを考えているんじゃない? 別に今からあなたと一緒に寝ようなどと考えているわけではありませんわ。今晩は少し用事があるのです」


 答えながらフランチェスカは深紅のゾロ服へと装いを変え、真っ赤なストールを首に巻く。

 つば広の羽根付き帽を被って目元を隠す仮面をつければ、怪傑カサノバの出来上がりだ。


「この姿で得をすることもあります。強情なご婦人に堂々と夜這いを掛けられるというところなんかがね。火遊びを我慢して意地を張ってる人には、カサノバの夜這いといった自分への言い訳が必要ですもの」

「そんなの只の強姦です!」

「わたしにその趣味があったらとっくにあなたは丸裸になっているところよ。まあ、これも一つの趣向というところね」

「だからって、そんな乱れた……!」

「どのみちこんな夜更けにスカートでは歩いて帰れませんわ。あなたがここに泊まっていけというのなら考えますけれど」

「ぐ……」

「そういうことですわ。それではまたね、ロリタ」


 フランチェスカは脱いだ服を残し、颯爽と窓から去って行く。


「……はあ」


 ――ロリタはやれやれと頭を抱え、脱ぎ散らかされたフランチェスカの服を片付けにかかったのだった。

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