怪傑カサノバ

 追いやられてきた先は、ぬかるんだ大地が広がるばかりの潟だった。

 そこに人々は木の杭を打ち、その上に家を建て、そうやって二つとない水の都ヴェネツィアは作られたのだ。


 夜のリアルト橋。

 仕事を追えたゾロは、その上を駆っていた。


 そこに立ちふさがる、一つの人影。


 ゾロは足を止め、腰の剣に手をかける。

 すぐに正体に気がつき、構えを解いて呆れる。


「……あなたはそんな格好で何をしているんだ?」

「決まっているでしょう? この夜の帳の中、愛しい人との逢い引きを心待ちにしていたのですわ」


 フランチェスカは、あの日と同じ仮面と帽子を着けていた。


 だが、服は以前のように乗馬服ではない。


 纏っているのは、ゾロと同じような仕立てのマントとコスチューム。

 目を凝らしてみれば、それはストールと同じく、闇夜に溶け込む鮮やかな紅色だった。


「一体なにを考えているんだか……」


 ゾロは額に手を置くと、


「あなたが修道院の娘達と密通しているのは知っている。俺に言い逃れは出来ないぞ、フランチェスカ」

「あら、かのゾロ様はわたしのことをご存知でしたのね?」


 これは光栄なことですわ、とフランチェスカは笑いかける。

 しかしゾロは表情一つ変えず、


「この街のことで俺が知らないことはない。今日もあそこの修道女と密通でもしにいくつもりか。俺のようなならず者が不義について問い詰める気などはないが、あまり純粋な少女を惑わせないことだ」

「あなたこそ、今日も遅くまでご苦労なことですわ。だけれど、生憎とわたしの今日の相手は純白の少女たちではありません」


 欠け始めた月の下、フランチェスカは剣をすらりと抜きつつ、


「今夜の相手は少々じゃじゃ馬なの――逢えて嬉しいですわ、ゾロ殿」


 雰囲気を察して、ゾロも剣に手をかける。


「フランチェスカ、どういうつもりだ?」

「このまま無茶な行為を続ければ、遠からずあなたは死にます。その前に、わたしは一つ賭けをしてみようかと思いまして」

「賭け?」

「ええ。あなたが勝てば、わたしはこの先真っ当な生活を送ることにしますわ。けれどあなたが負ければ……今晩、わたしの夜伽をしていただくことにしようかしら」


 それを聞いて、ゾロは高らかに笑った。


「まるで俺に得がないな。勝負を受ける必要はない」

「あら? 別にあなたと賭けをしているわけではありません。わたしは自分自身と賭けをしているのです」

「どちらにしたところで、あなたの割には合わない」

「どうかしら。わたしの人生の目的の為には、とても重要なことかも知れませんわ」

「貴女が勝ったところで、どうせ俺に抱かれるだけだ。その人生の目的とやらを聞かせてもらおうか」

「それはあなたがわたしに勝った際にお教え致しますわ」

「面白い」


 リアルト橋の上で、再び二人の剣が差し交わされる。

 大運河のただ中で繰り広げられる剣戟は、素早くも静かなものだった。

 お互いに人に集まられては困る。ましてや、屋根着き橋であるこの狭い場ではなおさらだ。


 フランチェスカの剣の切っ先が、ゾロの胸元に突きつけられる。


 少し目を丸くしたゾロだったが、お互いに不敵な笑みを交わすと、再度戦いを開始する。


 そのとき、遠くから女性の悲鳴が二人の下に響いた。


 それに気をとられたゾロがバランスを崩し、あやうくフランチェスカの剣にマスクを割かれようとしたときだった。

 たちまち体勢を整えたゾロはフランチェスカの剣を絡め取り、そのまま橋の外へと放りやった。

 剣を飲み込んだ水面には、小さな波紋が薄く広がっていく。


「これ以上遊んでいる暇はない。それに、そのままではあなたは俺に勝てはしないよ」


 ゾロが剣を脇に収め、悲鳴のもとへ向かおうと踵を返す。


「それはこちらの台詞です」


 フランチェスカの言葉に、ゾロは呆れた風情で立ち止まる。


「いい加減に……」


 振り向いたゾロはたちまち言葉を失った。

 フランチェスカは、拳銃をゾロに向けていたのである。


「もちろん、これはおもちゃではありませんわ。つまりあなたの命は今、わたしの指一つに掛かっているということね」

「……たちの悪い冗談は好きじゃないな」


 ゾロは両手を上にあげて、さらに深くため息をつく。


「それに時間もない。あんたにはさっきの悲鳴が聞こえなかったのか?」

「確かに、遊んでいる場合ではなくなりましたわね。勝負もおあずけすることにいたしましょう」


 言いながら、フランチェスカはゾロの近くへと歩み寄る。


「フランチェスカ、はやくそれを下ろすんだ」

「あら、それは出来ませんわ」


 フランチェスカはゾロの胸元をゆっくり撫で下ろし、やがてゾロの腰の剣を抜き取ってゾロから離れる。


 遠くの街道に、一人の町娘が姿をあらわした。


 娘はリアルト橋にいる二人を見つけると、息を弾ませながら駆け寄ってきた。


「助けてください! わたし……准尉様が急に部屋に押し入ってきて――」


 そこへ軍服を着た一人の男が姿を現し、


「お……お前はどこまで馬鹿にすれば気が済むんだ!」


 遠くで叫ぶと、肩をいからせながら橋へと走ってきた。


「助けて!」


 娘は近くにいたフランチェスカへと身を寄せ、フランチェスカも彼女をかばうように軍人の前へと立つ。


「まったく、人聞きの悪いことを……」


 男は橋までたどり着くと、苦しげに膝に手をつく。

 人影のなかにゾロの姿を見つけた軍人は、急いで息を整えると、


「こ……これはこれは。政府にたてつくならず者の狐じゃないか。こんなところで奇遇だな」

「ならず者はどちらの方かな」


 ゾロは男の有様を見て呆れ混じりに言った。

 軍人――ガスパロ准尉の顔には、生爪での引っかき傷が痛々しく残っていた。


「うるさいっ!」


 怒号とともにガスパロは胸元から回転式拳銃を取り出し、続けざまにゾロへと発砲する。


 突然のことにゾロは地面に翻って回避し、フランチェスカも町娘をかばう形で弾丸から身を避ける。


「総督は、お前みたいなものにまでそんなものを与えているのか!」

「あら? あなたはなんでも知っているんじゃなかったかしら?」


 怒号を張り上げたゾロは、フランチェスカから茶々を入れられて「うっ」と押し黙る。


 だが、確かにその最新式の拳銃は、一介の准尉が持っているような代物ではなかった。


「政府はお前の悪行にたまりかねて、近頃は軍備の充実を図っているんだ」


 ガスパロは言うが、その声には嘲弄じみた響きがあった。


 フランチェスカが手にしているのは、ガスパロのものとは違い、普通のピストルである。弾は一発しか込められていない。

 しかしガスパロのリボルバーは、おそらく残り三発は連続して撃つことが可能だ。それにピストルとは精度も段違いであり、これくらいの距離であれば次に避けきることは容易ではないだろう。


 フランチェスカはちらりとゾロに目配せをする。

 ゾロはフランチェスカの言いたいことをすぐに理解して抗議の気持ちを抱いたが、


「悪狐め!」 


 ガスパロの銃口が再度向けられたことで、ゾロは道に落ちていた自分の帽子を拾いつつ、意を決して川へと飛び込んだ。

 ガスパロは手すりに駆け寄るが、すでに逃したことを悟って悪態をつきながら身体を戻す。


「ところで……お前は誰なんだ?」


 ガスパロはフランチェスカに言うが、フランチェスカはこほんと喉を整えると、声色を変えて、


「どこの世にも破廉恥な輩はいるもんだな」

「う、うるさい!」


 ガスパロはリボルバーをフランチェスカたちに向け、フランチェスカは少女を守るように胸に抱きしめる。密着した少女は、フランチェスカから香る魅力的な芳香にすっかり心を奪われていた。


「お前は……劇で噂になってるならず者だな。政府にたて突くような奴ではないと考えていたが、その格好は一体なんだ? ゾロの仲間か……名前はなんと言う?」

「わたしはゾロの仲間なのではないよ。わたしの名は……」


 ガスパロの問いに、フランチェスカは微笑とともに名乗った。


 ――その名は、カサノバ。


「……カサノバか。まあいい。そのカサノバははたして物分りはいいのか?」


 ガスパロは、リボルバーの引き金に指をかけている。


「紳士の決闘だ。それを捨てろ!」

「なんだって?」

「紳士なら、こんなものではなく己の腕で戦うんだ」


 フランチェスカは男声で言い放つと、自分のピストルをわき道に放る。


「ふん……その誘いにのってやろうじゃないか」


 ガスパロも、リボルバーを腰のホルスターへと大事にしまいこんだ。

 そして一気に剣を抜く。


「だが、貴様のような不埒な輩が俺に勝てると思うなよ。今に思い知らせてやる!」


 ガスパロが勢いよく踏み込んだ瞬間だった。

 フランチェスカは彼の剣を軽くいなすと、見事な剣捌きで彼の腰のベルトを切り裂き、ホルスターごとリボルバーを剣先で取り上げた。


「ぐ……この――っ!」


 あまりの怒りにガスパロは顔を赤面させ、唇を震わせながらフランチェスカに踊りかかろうとする。

 だが、ここでガスパロは目の前の光景に言葉を失った。


 カサノバは、リボルバーをこちらにしっかりと向けていたのだった。


「貴様……どういうことだ」

「怪我をしたくなかったら、そこを動くな」


 フランチェスカはガスパロをけん制しながら、まず自分のピストルを拾い上げ、そのまま傍らの少女と共に軍人から距離をとる。


「どこまでも嘘つきな下郎め……貴様には紳士としての誇りがないのかッ!」

「きみに言われたくはないな。それに、ベルトを切られた次点で勝負は決まっていたも同然だよ。それと……わたしが婦女に乱暴を働こうとした悪漢を生かしておくのは、この素敵な銃を頂くお礼だ」


 カサノバ様……と、フランチェスカの腕に抱かれた少女は自分からフランチェスカに身を寄せる。

 フランチェスカは娘に微笑すると、軍人から十分な距離まで離れ、軍人に向けてリボルバーを一発撃った。


 ガスパロの剣が弾かれ、手から落ちて地面で跳ねる。


「行こう」


 フランチェスカは娘を促しながら、街の影へと消えていく。

 娘は仮面のフランチェスカに見惚れながら、彼女について行ったのだった……。

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