第8章 人魚姫の家出編

第154話 人魚の少女は恋焦がれる

 ここは深い深い海の底。


 人や亜人種などに到底辿り着けなさそうな場所には魚や水棲の魔物たちが生息している。

 しかしここには、唯一深海に暮らす生物と共存共栄の形で国を築いている亜人種がいた。


 その種族の名は人魚族。

 はるか昔から深海を住処とし、いくつもの国々を繁栄させてきた。

 そしていまとなっては、海底のあちこちに人魚族の国が築かれており、いつしか海の支配者とも呼ばれていた。


 そんな海底に数多くの国々を築いている人魚の国の中でも広大な国土を誇る国があった。


 海底国家――オルディス。

 人口数は十万人を超え、それに見合う住居の数々や主要施設などの建物がずらりと並んでいる。

 さらにこの国は、最初に建国された人魚の国でもあるためその国には大昔の歴史が刻まれていた。


 そして数多くの建物があるオルディスの中でもひときわ目立つ宮殿には一人の少女がいた。

 少女は、宮殿内にある自室でベッドに横たわりながらなにかの本を嬉々として読みふけっていた。


 一ページ読み進めていくごとに笑みを見せたり、悲しみの表情を見せたりなどと、ころころと表情を変化させながら読んでいる。


「…………ハア」


 やがて少女は読み終えた本を閉じ、満足げに顔を綻ばせながら長いため息をついた。


「何度読んでもいい話だわ……。ああ、私もこんな恋がしてみたい!」


 少女は本を胸に抱きよせ、まるで恋に焦がれる乙女のようにキラキラとした顔を浮かべている。


 少女が先ほどまで読んでいた本は『人魚伝説』と呼ばれる小説。

 過去の史実をもとに構成された小説であり、同じタイトルのものが数多く書籍化されている。


 少女が読んでいたものはその中でも恋愛ものの部類である。

 内容としては、大昔に実際にあった人魚族の女性と地上に生きる人間との恋愛模様を赤裸々に描かれた物語。


 少女はこういった恋愛小説を好み、これ以外にもこれまで多くの恋愛小説を読み漁っていた。

 特にこの『人魚伝説』に綴られた話は何度も読み返すほどお気に入りの本でもある。


 そして少女はこの本を読むと、決まってある決断をする。


「…………よし! 家出しよう!」


 まるで日課のような軽い口調でそう宣言すると、あらかじめ部屋に隠していたリュックを取り出す。

 その中には、着替えや保存食など家出して外の世界に出ても困らない程度の荷物が詰められていた。


「準備完了っ! 今度こそ家出してみせるぞ!」


 大きなリュックを背負い、意気揚々と少女は自室のドアを開けた。


 ちなみに、先ほど口にした言葉通り実はこの少女、今回が初めての家出ではない。

 これまで幾度となく、家出を実行するも途中で家族や兵士たちに止められ、何度も失敗に終わったため成功した試しがない。


 それでも少女が家出を実行するのには、ある叶えたい願いがあったからだ。


 それは『人魚伝説』に出てくる人魚族の女性の物語のように自分も同じように地上の人間と恋をしてみたいという切実な願いだった。


 それもそのはず。

 少女が置かれている環境では、それは絶対に叶うことのない願いだった。少女のこれまでの人生はほとんどがこの宮殿内で完結しており、外に出ることなどほとんどない。


 だからこそ少女は、家出という形で自分が置かれた環境から抜け出し、外の世界へと足を踏み入れたかった。

 そして今日も少女は、家出を成功させるために最初の難関である宮殿からの脱出を試みる。


「フフフ、思った通りここは手薄のようね。わたしだって毎回やられてばっかりじゃないんだから」


 こういうときに備えて少女は、前もって兵士たちの巡回経路や交代の時間帯を調べておいて安全な経路を確保していた。

 そのおかげで、ここまで誰にも見つからずに宮殿の出口まであと少しというところまで来ていた。


「やっぱり門の前にも人はいるか……。さすがに見つからずに通り抜けるのは難しそうだけど……2人か」


 こっそりと様子を窺っていた少女は門番の数を見てニヤリと笑う。


「えーい! 強行突破よっ!」


 その言葉通り少女は、一直線に海中を泳ぎ、門番たちが少女の存在に気付かれる前に門から飛び出した。


「――っ!?」


「ひ、姫様っ!」


 門番たちが少女に気付いたときにはもう遅い。

 荷物があるせいで速度が落ちているとはいえ、もはや追いつけない距離にまで離されていた。


「マ、マズい! また姫様の家出だ!」


「いったいどうやって見つからずにここまで!?」


「そんなこと言っている場合じゃないだろ! 早く捕まえないと処罰の対象になるぞ」


「だ、だが、その前に応援を呼ぶべきでは?」


「それだと、見失ってしまうだろ!」


 などと少女を追うか、応援を呼ぶかで門番たちが言い合いをしていると、


「まったくお前ら、職務中だというのに一体なにをしている!」


「だ、団長!」


 団長と呼ばれている屈強な体つきに騎士甲冑を身に纏った男の人魚が現れた。

 門番たちは先ほどの出来事を団長に伝えると、団長は一度頭を抱えながらため息を吐き、その後冷静さを取り戻しながら指示する。


「しかたない……姫様はオレが捕まえる。お前らは至急警備のものにこのことを伝え、国中に警備網を張れ!」


「は、はい!」


「いいか! 姫様が国外に出られるはずがない! 必ずこの国のどこかに潜伏しているはずだ。オレが姫様を見失った際には即座に内部の捜索へと切り替える! 行け!」


「了解しました!」


 門番たちが慌てて宮殿内に戻っていく中、団長はすぐさま少女が逃げた先へと追走を始める。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「フフフ、完璧だわ。初めて宮殿を出られたうえに、ここまで来れば当然追ってなんて――」


「姫様、見つけましたよ」


「な、なんで!? どうやって?」


 安心したのも束の間、引き離したつもりが、逆に追いつかれてしまった。

 予想外のことに少女はあたふたとしながら動揺した顔を見せている。


「オレたち騎士団の連中は、この国で厳しい訓練に明け暮れていたんですぜ。たとえハンデがあろうと、簡単に追いつけるんですよ。それに姫様は自分で枷を背負っていたんでもっと簡単に追跡することができましたよ」


「うぅ……」


 こうも簡単に追い詰められた現状に悔しさのあまり少女は頬を膨らませながら唸り声を上げていた。

 あと少しで国外に出られるというのに、このチャンスを逃したらもう次はない。そう考え、少女は賭けに出る。


「絶対に捕まってなんかやらないもんね!」


 即座に向きを反転させ、国の外の方向へと体を動かす。


 団長は、やれやれといった表情を見せながら少女を追いかけ、説得を試みる。


「そんなことをしても無駄ですよ姫様。この先は何層にも張り巡らされた結界が待っているだけ。行き止まりなのでもう鬼ごっこは終わりです」


「わかっているわよ、それくらい!」


 このオルディスには、他者からの侵入を防ぐために何層もの結界がドーム状に広がっている。

 そのため正規の手続きを踏まない限り国外に出ることなど、もとより不可能だというのに少女は泳ぐ速度を緩めず一直線に結界へと向かっていた。


「姫様! 一体なにをする気ですか!」


「結界なんかにわたしの夢を邪魔されてたまるものですか! 《秘技・結界破壊》!」


 高らかに技名を叫びながら少女は前方に魔法陣を展開させると、その魔法陣から光線が放たれる。

 その光線が少女の先にある結界に衝突した瞬間、光線は結界を貫き、驚くべきことに国外へと通じる道を作り出してしまった。


「ひ、姫様っ!? なぜこんなことがっ!」


「結界の術式さえわかってしまえば、これくらいわたしには簡単なことなのよ。残念だったわね……じゃあね」


「ま、待ちなさい!」


 オルディス以上の面積はある海底で見失ってしまえば、もう二度と見つけ出すことなどできるはずがない。

 団長は必ず捕まえるために少女との鬼ごっこを再開する。


「姫様、すぐにお戻りを! 近辺には凶悪な魔物もいるので危険です」


「そんな理由でわたしがあきらめるとでも思ったのですか! せっかくここまで来たんですよ!」


「それでも今だけは言うことを聞いてください。最近、なぜか魔物たちが凶暴化し、外で働く国民たちが魔物に襲われるという事件が多発しているんです。姫様にも同様のことが起きてしまったら国王様たちになんと言えばいいのやら……」


「……で、でも」


 団長の話に多少心が揺らぐものの、それでも少女は外の世界に出たいという気持ちが抑えきれずにいた。

 しかし現状、このまま少女が逃げ切れる可能性はゼロに近い。


 なにかないかと、必死になって思考を巡らせていると、


「――っ!?」


「なっ!?」


 突如、少女の後ろに凄まじい海鳴りとともに巨大な海流が出現する。

 まるで海の通り道のように渦を帯びたその海流はどこまでも続き、先が見えないほど果てしない。


「こ、これは……アビス海流か! くそっ! こんなときに……」


「アビス海流……っ!? やっぱり天はわたしを見放していなかったのね!」


 この海流の正体がアビス海流だと知り、少女は大喜びで海中を飛び跳ねる。


 アビス海流とは、まれに深海に出現する海流の名前。

 流れが速く、一度入ってしまえば途中で抜け出すことができない檻のようなもの。さらにこの海流自体、一本の道になっているため必ず最後には出ることができるのだが、どこに繋がっているのか分からないため決して足を踏み入れてはいけない禁断の場所でもある。


「ま、まさか……姫様!?」


「わたしは夢を叶えるためにこの国を出ることにするわ。……ああ、そうだ! お父さまたちにはこう伝えておいて。『行ってきます。次会うときは旦那様を連れて戻ってきますね』って」


 そう言い残しながら少女は唯一の脱出経路である海流へと迷わず飛び込んだ。


「ひ、姫様ぁぁぁぁぁっ!?」


 団長の声が少女に届くことはなく、海の泡へと消えていった。


 そして、見事初めての家出を成功させた少女はアビス海流に身を任せながらこれからのことについての想いに耽っていた。


「待ってなさい! わたしの未来のお婿さん! 絶対に見つけ出してやるんだから!」


 そう力強い宣言をする少女をよそに、アビス海流は予測不可能な航路を辿りながら少女を目的地不明の場所へといざなうのであった。

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