第18話 姫琴雪芽

 意識を失ったのは丸二日、起きようと思っても身動きすら難しい全身の虚脱感、その翌日には筋肉痛のような軋み、そして五日目に訪れたのは頭の奥深くで鈍いリズムを刻む痛みであった。

 ようやく動けるようになったのは一週間後、それでもまだ頭痛は完全に抜けておらず、客の少ない時間帯はカウンターで突っ伏していた。

 それを、来店した彼女に言えば。

「――呆れた。君は一体何をしたんだ?」

「なによう……」

「慰めの言葉が欲しいなら、ほかを当たるんだね」

「……抗った」

「うん?」

「抵抗した」

「いくら君でも、抵抗する相手が何なのかは知っているんだろう?」

「だって! ……あんたの存在が書かれたんだもん」

「ぼくが今、存在している原因は解明したけれど、同時に君が馬鹿だということを証明もされたよ。下手をしたら君が消されていたのかもしれないんだ――いや、まあ、あまり強くは言えないけれど」

 何しろ、彼女自身のことだから。

「まあいい、説教は狼牙ろうがに任せるから、きちんと話すように」

「うえー……」

「返事は?」

「はーあーい! あいたた、頭痛あるの忘れてた……」

「まったく」

 カウンターの上にあったメモ帳を一枚、手元に寄せた雪芽ゆきめは、そこにいくつかの文字を書いた。


 圧縮言語レリップだ。


 地図記号なんてものが、世の中にはある。消防署のマークを見て、知っている人ならばすぐわかるだろうが、知識がなければ、よくわからない記号でしかない。

 ここで着目すべきは、消防署を一つの記号で示すことができる、という点だ。圧縮言語もまた、その複雑な紋様のような一文字で、多くの情報を詰め込んである。

 ごくごく一部の魔術師、そして世界が扱う言語だ。

 では、その一文字でどれだけの情報量があるだろうか――簡単に言えば、小説一冊ぶんくらいは一文字で済む。

 何故か。

 記憶を引き出しに入れると表現した場合、圧縮言語はその引き出しの鍵だ。

 周囲の光景、状況、会話の内容など、鮮明な記憶そのものが引き出しに入れられており、圧縮言語の一文字が、その引き出しの鍵となる。つまり、その鍵を使った場合、出てくるのは引き出しの内部にある、全てだ。

 ――ならば?

 そう、本来この言語は、他人が書いたものを読むことに、適さない。だってそれは、他人の記憶の引き出しだから。

 まあ、世界の記録なんてものは莫大な情報であるし、それを扱う言語なんて、人間の枠に縮小してしまえば、こんなものかもしれないが。

「使えるようになったのかい?」

「ううん、なんか頭にきたから使うことにしただけ」

 おそらく、公人きみひとも狼牙も、あるいは青葉も知っていたのだろう。彼女は遅く、それを知ることになった。今はもう慣れたものだが――そもそも。

 姫琴ひめこと雪芽ゆきめは、自分に対する言い訳などではなく、現実に、

 思うのに時間がかかるが。

 やればできるのだ。

「ちなみに何を?」

「今すぐ消えちゃわないよう、時間を作っただけ」

「それはどうも。……まあ、君のお陰で余生が得られたよ」

「どうなるかは、わかんなかったから」

「さて雪芽、頼みが一つあるんだ」

「なに? 面倒なのは青葉にお願いね」

「VV-iP学園――中等部じゃなく、本校舎の、教師棟から地下に入れる。そこの区画を手に入れることができてね、君にあげるから好きにしていいよ」

「好きに?」

「アパートを借りるようなものさ。ただし条件が一つある」

「うん」

「コレを布陣して欲しい」

 ポケットから取り出したのは、まるでガラスケースのような立方体。中には青色のひし形が入っており、僅かに発光もしていて内部で色が反射していた。

「なにこれ」

「そう簡単に壊れないし、布陣には手順がいるから見てもいいよ。まあなんというか、余計なお世話かもしれないけれど、まあ必要だろうと思ってね。それもまた、案内板の一つってわけだ」

「ふうん。解析してもいい?」

「君なら簡単に済むだろうし、それも織り込み済みさ。きっと、その術式が発動するような状況になったら、君たちの役目も終わりになるだろう。早くそうなれと、願うのはあまりにも勝手だとは思ってるよ」

「あー、結界ね、うん、防衛というか……あれ? 鍵がついてる?」

「現理事長である五木いつきの血統が鍵だ。あの家系も調べてみると、これがまた危ういんだが、そこを逆に捉えた」

「逆って?」

「つまり、大げさな仕掛けの鍵にしてしまえば、危ういなりに生き残ると、そういうことさ」

「あー、役目を残しておけば、途中でくたばる可能性も低くなるっていう、アレ」

「そういう地道な仕掛けが積み重なって、ようやく抵抗なんてものはできるんだよ」

「なるほどねー、よくわからんけど、私の仕事はわかった」

「うん、頼んだよ。さて――ついでだ」

 珈琲を受け取った彼女は、反対側を見て。

十一じゅういち紳宮しんぐうなんて呼ばれるようになった、十一の宮の名を持つ魔術師の家名だけれど、それとは別に、躑躅つつじという姓を貰ったから、これをあかねにあげるよ。君は今日から、躑躅あかねだ」

 言えば、相変わらずハーフパンツにパーカーを羽織った少年は、軽く笑って酒の入ったグラスを持ち上げた。

「あ、存在が固着した」

「まあ気分次第で、あかねなら、どうとでもなるよ」

「いろいろ、くれるんだ」

「いや、ぼくはずっとこうだよ? ただ君たちの前では、できるだけ見せないようにしていたし、こんな状況にならなければ見せたくもなかった」

「でもさ、東京がああなる前に、準備しておかなかったの?」

「んー、ぼくとしては、本当はそこまで手を貸すつもりはなかったんだ。いや君たちじゃなく、これから先の話だぜ? 君のお陰で余生ができたから、こうやって残りを片付けよう、そう思ったのさ。嫌ってはいるけれど、だからってそれが全てじゃない。ちゃんと好きなところもある。君が狼牙ろうがに対して見せる感情と同じだ」

「え? 私は狼牙好きよ?」

「ああうん、君はそのままでいいよ、うん。そこらの駆け引きは、青葉も苦手だから、たとえにするのが間違いだったね」

「青葉は素直じゃないけどねー」

「青葉とエミリオンのことも、少しは気にかけてやってくれ。ぼくにはもうできないからね」

「うー……」

「こら抱き着くな。しょうがないんだよ、こればかりはね。ぼくは最初からだったし、実はこれに関して世界を恨んだことはない。君たちのような魔法師の方が、世界には利用されている――そちらの方がよっぽど気に入らないさ」

 軽く、雪芽の頭を撫でる。

 雪芽はわかっているのだ、彼女とはこれが最後の顔合わせだと。だから時間を引き延ばしたし、こうして嫌がる。

 嫌がってもしょうがないのは、わかっているけれど、感情がそうさせない。

「大丈夫だ、ちゃんと向こう側で待ってるよ。その時に楽しい話ができるくらい、君はこれからを楽しめば良い」

「うん」

 もう行くよ、ただ一言の台詞が口から出ずに。

 彼女にしては珍しく、言葉を口にせずに、しばらくそのままでいた。



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