Mosquito Bite

@aoito

第1話 海城匠 〜いつ何がきっかけで〜


海城匠は路上に停められている車に足早に近づいた。

車は型が古いようだが一見どこにでもある普通のセダンだった。盗難車を思わせる荒れた感じは窺えない。


佐々木曰くドアの鍵は開いていてキーはエンジンキーシリンダーに挿さっているとのことだった。

匠は歩きながら、盗み見るように周囲を警戒する。日曜の朝だからか住宅街に人影はなかった。


車の前まで来ると俊敏な動作で運転席のドアを開け、細い身体をセダンに滑り込ませる。

素早くドアを閉めるとあらゆる雑念が振り落とされたかのように静寂に包まれ束の間安心した。


ハンドル脇にあるシリンダーを見ると佐々木の言った通り鍵が刺さっていた。

匠はエンジンをかけ、逃げるようにその場を後にする。






いつ、何がきっかけで人生を間違えたのか。

車を運転しながら匠は考えた。



匠には虚勢を張るところがあった。

高校1年の時、同級生に自転車を盗んでみろとけしかけられた。どうせ出来ないとバカにされているのは明白だった。

入学して間もない時期だったのもあり、ここで舐められたらおしまいだと思った。


駅裏の駐輪場に並ぶ自転車から一番高そうな自転車を選んだ。電動アシスト機能と子乗せ台がついていた。

ホームセンターへ行き工具を買い、駐輪場に戻ってロックを壊し、同級生たちが待つ場所に自転車を運転して向かった。

「マジすげぇ」と喝采を浴びた。

みんなで散々乗り回し、もはや用がなくなった自転車は最終的には川に投げ捨てた。これも匠の案だった。マジウケると高評価だった。



高校2年生の時、たったひとりの肉親だった母親が死んだ。

脳梗塞だった。

匠が学校から帰るとキッチンの床に倒れていた。呼びかけても反応がないので慌てて救急車を呼んだ。歯の根が合わず声も手も震えていた。

匠はその時の自分の震えを今でも鮮明に覚えている。身体が恐怖に支配された時の震えを味わったのは初めてだった。


病院で臨終を告げられたあと家に戻ると食卓の上に頑丈そうな錠前が置きっ放しにされていた。

母親は鍵師だった。

匠の記憶では、物心ついた頃には母親は家で開錠の練習をしていた。


見ると錠前はまだ開錠されていなかった。

匠はそのままの状態で制服のポケットにしまった。なんとなく、鍵を開けないでおけばまた会えるような気がした。




頼れる親戚もいなかった匠は児童擁護施設に入所した。

人の良い年配の夫婦が経営していて、匠のことも随分と可愛がってくれた。


施設で過ごす間、入所した経緯に触れられることはなかったが施設長である旦那の方は思っていることが顔に出やすいらしく、匠が何の気なしにいつもと違った言動をとると表情は一変、『心配しています』と言葉を貼り付けたような顔になっていた。


副施設長の奥さんの方はいつもにこやかだった。暗く沈んだ顔なんか見たことがない。

だがふとした時に、本当にたまに、いつもの笑顔にわずかに悲しみが滲むことがあった。

それは決まって匠が母親を思い出し感傷的になっている時だった。



副施設長には一度だけ花をプレゼントしたことがある。母の日だった。

花屋の前を通ったら店員に声をかけられ、はい、はい、と受け答えしていたらいつの間にかカーネーションを手に施設に帰宅していた。


副施設長は少女のように目を輝かせ、少し濡れた目でありがとうと言って匠の頭を優しく撫でた。

今思えば副施設長はどこか母親に似ていたかもしれない。



つづく



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る