夢現

空閑漆

第1話 悲哀

 暑さの残る太陽が空を赤く染め、細かい雨が降る奇妙な天気だった。

 墓地に敷き詰められた石色を濃くした雨は、墓前に立つ私も同様に変えていく。体温を奪っていく雨を気にすることもなく私は墓を見下ろしていた。添えられた花が、雨の重さで項垂れていた。他にも訪れる人がいるのだろうか。

 私の妻は四か月前に亡くなった。妻の死は希望を削ぎ、闇を産み落とす。心の穴を埋めるべく墓前に立ち、妻であった裕子の思いに浸かる。それだけが私にできる事。家族や親戚の慰みの言葉を嫌い、私は今日も裕子に会いに来た。雨はシャツを濡らし、錘となって垂れ下がる。それでも私は墓前に立ち続けた。私に見えているのは――


 裕子が病院に運ばれたと連絡があったのは、蝉が鳴き始めた頃だった。車に巻き込まれたと電話は告げる。仕事を抜け出し、無事であってくれと繰り返し願った。しかし、駆け付けた私が見たのは、物言わぬ裕子、悲壮感漂う病室、代えられぬ運命。

 人はその光景を目にした時、泣き叫ぶのだろうか。最愛の者の名を、繰り返し呼び続けるのだろうか。私に出来たのは、裕子の姿を愕然と見下ろす事。頭が錯乱していった。混沌の渦に突き落とされ、私は病室の中で光を失った。


 夜に浮かび上がった部屋は静寂に包まれ、まるで孤独の檻だった。数日経とうが、私の心は止まったまま。自室のベッドに腰掛け、夜灯に照らされた床を見る。木の床に裕子が付けた傷を見付ける。眠っていた記憶が浮かび上がり、締め付けていた心が緩くなる。それは灯が消えるように闇に飲まれていった。

 悲しみが襲う。押し殺した声は顔を覆った掌から漏れ、枯れた叫びが部屋を埋めていく。髪を搔き乱し、加害者を呪い、言葉にならない叫びで妻を返せと訴えた。応えるものは何もなく、静寂で濡れた床に私は崩れ落ちた。


 裕子の死を受け入れられないまま、葬儀が行われた。私の周りが早送りで駆け巡り、完成された葬式の場にぽつんと置かれた人形が私だ。魂の抜けかけた私に慰めの言葉を掛けてくれる者もいたが、裕子の父は激怒する。

「だから言ったのだ! お前のような奴に、裕子を任せるのが間違いだと!」

 私のやって来た事は間違いでしかないと首元を掴まれた。私が裕子を殺したのだと更に力を込められる。衝撃の後、鼻が熱くなった。

 どん底だと思っていた所にはまだ深い闇があり、私を飲み込もうと更に深みへと引き擦り込む。庇ってくれた声は表層を滑るだけ。負が負を呼び寄せ、連鎖となって私を絡め捕った。私の幸せに代わりなどあるはずがない。誰も持ち合わせていないのだ。


 朦朧としながら葬儀を済ませ、仕事の休暇を貰った私は、家でぼんやりと過ごす事が多くなる。首になるのも時間の問題だろうと他人事のように思った。私の中にあった裕子の存在、死はそれをごっそりと抜き取り持ち去って行く。それを埋める事は出来ず、残像に縋り付くように自然と墓地へ足が向いた。

 私は世間から切り離された時間を過ごす。家と墓地を往復し悲しみに浸る。それが私の住む世界。

「また、来るよ」

 私は墓石に語り掛けた。後ろ髪を引かれながら、日の陰る墓地を歩く。雨は激しさを増し、私を責め立てるように容赦なく降り続けた。

 墓地の階段を下り、足を引き擦りながら狭い道をただ進む。人形のように動く私を止めたのは、一本の傘だ。差し出した主に目をやる。傘で顔は隠れていたが、背広を着た男だった。

「どうぞ」

 車はすぐ目の前。これだけ濡れているのに傘は必要ない。断る私に男は一拍置くと、囁くように言葉を放った。

「鏡を見なさい。今を変えたいのなら」

 酷い姿だと言いたいのか。憐みの言葉などうんざりだ。どんな言葉であろうと、この雨の様に肌を滑り落ちていく。どんなに積み重ねようと、裕子の存在には届かない。言葉に希望はない。

 思考がうねり、泥が脳に張り付く。全てが鬱積していく。体に流れる血を黒が侵食していくのだ。重い力に蹌踉めきながらも、何とか踏み止まった。このまま倒れてしまえば楽になれたかもしれない。なぜ立ち続けるのか。解っている。死ぬ勇気さえない臆病者だからだ。苦悩しながら恐怖に怖気づくだけの矮小な存在。それが私なのだ。

 顔を叩く雨が私を現実へと連れ戻す。男の姿はなく、辺りは夜へと変わっていた。幻だったのだろうか。一瞬考えた私は錆びた笑いを吐き、足を動かした。どちらにせよ私には関係ない。雨は闇を濡らし、夜を浮きだたせる。もうどうしようもないんだと私は車へ乗り込んだ。

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