第十六話 ジットラ陣地突破
シンゴラに上陸した第五師団主力は、一時タイ軍と交戦状態に入ったが、午前中には休戦となり、部隊を集結後、泰英領馬来国境に向かった。
松井師団長は諸隊に対し部隊推進に向け、前進命令を発した。
一 歩兵第十一連隊第二大隊の自動車部隊は、自動車により成るべくすみやか
に、また残余は本夜鉄道によりハジャイに前進
二 戦車第一連隊は逐次揚陸する部隊をもってすみやかにサダオに前進
三 独立野戦高射砲第二十六中隊は、揚陸完了後まずハジャイに前進
四 工兵第五連隊は速かにサダオに向い前進
五 師団通信隊は速かに現通信網撤収しハジャイに向け前進
六 輜重兵第五連隊は軍需品の前送に任ず
七 第四野戦病院(一半部を除く)第二防疫給水部はハジャイに向い前進
八 揚陸作業隊は依然現任務続行
九 各部隊の徒歩者は本夜鉄道により輸送す、これがため本夜一七〇〇までに
シンゴラ 停車場前に集合
師団戦闘司令部は一五一〇シンゴラを発し、一五五五ハジャイに到着した。河村少将の第九旅団は、一五三〇サダオ北端に達し、指揮下にあった佐伯中佐の捜索第五連隊を国境に向けて出発させ、後続中の第四一連隊の半数を佐伯部隊に続く様命令した。佐伯中佐は、サダオ西南方の橋梁は、配属工兵が修理中で通行不能であること、又国境迄の橋梁は全部破壊されていることを知り、夕刻徒歩で国境に向かって前進し、装甲車両等は橋梁の修理完了次第追及することを指示した。
十日、佐伯部隊は国境を越えて三〇〇米ほど進出すると、道路の両側がジャングルで湿地帯なる部分が一五〇米ほど爆破されて、其の南端に機関銃を有する約二〇〇の敵があり、猛射撃を受けた。佐伯部隊の第一中隊が突撃すると、敵は第二線陣地に後退したが、それも襲撃して突破した。さらに前進すると、爆破された橋梁に到着した。
橋梁の渡った所には、装甲車六両、自動火器六、七を有する三百ほどの機械化部隊を布陣している様だった。だが、混乱した敵は大した反撃もせずに敗走していった。
十日日中部隊を整理していると、後方より辻参謀が戦車中隊を率いて、佐伯部隊に追いついてきた。ここで、佐伯中佐の下には、戦車一中隊、山砲一中隊、工兵一小隊、衛生隊と防疫隊の一部を配して、二四〇〇佐伯挺身隊として急遽新しく部隊を編成した。
佐伯中佐は編成を終わり、訓示をおこなった。
「今後の突進にあたっては、一車が止まれば一車を捨て、二車が止まれば二車を捨て、友軍であろうが、敵であろうが、乗り越え踏み越え、突進ができなくなるまで、ただ突進せよ。側射や背射を受けても留まって応戦することを許さない。特に装甲のない部隊は、大きな損害を受けることも覚悟し、ただ突進することによってのみ危急を乗り越えうるものと心得よ、側背に残った敵は、すべて突進を終り、行きつくところまで行きついた後処理すればよし」
佐伯挺身隊の前進序列は、先兵、戦車中隊を先頭に、装甲車の第四中隊、第二中隊の一小隊、連隊本部、通信小隊、第二中隊の残、山砲中隊、第一中隊、工兵小隊、衛生隊及防疫給水部の順に行軍序列を組んで、十一日一一〇〇、歩兵第四一連隊第二大隊の夜襲に追尾する形で街道を爆進した。スコールで視界はよくなかったが、逆にこちらの部隊の行動も隠す要因ともなったし、雨の音でキャタピラの音もかき消された。
部隊がアースン付近にさしかかると、英軍の機械化部隊がいた。対戦車砲は道路上に配置されていたが、雨宿りのため、ゴム林に退避しており、戦車・装甲車、自動車等は無防備になっていた。そこを佐伯中佐は、踏み進んで行けということで、戦車・軽装甲車でもって敵の装甲車・自動車を蹴散らす形で突進し、二十分ほどで、英軍の陣地を突破抜けてしまっった。当然、突然の日本軍機械化部隊の出現に、英軍は反撃する暇もなかった。後続する日本軍部隊と英軍は交戦に入ったが、立て直すこともできずに、散々に敗走して行った。戦場には大量の兵器がそのまま残された形となった。
佐伯挺身隊は、敗走する敵を追ってなお突進し、十一日一九二〇頃に「チチバヂャング」の隘路に達した。前方の道路の左右は大湿地帯があり、なおかつ進む道路橋梁には八箇所の爆薬が仕掛けてあり、その奥には兵力未詳の敵部隊が陣地を構えていた。
行手の先には、英軍が難攻不落を豪語していたジットララインがあったのである。フランスが対ドイツに備て国境に構築した難攻不落を豪語した防衛線であったマジノラインと比して遜色なしと英軍は思っていた。日本軍は其の存在しら未知なものであり、どのくらいの防衛線が知らなかった。逆に言うと先入観がなかったので、一気に攻められたかも知れない。正攻法でいけば、そう簡単には突破できない戦線であった。だが、マジノラインが崩壊した様に、ジットララインもあっという間に崩壊したのである。
佐伯中佐は、道路の爆発物を排除し、なおかつ敵陣地を突破するために突進することを決し、戦車中隊に対し前面の敵を射撃させ、第四中隊と第二中隊に爆破装置の撤去をさせた。挺身隊の第一中隊主力以下はまだ到着していなかった。連隊本部周辺には敵の砲弾が落下しており、後方からは先ほどすり抜けてきたアースンの敗残兵がたどり着いて日本軍に対し銃撃を仕掛けてきたので、軽装甲車二両を急遽この敵にあてた。
一九四〇頃ようやく第一中隊と砲兵工兵が追及してきた。さっそく砲兵中隊に対し陣地を構築して前面の敵砲兵と敵陣地を砲撃制圧する様命じ、第二中隊に対し、西側より隘路前面の敵の左側面を攻撃させた。第二中隊は肩まで没する湿地帯を抜け、敵の左側面を突いて。二〇二〇頃慌てた敵はジットラ陣地へ退却していった。
第二中隊は敗走する敵を追ってゴム林を突進するが、途中敵の反撃を蒙り、死傷者が続出するもその場に踏みとどまり応戦するうちに敵は退却に移った。其の際、英軍は弾薬車六両に放火して退却したため、弾薬が破裂して、一時追撃は停滞した。この間を利用し、第二中隊は態勢を整え、負傷者を収容した。
ジットラの前面左方は大湿地帯とジャングルで、軍事行動は不可能と考えられていた。右方の平坦な地帯には地雷原を設け、三段式鉄条網を張り巡らせ、その後方に対戦車壕を築き、背後にまた鉄条網とトーチカを重ね、後方には砲兵陣地が置かれており、一本しかない道路を進すむ敵軍は、ことごとく撃破され、それこそここを通過するには相当な砲撃支援がない限り、不可能と思われるほど考えられた陣地であった。
主力は戦車中隊を先頭にジットラ陣地へ向かっていた。佐伯挺身隊はジットラの本陣地からおよそ一五〇〇米ほどに達したときだった。ジットラ陣地方面より激しい砲火が佐伯挺身隊に注ぎ始めた。さらに進むと、銃撃を浴びせてきた。
佐伯中佐は夜襲により敵陣を突破し、まずは敵陣の一角を占領すべく、数組の斥候を放って敵情地形を探索させた。夜が明けてしまえば、兵力的に少なすぎて陥落させるのは困難と考え、得意とする夜襲で一気に勝利を収めようと決した。
十二日〇三五〇第一中隊は道路の東側に存在するトーチカを攻撃開始し、五時過ぎにはトーチカを占領し、さらに敵情地形を偵察した。佐伯中佐は陣地を確保する様命じたが、依然として後方より浴びせられる砲撃は正確に第一中隊を捕捉しており、第一中隊の死傷者は続出した。
佐伯中佐は第二中隊長に対し二個小隊を率いさせ第一中隊に増援させた。だが、夜明けと共に英軍は戦車を伴い反撃に出てきた。佐伯中佐は第四中隊を前線に投入し、装甲車中隊も機関銃を降ろして戦闘に加入させた。
後方四キロに集結中の岡部大佐率いる歩兵第四一連隊の第二大隊に戦況を通知し、為に岡部大佐は後方より前線に急進中で、〇九〇〇になりようやく砲兵一個大隊による掩護射撃を開始した。英軍もこれに応じて、両軍による激しい砲撃戦となった。
佐伯中佐は第四中隊を第一中隊の応援に送り、山砲一門と戦車隊とを援護に第二線陣地への攻勢をさせ、昼過ぎには第二線陣地の一角を占領した。
一三二〇頃、第四一連隊第二大隊が道路東側より攻撃前進を開始した。ゴム林を突進していくが、英軍の砲弾もそこに集中し、ゴムの樹を吹き飛ばす音はさらに熾烈なるものを呈していた。一三四〇頃第一中隊の確保しているトーチカに対し、英軍は二百から三百の兵をもって発煙筒、手榴弾を交え逆襲に転じてきたが、後方より応援に駆けつけた第四中隊と合わせて撃退した。
旅団長の河村少将も一三三五には前線に到着し、四一連隊の主力を佐伯挺身隊と交代させ、歩兵第十一連隊主力を西側より突進することを決め、夜襲する計画であったが、英軍は日没前より退却を始めていた。
第十一連隊第一大隊砲小隊の陣中日誌を見ると、こうある。
『十九時大作命第一七号別紙受領直ニ各隊長集合アリ小隊長出席敵状ヲ知ルト共ニ前進ノ打合セ成ル前方ニハ銃砲声殷々タリ大隊ハ連隊ノ第二線トナリ二十時三十分前進ヲ開始ス
小隊ハ闇ノ「ゴム」林内ヲ前進二十一時道路上ニ進出夜間行軍ニ移ル 途中橋梁破壊サレ付近ニハ地雷布設シアルヲ以テ各人細心ノ注意払イツツ前進、直グ前方ニハ我ガ第三大隊交戦中ニシテ銃砲火物凄ク暗黒ノ闇ニ閃ク 敵ノ遺棄死体散乱アリ 各隊ハ道路上ノ一側ニ於テ休憩仮眠ス
大作命第一七号
第一大隊命令 一二・一二・一九〇〇
ジトラー北方三粁
一、当面ノ敵ハ兵力約一万ニシテ所々鉄条網ヲ有シ陣地前ニ地雷ヲ布設シアリ
目下退却ノ徴アリ
連隊ハ河村部隊ノ右第一線トナリ本道含マズ以西ノ地区を先ヅ「ジトラー」南
方水流ノ線ニ向イ追撃ス
第三大隊ハ追撃隊トナリ本道西側地区ヲ追撃ス
二、大隊ハ連隊ノ第二線トナリ「ジトラー」南方水流ノ線ニ向イ前進セントス
三、前進隊形及時機ハ別命ス
四、予ハ大隊本部ニ在リテ前進ス
第一大隊長 大本少佐 』
驚いたことにインド兵は退却せずに日本軍に投降を始め、其の数は増え千二百名を越えた。投降した兵より情報を収集した結果、ここは要衝のジットララインの主要陣地であること、英軍の兵力はインド第十一師団の第六、第十五旅団からなる歩兵約九個大隊と付属特科部隊で、凡そ五千四百名、戦車約九十両、対戦車砲五四を保有していたという。
第一一師団長マレーライオン少将は、兵が浮き足だってパニック状態となり、戦意を失っている状態では、戦闘の続行は困難と、ヒース第三軍司令官に撤退を要請するとともに、その返事を待たずに撤退を始めていた。ヒース司令官より連絡を受けたパージバル中将は、退却を却下したが、その時にはもう退却を開始し戦線は崩壊していた。
ジットラ陣地地区でのインド兵の大量投降は、藤原機関(F機関)による工作が功を奏している。藤原機関の報告書を見ると、工作の成果として
『国境付近より潜入せしめたる工作員は「ジットラ」北方地区に於て印度兵に接触し約八十名の敵兵を誘致し本工作の端緒を成せり
次で「ジットラ」「アロルスター」に約三十六名の工作員を潜入せしめ約百七十名の帰順を見たる外、一両日にして敗残印度兵七百名を糾合せり』
(アジア歴史資料センターRef.C14110646100「F機関の馬来工作に関
する報告」)
と記述されていることからも、現地部隊の予想に反して投降する印度兵は多かったのである。
佐伯部隊が押収した兵器は両日で、野山砲十七、速射砲二五、軽迫撃砲九、機関銃五、軽機関銃四五、小銃一六〇、自動小銃五、拳銃二、装甲車五二、自動車百十六、側車四、自動二輪三七に達し、野山砲弾七〇、速射砲弾五八〇、迫撃砲弾七〇〇、機関銃弾千五百、小銃弾四万三千、手榴弾四〇などを鹵獲した。
戦闘に参加した佐伯部隊は将校兵合わせて五百八十一名、戦死将校二名、准士官以下兵二十五名、負傷者将校九名、准士官以下兵七十四名であった。
英軍の戦死者は五〇〇から一千名であったとされるが、正確な数字は不明である。第一五インド歩兵旅団長のケネス・A・ガレット准将は行方不明となった。
三ヶ月持ちこたえると思われた堅陣は、意外にも二日間で陥落した。兵力差は一〇対一の劣勢での日本軍の勝利であった。英軍にとっては思わぬ展開であった。
ケダー州の首都アロールスターの防衛は厳しいものとなり、日本軍にとっては、この余勢をかって一気に同市を占領する旨動き始めた。
第五師団長松井中将は、十二日二〇〇〇をして河村部隊に対し、アロンスターに突進する様命じた。
第五師団命令要旨
河村部隊ハ当面ノ敵ヲ攻撃シ随所ニ之ヲ捕捉シツツ先ヅ「アロールスター」ニ向イ突進スベシ (中略)
理由
「アロールスター」ハ北部「ケダー」州ノ要衝ニシテ之ガ速カナル攻略ハ敵ニ与ウル精神的ノ打撃大ナルノミナラズ該地以南ニ於ケル敵ノ防禦施設ノ準備時間ヲ短少ナラシム
岡部大佐の第四一連隊は佐伯部隊を追い越して十三日〇四三〇ケバラバタスの橋梁北方の陣地を奪取し、同地にある飛行場も占領した。しかし、橋梁は案の定破壊されていた。
河村部隊長は岡部部隊に対して飛行場の整備と破壊された橋梁の修復の作業を担任させ、第一一連隊の渡辺部隊に対し南進を命じた。
〇五〇〇にはジットラの橋梁の補修が完了し野砲隊、戦車隊と第一線部隊を追及した。
師団司令部は一一〇〇にはジットラに進出した。歩兵第十一連隊第二大隊、戦車第一連隊主力及防空隊は「ケパラ・バタス」に向かった。
一二〇〇頃「ケパラ・バタス」飛行場整備の任にあたっていた岡部部隊を敵戦闘機数機が襲撃し若干の死傷者を生じた。
十三日、河村部隊は渡辺部隊、大本部隊の主力をもって一一〇〇「アロールスター」に達し、そこで機関銃を有するおよそ一個中隊からなる敵と交戦して敵を一掃し、朝井中尉の指揮する自動二輪車部隊は敵の銃火の中対岸の敵を攻撃するも寸前の所で橋梁は爆破された。鉄道橋の方はなんとか確保することができた。
十四日一〇〇〇師団戦闘司令所は「アロールスター」に到着し、第五師団はここで一旦態勢を整えた。
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