第三八話 戦訓と真珠湾攻撃のもたらしたもの

  第三八話  戦訓と真珠湾攻撃のもたらしたもの

 当時の日本海軍部隊での各部隊や各艦船の戦闘詳報なるものがあり、現存しているものは、防衛省の防衛研究所に保管され公開されている。また、順次ではあるが、国立公文書館アジア歴史資料センターで電子媒体にて公開されている。

 その中で、第五航空戦隊の戦闘詳報だけが残っている。他の南雲司令部である一航艦や、第一航空戦隊、第二航空戦隊のものは残っていないようだ。

 後に、横須賀海軍航空隊でも真珠湾攻撃の戦訓が研究報告されており、それは「戦史叢書ハワイ作戦」の付録第八として掲載されている。


 当然、横須賀航空隊での研究結果は当然であり、この攻撃に使用された航空魚雷と八百キロ爆弾は、初めての実戦で使用されたわけで、その効果や運用を含め、改善していかなくてはならない部分があるか検討する必要があり、横須賀航空隊ではその実験を担当している責任があったからである。

 その戦訓報告を見ると、多岐にわたり、戦術から空中戦闘、攻撃、偵察、通信、整備まであり、作戦の要旨、編制、経過、戦果まで分析したものになっている。


 詳細は戦史叢書に譲るとして、一つだけ参考までに記しておく。

 攻撃兵力の威力の項目で

「敵地上空在空時間ニ制限アル為充分ナル効果ヲ確認シ得ザリシコト敵側ガ被害ノ真相ヲ発表セザルコト及攻撃ノ実施或ハ過集中トナリ手薄トナリシ為現存戦艦ニ対スル八十番五号爆弾九一式魚雷ノ威力ノ限度ノ推定ハ困難ナルモ布哇攻撃ノ成果ニ鑑ミ前記我海軍現有兵力ノ威力ハ絶大ニシテ八十番五号爆弾ハ其ノ均衡高度以上ニ於テハ五乃至六発ノ直撃弾九一式魚雷モ亦同程度ノ命中魚雷ニ依リ現存戦艦ニ対シテハ致命的打撃ヲ与ヘ得ベシ

 然レドモ実戦ノ戦訓ニ鑑ミテ水上艦艇防禦甲板ノ増大強化竝ニ艦底防水区画ノ工夫研究ハ想像ニ難カラザル処ナルヲ以テ本戦果ニ安ンズルコトナク速ニ更ニ威力アル攻撃兵器研究整備ニ着手ノ要アリト認ム」

 と、今回使用した八百キロ爆弾および航空魚雷についての効果と更なる攻撃兵器の研究を示唆している。


 では、現場部隊である第五航空戦隊の戦闘詳報から見てみよう。

 その戦闘詳報中に戦訓の項目があるので、これを紹介する。

 戦 訓

(一)実施部隊より見たる奇襲成功の原因

 ①政戦両畧の転換理想的に行われ、米英としては帝国が戦争

  行為に出ずることを感知せざりしこと

 ②陸軍の動員其の他艦船の動き等よりして或程度の暗示を得

  たりとするも「ビルマ」方面の作戦と判断せしめたること

 ③機動部隊の企図に対する機密保持に関し中央及艦隊の執り

  し手段及実施部隊の厳手適当にして完全に企図隠蔽されし

  こと

 ④単冠湾出動後出会する艦船なく且天候に恵まれ補給は可能

  天測も所要程度可能に状況にして且つ敵の哨戒機行動圏内

  行動中は天候不良にして哨戒機より発見されざりしこと

 ⑤情報の精度及通報時機等極めて適切にして米国艦隊及「オ

  アフ」島の状況手に取る如く明瞭なりしこと

(二)成果予期以上に大なりし原因

  奇襲成功せること元より其の主因なるも飛行機隊が熾烈な

  る敵防禦砲火を旨し勇敢且沈着に所定の目標に対し攻撃を

  敢行し「戦時の術かは平時の術かより低下す」との常識を

  完全に覆し平時以上の術かを発揮せるに依るものとして右

  は飛行機隊の精神力に依ること勿論なるも建国以来の日本

  精神海軍(海軍航空部隊)創設以来育成せられたる伝統的

  精神が其の基礎たりしものと認む

(三)敵防禦砲火中我が被弾最も多きは機銃なり、而して被弾

  機多数ありしにも拘らず致命的被害なかりしは敵機銃弾が

  作裂弾ならざりしに依る

  将来艦船及基地防空用としては大型機銃(炸裂弾)多数を

  装備するを可と認む

(四)飛行機隊皈艦後、次回の攻撃の為の準備所要時間は可及

  的短縮を要する所当隊は新造艦なる為「タンク」に汚物の

  残留する畏れあり。燃料補給に際し濾漉するを以て補給に

  時間を要す。目下濾漉器を大型し所要時間の短縮に留めつ

  つあり

(五)当隊は九月一日編制せられ着艦訓練は概ね各自十五回乃

  至二〇回程度を実施せるに過ぎざりしが空襲当時は艦の動

  揺十二度内外にして全機急速収容を行いたるに着艦の為事

  故を生ぜるものなく順当に収容することを得たり


 このように戦闘詳報には、行動、戦闘実績だけでなく、成功や失敗、今後の対策なども現場にて思うところを記しているのが特徴であり、これが残っているものに対して、現場での戦闘状況をより現実的に把握できる。


 米軍の公式発表は、一年後の一九四二年十二月六日ノックス長官が真珠湾攻撃の損害を発表している。

 このことは、現在の戦史資料にはあまり取り上げられていないので、ここで紹介したいと思う。このことは昭和十八年に朝日新聞社から発刊されて「米公文書に見る対日謀略をあばく 米国への判決」の中で紹介されている。


   米海軍省発表

一、一九四一年十二月七日の朝、日本軍飛行機は、ハワイ区域にあった米戦艦全部、ならびに飛行機の大部分の戦闘力を喪失せしめた。戦闘用艦艇および補助艦艇を含む他の海軍艦艇、ならびに陸上施設、就中ヒッカム、ホイラー両陸軍飛行場、フォード島ならびにカネホヘ湾にある海軍飛行基地もまた損害を蒙った。


一、真珠湾には当時大艦艇を除き合計八十六隻の太平洋艦隊所属艦艇が碇泊していた。そのうち戦艦八隻、巡洋艦七隻、駆逐艦二十八隻、潜水艦五隻であった。航空母艦は存在しなかった。


一、日本軍攻撃の結果、戦艦五隻即ちアリゾナ、オクラホマ、カリフォルニヤ、ネヴァダ、ウエスト・ヴァージニア、駆逐艦三隻すなわち、ショー、カッシン、ダウンズ、水雷敷設艦オガラ、標的艦ユタならびに大型浮乾ドックが或は撃沈され、或は大破し、当分軍事的使用に堪えなくなった。


一、さらに戦艦三隻、すなわちペンシルヴァニア、メリーランド、テネシー、巡洋艦三隻、すなわちヘレナ、ホノルル、ローレイ、水上機母艦カーチス、修理船ヴェスタルもまた損傷を受けた。


一、以上撃沈乃至撃破された十九隻のうち永久的にかつ完全に喪失されたのは、戦艦アリゾナ一隻である。顛覆したオクラホマに対しては、原位置において修復せしめる準備が進められているが、現在この修復工事を開始することの当否については、いまだ最後の決定が下されていない。駆逐艦カッシンならびにダウンズはその価値の約五十パーセントが救われた。他の十五隻はあるいは既に引揚げられて修理され、あるいは将来引揚修理を施すこととなろう。


一、第三項第二文に述べられた八隻の軍艦は、すでに数箇月前艦隊に復帰した。第三項第一文に述べられた軍艦中、あるものは現在十分に活動しているが。他のものは船体の引揚げ修理のほか、広汎且つ複雑な機械ならびに電気改修を必要とするので、未だ戦闘に参加するにいたっていない。しかして、海軍修理当局はこの遅延の期間を利用し、多数の近代的改装を施し、改良を加えている。これらの艦艇の名前は、敵に作戦遂行上肝要な情報を提供する結果となるから明示し得ない。


一、一九四一年十二月十五日、すなわち日本軍の攻撃後わづか八日にして、しかも敵の再襲の可能性が間近に存在していた時期に、海軍長官ノックスは、アリゾナ、ショー、カッシン、ダウンズ、ユタ、オガラが喪失し、オクラホマが顛覆、さらに他の艦艇が損害を蒙ったと発表した。幸いにして、真珠湾における引揚修理作業が進められたのである。


一、米国海軍は、日本の攻撃により凡ゆる種類の飛行機大半を破壊された。一方陸軍はヒッカム、ホイラー両飛行場でも飛行機大半を喪失した。


一、一九四一年十二月七日の結果、甚大な兵員の損失があった。海軍は将兵に死者二千百十七名を出し、九百六十名は現在なお行方不明である。そのほか負傷者八百七十六名を出したが、生命は助かっている。陸軍将兵の損害は死者二百二十六名、負傷者三百九十六名で、負傷者の大半は全快して再び部署についている。


一、一九四一年十二月七日午前七時五十五分、日本軍爆撃機はヒッカム飛行場ならびにフォード島の海軍軍事施設を襲撃した。それにやや先立ち、日本軍はカネオヘ湾の海軍飛行場を攻撃した。数秒後敵雷撃機並に急降下爆撃機は各方面から急襲し来り、真珠湾内の大型軍艦に攻撃を集中した。敵軍の攻撃は正確な情報に基き、奇襲の要素と相待って多大の成功を収めた。


一、日本軍の最初の攻撃は奇襲であったが、米国戦艦は直に機関銃発射の準備がなり、さらに全員が戦闘準備に着くに従い、爾余の対空砲火も漸次これに加わった。殆ど全戦艦の高角砲は五分以内に砲火を開き、巡洋艦では平均四分以内であった。


一、同日午前八時九分から八時四十分までの間は、空襲はやや中休みの状態で、ただ急降下爆撃機ならびに水平爆撃機が攻撃を加え、ついでこの中休みをやぶって日本軍爆撃機が現れ目標の上空を各方面から前後左右に横切って、甚大な損害を目標物に与えた。爆撃機が爆撃を継続しているうちに、またも急降下爆撃機が現れた。第二次空襲は約三十分間つづいた。


一、日本軍攻撃以前、オアフ島にあるあらゆる機種の米国海軍機二百二機は飛行し得る状態にあったが、日本軍の集中攻撃の結果、そのうち百五十は即時かつ永久的に戦闘不能の状態に陥り、その大半は攻撃開始後数分間で失われた。残りの五十二機中三十八機は飛行を開始したが、他の十四機は滑走地点を失い時期を失した。


一、したがって米海軍は必要に迫られて、やむなく主要防禦武器として対空砲火に頼らねばならず、その結果、艦隊を絶え間なき空襲にさらす羽目に陥った。その時、米国からハワイへの途上にあった米航空母艦から飛来した十八機の偵察爆撃機が、偶然空襲下の真珠湾に到着し、直に前述の戦闘機隊に参加したが、四機は撃墜され、残りの十四機中十三機もまた索敵のため出発した。攻撃が開始されたとき上空にあったのは哨戒機が七機であった。


一、攻撃に参加した日本機の機数を決定することは困難で、すべての報告を慎重に検討すれば、もちろん戦闘機も若干あったが、正確に型を識別し得ない。


一、一九四一年十二月七日オアフ島には総計二百七十三機の陸軍機が所在していたが、ヒッカムおよびホイラー両飛行場の滑走路が破壊されたため、飛翔し得たものは極めて少数であった。


一、米海軍太平洋艦隊が一九四一年十二月七日日本軍の攻撃をうけた損害は極めて重大であったが、真珠湾その他の修理場に所属している海軍ならびに非戦闘人員の熱心かつ不断の努力のお陰で、緒戦における立遅れは間もなく克服されよう。


 ルーズベルト大統領は、ハワイ真珠湾の損害が深刻且つ重大であったため、ロバーツ判事を委員長とする調査団をホノルルに派遣し、調査の上報告させた。この調査団報告書が一九四二年一月二十五日ニューヨークタイムズに掲載された、「ロバーツ調査団報告書」であった。


 調査委員会は、ワシントンで十二月十八日から二十日の三日間に亘って事前打ち合わせを済ませ、二十二日ホノルル着、それ以降、百二十七名にも及ぶ証人の取調べを行い、多数の文書電報を押収した。しかし、其の中には国家機密情報を含まれており、当然のごとく其の公表については、引用を他に委ねて避けている。その聴取した書類は千八百八十七ページに及び、取調の書類は三千ページにも達していたという。


 結論はルーズベルト大統領、スティムソン陸軍大臣、ノックス海軍大臣の責任はないとし、あくまでも責任は現地のショート中将とキンメル海軍大将の怠慢にあったとする。この結論もまた検討を要するが、それは改めて真珠湾を巡る外交政略について機会があれば筆を取りたいと思っている。


 当時、マニラにあった米極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサー中将は、「大戦回顧録」の中で真珠湾攻撃の衝撃をこう記している。

 

『マニラ時間で一九四一年十二月八日、日曜日の午前三時四十分、私はワシントンからの長距離電話で日本が真珠湾を攻撃したことを知らされた。詳しいことは何もわからなかった。

 真珠湾は米国が太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛線は高射砲陣地、米軍のもつ最も優秀な飛行機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらに米太平洋艦隊に守られていて、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合せ部隊にくらべれば、お話にならないほどの強力なものだった。

 したがって、ワシントンからの電話を聞いた時に私がまず感じたことは、日本軍部隊はおそらく手きびしい敗北を喫したに違いない、ということだった。私が米側の大損害を知ったのは、それからだいぶ経ってかだった。』


 マッカーサーは日本軍を過小評価していたことは間違いなく、劣勢のフィリピン部隊が日本に対抗するためには、米太平洋艦隊の存在が必要だったからである。


 また、英国の首相ウィンストン・S・チャーチルは回想録の中で次のように記している。


『一九四一年十二月七日、日曜の夜だった。九時のニュースがはじまって間もなく、私は小さなラジオのスイッチを入れた。ロシア戦線とリビアのイギリス戦線における戦闘について幾つかの報道があり、その終りにハワイで日本軍がアメリカの艦船を襲ったこと、そしてオランダ領東インドでイギリス軍艦を日本が攻撃したことについて簡単な放送があった。(中略)

 私は大統領を呼び出すように頼んだ。大使も私について出て来たが、私が何か取りかえしのつかない措置を取るのではないかと思って、「まず事実を確認しておいた方がよいとは思いませんか?」といった。

 二、三分でルーズベルト氏が電話に出た。

「大統領閣下、日本はどうしたというのですか?」

「本当です」

 と彼は答えた。

「日本は真珠湾を攻撃しました。いまやわれわれは同じ船に乗ったわけです」

 私はウィナントに電話を渡すと、いつくかやり取りが行われた。私はふたたび電話に出て、

「これで確かに事は簡単になります。あなたたちに神のご加護

を祈ります」と、そんな意味のことをいった。

(中略)

 私が、アメリカ合衆国をわれわれの味方につけたことは、私にとって最大の喜びであったと宣言しても、私がまちがっていると考えるアメリカ人はいないだろう。私には事件の進展を予測できなかった。日本の武力を正確に見積っていたなどというつもりはないが、しかしいまやこの時点で合衆国が完全に、死に至るまで戦争に入ったのだということが私にはわかった。』


 チャーチルにとって、日米戦争の突入開始は、イギリスにとって瀕死の状態から抜け出す絶好の機会だったのである。 

 

 戦後、ニミッツ提督はその著書「太平洋海戦史」にて、真珠湾攻撃のことを次のように書いている。


「アメリカ側の観点から見た場合、真珠湾の惨敗の程度は、その当初に思われたほどには大きくなく、想像されたものよりはるかに軽微であった。真珠湾で沈没した二隻の旧式戦艦は、日本の新しい戦艦と対抗するにも、あるいは米国の高速空母と行動をともにするにも、あるいは米国の高速空母と行動をともにするにも、あまりにも速力が低かった。「アリゾナ」と「オクラホマ」以外の旧式戦艦は浮揚後に改装された。これら改装旧式戦艦の主たる任務は、戦争の最後の二年間に、陸上目標に対する砲撃であった。旧式戦艦を一時的に失ったことは、他方当時非常に不足していた訓練を積んだ乗組員を空母と水陸両用部隊に充当することができ、それは米国をして、やがて決定的と立証された空母戦法を採用させることになったのである。

 攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設には事実上手をつけなかった。日本軍は湾内の近くにある燃料タンクに貯蔵されていた四五〇万バレルの重油を見逃した。長いことかかって蓄積した燃料の貯蔵は、米国の欧州に対する約束から考えた場合、ほとんどかけがえのないものであった。この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったであろう」


 日本とアメリカ、そして、英、オランダ、オーストラリアとの激戦が始まっていくのである。

 そして、何よりも米軍が得た教訓は、戦艦群を喪失したことによる、空母の活用法だった。日本の編み出した機動部隊の艦隊編成と攻撃法は、補助兵器としてではなく、新たなる主たる攻撃手段としての空母運用であり、アメリカにとって新しい戦い方を教授されたのである。

 だが、アメリカもそれが定着するには、まだ時が必要であった。

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