美術館から白鯨まで

 空に浮かび上がる白鯨は僕のことを見下ろしていた。

 白鯨は我儘だった。

 おそらく、地球上のどの生き物よりも我儘で、そのことを気にしていなかった。

 ある日、白鯨はとある町に墜落した。

 何百人という人が亡くなったと聞いている。しかも、それだけにとどまらず、その超巨大な体が落下したことで生まれた衝撃は自身をも生み出した。

 震度五。

 建物は倒壊し、それに潰されて亡くなる人多数。重要文化財認定されていた壺、絵画、彫刻等はことごとく壊れ、被害総額は十四億と言われた。

 そんなことが起きてもである。

 白鯨はまた飛び上がると、別の町の上へと移動し始める。

 これが一度目。

 そして、また、白鯨が落ちてくるのではないか。それこそ、一度目のような被害がまた生まれてしまうのではないか。

 その恐怖だけが。

 町を支配する。

 その直ぐ次に、国は白鯨を迎撃しようという作戦を立てたが、これも上手く行かない。殺したとして、その死体が落下してきたら大惨事もいいところである。

 僕の住む町は二度目の被害を受けるであろうと目され、とうとう人も少なく、父親も母親も友人も町にはいなくなっていた。

 僕は目玉焼きを乗せた食パンを咥えながら屋根に上って白鯨を見上げた。

「白鯨くんは我儘だけど、いいことをするね。」

「俺様はどんないいことをしたんだ。」

「実は僕、虐待されていたし、いじめられていたから、人の少ないこの町が大好きになれたんだよ。ありがとう。」

「じゃあ、落下してもいいか。」

「なんで、落下したいの。」

「この町にはいたる所に美術館があるだろう。その作品を生で、この目で見たいのだ。」

「趣味が高尚だね。」

「俺様は高尚だ。親に言われて始めたことだが、書道も特待だ。」

「書道なんだ、習字じゃなくて。」

「あれは、書道のレベルが低い版だ。」

「うっそだぁ、学校で習字とかやったりするよ。」

「いや、そういうのじゃないんだぞ、あれは違うやつなの。」

「でも、先生は習字をやりましょうっていうよ。」

「学校でやるやつは習字で、それよりレベルの高いのが書道なの。」

「でも、学校にあるのは習字部じゃなくて、書道部だよ。学校でも書道やるよ。」

「いや、分かる分かる。分かるよ。そういうことなんだけど、なんていうのかな、違うのよ、そこは。」

「何が違うの。」

「そうだなぁ、どうする、俺様の背中に乗って書道の先生に会いに行ってみるか。ちょっと、俺だと説明しきれないな。」

「え、いいの。習字大好きなんだ、僕。」

「習字じゃなくて書道な。」

 その瞬間、白鯨が、僕の家の前に一気に落下した。

 またも地震が起き、体が跳ねあがると僕はいつの間にかその白鯨の背中に乗っていた。多くの人が見上げているのが分かったので顔を確認すると、いじめっ子の女の子が目を大きく広げてこちらを見ていた。

 何故か分からないけど、白鯨の腹を何度も何度も叩き、滅茶苦茶泣いていた。

 返せ、返せ、と叫んでいるのが口の動きで分かる。

「いいのか。さよならとか言わなくて。」

「なんで。」

「分かってやれよ。そういの。」

 何を分かってあげればいいのか、分からないけれど、またこの町に戻ってきた時にはきっと、僕は習字も書道も上手くなっていると思う。

 だから、その時には達筆な文字で。

 もう一度、あのいじめっ子の女の子にラブレターを書きたいと思う。

 僕がいじめられるきっかけになったのは、僕がその女の子にラブレターを書いて皆の前で渡したからだ。

 あの時、顔を真っ赤にした女の子が嬉しそうな表情をしたのはたった一瞬。その場で僕のラブレターを直ぐに破いて、その真っ赤な顔のまま大きな声で僕を馬鹿にし始めた。

 その中に。

 こんな下手糞な字でよく書けるよね、という言葉があった。

 だから。

 一生懸命頑張って、字が綺麗になったら今度こそちゃんと僕の気持ちを読んでくれるかもしれない。

「掴まってろよ。」

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