第四話 後期高年期:田中 ヨシ乃(たなか よしの/八十五歳)



 午前七時半。


 その老人ホームでは、スタッフたちにより朝食が用意され、各部屋へと配られていた。


 各部屋で、朝から東の陽がよくあたるその一室。入り口の扉には、『田中 ヨシ乃』という名札が挟んであった。


 畳敷きの床に敷かれた布団の上で、半身を起こしながら、その老婆は腰元まで掛け布団をかけ、上半身には袖のないペーズリー柄の肩当てを羽織っていた。


 もう何時間も前に目覚めていたようだが、呆けたままガラス戸の外を眺めていた。


「ヨシ乃さん、朝ごはんですよ」


 中年と若い女性のスタッフが二人、配膳台を引きながら部屋に入ってきて、声をかけた。


 返事は無かった。

 老婆の前に簡易机が用意され、食事が運び込まれた。おかゆと柔らかく煮た魚、そしてすり潰された豆の煮物と味噌汁だった。


 朝食の匂いに反応したのか、老婆の頭が動いた。皺だらけの手が伸びてスプーンをつかんだ。特にスタッフたちの介護も不要で、自ら茶碗をもっておかゆを頬張り始めた。


「おいしい? おばあちゃん」


 茶髪の髪をアップにした女性が話しかける。答えはまた、ない。けれどスタッフは満足そうに肯いた。老婆の旺盛な食欲をもって返事としたようだ。


 食事を配る仕事はこの部屋が最後だった。いったん作業に区切りが付いた女性二人は、ふぅと息をつき、家族たちが訪れた際に利用する椅子に、向かい合って腰をかけた。


「あとは待つだけ。ヨシ乃おばあちゃん、今日もちゃんと食べてくれそうね」


「うん、本当にお元気だわ」


 二人は配膳台に一緒に乗せて運んでいたポットから、自らもお茶を注ぎ、飲みながら雑談を始めた。


 数分ほど会話していると、老婆が咳き込み始めたので、奥に座っていた女性が立ち上がって、羽織の上から背中を擦ってあげた。


 膝までかけていた毛布がずれていたので、引っ張り上げた時、布団の中から黒い毛むくじゃらの物が外に滑り出てきた。


「あら、動物のぬいぐるみを抱えて寝ていたのね。好きなのかしら?」


「ああ、あなたはヨシ乃さんに付いて日が浅いから、知らないでしょ。おばあちゃん、どこに行く時でも、その子をお持ちなのよ」


 お茶を飲んでいた中年の女性スタッフが相方に説明した。


「黒猫のぬいぐるみなの。ホームに入居する前に飼っていた猫ちゃんとそっくりなんだって。とても可愛がっていたけれど、寿命で死んでしまって、それ以来ぬいぐるみがないと、寂しくて眠れないらしいの」


「お優しいのね。ヨシ乃さんらしいわ! あ、えーと、もうひとつ聞いてもいいですか? あの枕元にある眼鏡とボロボの本も、この前からずっと置いてあるみたいだけれど……」


「ああ、それはね。亡くなったおじいさんの形見らしいわ。いつもそこに置いているのよ。それも安心するんでしょうね」


 スタッフのひとりは老婆が夢中で食事をしているのを見て、少しだけと背中越しに、その本を手に取らせてもらった。本には紙のカバーもかかっていなかった。おそらくボロボロになり取れてしまったのだろう。


 女性は表紙に印刷されたタイトルを見た。


 『高村光太郎 詩集』とあった。「ちょっと見せてね」といい、本をパララとめくると、栞が挟んである箇所で、自然と開くページが止まった。


 詩のタイトルが目に入った。



 激動するもの



 もう殆ど薄れて色がなくなった赤線が、見開いたページの左端の最後の方に引いてあった。



 さういふものだけが いやでも己を動かすのだ

 さういふものだけが この水引草に紅い点々をうつのだ



 女性スタッフは本を閉じると、丁寧に元の場所に戻し置いた。


「あなた、ヨシ乃さんの昔のお話ってご存知? ここに入所した頃――今よりももう少しお口がきける時にね、ご本人が教えてくれたの」


「え? 何のこと?」


「スゴイのよ! 何か波乱万丈っていうか……ヨシ乃おばあちゃんが、昔はとても活躍された競泳の選手だったって聞いたら、あなたびっくりしない?」


「ええ! そうなの?」


「すごいでしょう? 戦争より前の時代だから、日本人の女性がスポーツを始めた黎明期だって言うじゃない。学校同士の対抗戦ですごい成績を残したらしいのよね」


「えー失礼だけれど、何だか意外ね!」


「それだけじゃないわ。若い頃に、えーと、何て言ったかな……ミャンマー、昔だからビルマ? 何だかあちらの暑い国の方へ行って、通訳の仕事をされていたらしいわ。それでね、何だか外国との戦争に巻き込まれて、銃で撃たれたこともあるんですって!」


「まあ怖い! よくご無事で……」


 女性スタッフは思わず手を口に当てた。


「まだあるわ。それで日本に戻ったんだけれど、晩年にスゴイことをされたの……何だと思う?」


「想像つかないわ!」


「女性ではじめての落語家になったっていうの! それも真打に昇進したって!」


「えー!!」


 こんどこそ、若い本気で女性スタッフは驚いたようだ。


「それ、ほんと!? だ、だって……私偶然だけれど、テレビで観たことがあるの。女性が落語家になったのって、ここ数十年の話だって解説者が言ってたよ?」


「それがどうも、正式な記録には残っていなくって、でもおばちゃんが言うには、ちゃんと高座に立ったって……。写真も見せてもらったから、嘘ではないみたい」


「そ、そうなんだ……。それが一番びっくりしたわ。信じないわけじゃないけれど、いまのヨシ乃さんからは想像もつかなくって」


 スタッフたちは無言のまま、互いに目を見合わせた。そしてその流れで、同じ速度で視線をずらしていく。その先には、そんな会話があったとも知らずもくもくとご飯を食べ続ける老婆の姿があった。


 二人ともしばらく、彼女と彼女の歩んできたという運命を想像して、不思議そうに眺めていた。


「まもなく朝食終了のお時間です。スタッフは各部屋の食器の片付けを始めてください」


 天井に取り付けられていたスピーカーから音楽が鳴り、業務を告げる放送の声が響いた。はっとした二人はすぐに意識を取り戻し、配膳車の方へと戻って行った。


「ヨシ乃さん! またあとで来ますからね!」


 そう老婆に声をかけると、スタッフの二人は配膳台を押して、そそくさと部屋を出ていった。



 ぽつんと取り残された老婆は、そんな変化も気にせずに、ただ食事を続けていた。


 その時、窓の外に植樹されたハナミズキの枝の上で、黒い影がすっと動いた。


 どんな声にも反応しなかった老婆だが、その動きには気がついた。彼女はお碗を持っていた手を止めて、ガラスの外の景色を見つめた。


 木の上にいた影は、黒い猫だった。大人になったばかりだろうか、まだ少し体が小さかった。猫はゆっくりとしなやかな足取りで、細い足場の上を器用に進んでいった。


 そうして枝の先の方まで行くと、ちょこんと座りこんで、毛づくろいをする。やがて開き始めた花の蕾に気づいたのか、小さな鼻を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。


 老婆はじっとその姿を見ていた。


 やがて持っていた味噌汁のお椀と箸をゆっくりとお膳の上に戻すと、老人とは思えない、はっきりとした声で言った。


「じいさんや、あたしゃ、楽しい人生だったよ」


 そうして背をそらすと、誰もいない部屋の入り口の方に背を反らして、大きな声で呼びかけた。


「ねえ、あんたたち。今日の味噌汁は、何だかぬるいねえ!」


 最後まで言い切ると、ふたたび正面に向きなおった老婆は、いきなり前のめりにばったりと倒れて、ぴくりとも動かなくなった。

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