第二話 生きるために

道中は同じような草原が続く。

歩いている内に、一面の草が踏んでも直ぐに起き上がる事に彼は気付く。

丈夫な草だ。食べたらさぞ歯応えがあるだろうと考えてげんなりする。


しばらく歩くと遠方左手に一本の木が見えた。

どこかで見た事のある、クリスマスツリーのような針葉樹だ。

同じような木がもう一本あったのかと思い、

遠目に眺めながら彼は通り過ぎようとする。

その時、遠くから風の流れるような音が聴こえる事に気付いた。

聴いた覚えがある音。あの滝のような水場の音と同じ音だ。


そのまま真っ直ぐ歩き続けると、

彼の想像通り先程と同じような水場に辿り付いた。

相変わらず絵画から水が出ているような奇妙な光景だが、

二度目となると少しホッとするから不思議だ。


この水も恐らく飲めるだろうとは思いつつ、

前回と同様の確認を繰り返してから飲み始める。

少しだけ喉を潤した後、先程の水場とは違う事に対する印を残すことにした。

本来は滝壺として水が溜まっている姿であるべき所。

落ちてくる水が消えてしまう空間に枝の一部を突き立てておく。


まだ日が沈む様子がない。

食べるものも全く収穫がないので、もうしばらく歩く事にした。


先程と同じように水場から真っ直ぐ草原を歩き出す。

しばらくすると遠方左手に針葉樹が見えてきた。

彼にとっては既視感を覚える位置だった。

もしかすると、と考えているとやはり先程と同様風の流れる音が聴こえる。

等間隔で同じようなレイアウトの水場と木を用意しているのだろうか。

変わらない光景にげんなりしながら歩く彼を迎えたのは、

やはり先程と同じような水場だった。

しかし、滝壺であるべき箇所を見て彼の背筋が凍る。


先程、彼が地面に突き立てた枝がそこにあった。

そっくりな別物と思いたいが、どうしても彼が突き立てた物にしか見えない。

いつの間にか方向感覚を見失ったのだろうか。

いや、真っ直ぐに歩いていただけだ。

あるいはたまたま同じようなものがあるのか。

彼はどうしても確かめなければいけないと感じる。


残りの枝の半分をその枝の横に突き立て、急ぎ足で元来た道を戻る事にした。

途中で遠方右手に針葉樹がある事を確認しつつ、早足で真っ直ぐ進む。

程なくして水場へとたどり着いた。

その滝壺であるべき場所には、彼が恐れていた通り枝が二本突き刺さっている。

ここはやはり、先程と同じ水場だ。彼は身震いする。

咄嗟に閉じ込められたという印象を持った。


今置かれている状況が正確にはつかめていないが、

閉じ込められている場合は誰かが監視している筈だと推測して彼は大声を出す。


「どなたかお聴きになられてますよね。話し合いの機会を下さい!」

彼は声を限りに叫び歩いたが、特に反応はない。


しばらく叫び歩いて時間の無駄を悟った彼は、

疲れと虚しさを感じて膝をつく。

閉じ込められている事がただの思い込みである可能性も、

何らかのドッキリに巻き込まれている可能性も、

彼はまだ捨てていない。

しかし、真っ直ぐ歩いているのに同じ場所に着くことや、滝のような水場。

説明できない事が起きているのもまた事実だった。


よろよろと歩いた彼は、近くにあった針葉樹にもたれかかる。

叫び続けたせいで空腹感に気付いてしまっていた。


まだ食べられそうなものは草しか見つけていない。

木の皮も食べられると聴いた事はあったが、

具体的な方法が彼には分からない上に、とても敷居が高いように感じる。


背に腹はかえられない。彼は草に望みを賭けるしかなかった。

アイスプラントのようなその草をどのように食べるか考え始めたその時、

不意にハンバーグが頭に思い浮かんでしまった。

『焼きたてのハンバーグが欲しい。』

彼の思考は容赦なく無い物ねだりを始める。


野草を食べなければならない時に、辛いものを思い出してしまった。

草しかない現実に向き合おうとした刹那、

周囲から美味しそうな香りが漂い始めた事に彼は気付いた。

先程まさに思い出していた、ハンバーグの香りだ。


あまりの出来事に彼は自身がおかしくなってしまったかと疑ったが、

香りははっきりと濃くなっていく。

訝りながら香りの元を探した彼は、

草原全体から匂っている事に程なくして気付いた。


夢中になって草を数本引き抜き匂いを嗅いだ時、

彼はそれが香りの元である事を確信した。有り得ない。


彼の理性は幻覚の可能性を声高に訴えているが、

目の前にある草の香りがどうしてもハンバーグの匂いとしか思えない。

本能に負けて口に運びそうになる欲求を彼は必死に堪えて深呼吸をする。

状況をもう一度整理しなければならない。


魔法などの非科学的な要素を排除して考えた場合、

この空間を創った科学は彼の知っている水準より遥かに進んでいる。


もう一度滝のような水場について彼は思い出す。

何もない空間に穴を開けて滝を作ったような印象だ。

滝の裏側を触ってみればもしかするとパイプがあるのかもしれないが、

それにしても想像も出来ない技術での完璧なカモフラージュという事になる。

地面に水が届く前に消える現象も謎でしかない。

深く考えずに滝壺であるべき場所に枝を刺していたが、無事で良かった。

今考えれば手が消えていてもおかしくない現象だ。


目の端で何かが動いた気がしたので、彼はそちらの方へと目をやる。

匂いを嗅ぐ為に先程千切った草が、みるみる内に再生している事に彼は気付いた。

先程歩いていた際もそういえば直ぐに起き上がっていた。

何となくホラー映画を思い出させるその再生光景は、

あまりにも不自然な早さだ。

これを食べるのかと思うとまた少し気が滅入る。


この空間は一体何なのだろうか。彼は周りを見渡す。

真っ直ぐ歩いていて同じ場所をループするからには、

地球のように引力のある球体のような所なのだろうか。

それとも全く別の原理なのだろうか。

いずれにせよ彼の理解の範疇を超えている。


つまり。この草がハンバーグの味がする草でもおかしくはない。

彼の空腹は草が放つハンバーグの香りの影響で限界を迎え、

思考が麻痺し始めていた。


彼は手に持った草を恐る恐る口元に運ぶ。

やはりハンバーグの香りがする。

これが幻覚であれば、きっと味覚まで幻覚に陥るに違いない。


少し千切って舌に乗せてみると、ハンバーグの香りが口の中に広がっていく。

ゆっくり噛んでみると、草はハンバーグそのものとしか感じられなくなった。

恐ろしい事に肉汁まで出て来るのを感じる。

彼が食べた事のある、そして食べたかった味そのものだった。


ひとしきりハンバーグ味を堪能すると、現金なものでデザートが欲しくなった。

試しに好物のライチを思い浮かべてみる。

まさかとは思っていたが、草からハンバーグの香りが消えていく。

本当にライチの果汁の香りが漂い始めた。当然のように味はライチだ。

噛むと果汁が口一杯に拡がっていく。


心ゆくまで食事を楽しんだ彼は、草原に寝転がり少し考える。

贅沢な幻覚だった。いや、本物としか思えない。

満腹感はあるが、栄養はどうなっているのだろうか。

すっかり満足した気分だが、食べたのはただの草だ。

これだけを食べ続けると栄養失調、最悪の場合は餓死してしまうかもしれない。

そのような彼の不安も、食後の眠気によって溶かされていく。


いざ眠ろうとすると、真昼のような明るさが目に染みる。

彼が来てから相当の時間が経っている筈だが、日が落ちる気配はない。

ここまでのことが出来るのであれば、

指をパチンと鳴らすだけで夜に切り替わって欲しい。

彼のイタズラ心は実際に鳴らしてみた後に軽い恐怖へと変わった。

太陽だったものが一瞬で月に変わり、青空が星空となったのだ。


空が偽物であった事に少しショックを受けつつも、

やはりこの場所が屋内である事を彼はついに確信する。

違和感の正体はこれだったのだろう。

ここが屋内である以上、屋外もあるはずだ。


今日は生きるための最善を尽くした。

彼は考える事を明日の自分に委ねて眠りに就いた。

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