第21話 半夏生の巻
ときは元号が平成に代わるほんの少し前。
ところはT県の西のはし、芯斗市中那村。
ウチは、古い木造の日本家屋である。
家族は姉と私。そして弟と父と祖母。
姉は、蹴り技が得意だ。手は投げ技につかい、打撃は脚をつかう。
リーチが長いし、なにより姉にとって蹴り技は「ライダーキック」なのだ。
六月三十日木曜日、曇天の夕方、弟が離れの戸を開けるなり悲鳴をあげた。この離れは、祖母と弟が使っている。
「うっわわわあああああーーー!カズ姉ーーーー!カズ姉!カズ姉ええええーー!来て!来てきてキてえええええーーーー!トモ姉でもかまんんんんー早う来てええええええーー!誰か、ダレか来てェええーーー!」
私は風呂焚き、姉は夕食を用意していた。土間と焚き口、お互いサンダル履きである。ちなみに、この晩はシカカレーだ。冷凍して半年が過ぎ、古くなったジビエが、この時期によくまわってくる。
姉が応えた。
「なあーにいー?ユウイチー!」
「ハチ!ハチ蜂ハチ蜂ハチ蜂ハチ蜂いいいいいいっ!げげげ、ゲンカンにおる!蜂ハチ蜂いいい!」
「ハエタタキで、なんとかできんかね~?」
「無理むりムリ無理むりムリ!コワイ!それにオレ、家ん中に入れんもん!」
「しょーがないなー。ウチの『ドゴラ少年』は…」
姉は、ちゃちゃっと手をゆすぐと台所を出た。ウチにも水道水は来ているが、よく使うのは井戸水である。モーターで汲み上げた井戸水は、夏はとくに冷たくて気持ちがいい。
「どこだ!『ハチ女』は!」
間違っていない。働きバチはみんなメスなのだ。
弟は半泣きで応えた。
「カズ姉ぇ…あ、あれ、アレ…」
アシナガバチが一匹、ぷーんと目の前を飛んでいく。
「あー、コレかあ。あ、よっと!」
一閃!右脚をしゅっと蹴り上げた。ぷつっとハチに当たり、離れの前に落ちる。
「たすかったあー。オレ家ん中入れんけん、どうしよう思うた…カズ姉様、ありがたやアリガタヤ」
「うむうむ、くるしゅうない」
風呂の焚き口と台所は引き戸ひとつでつながっている。
「ごくろーさん、お姉ちゃん」
「あ、トモ美、あんたでもよかったねえ、ハチ退治」
「まあねえ。けど、私の剣技より、お姉ちゃんのキックのほうが手っ取り早いやん」
「似たよーなもんで、アタシら」
「この間から…ムカデ、ゲジゲジ、ゴキブリ、たて続けじゃない?」
「うん、ほとんど毎日、何かで助け求められる」
「そうでねえ、お姉ちゃん」
「まあ、大自然のド真ん中にウチがあるんやけん、虫どもにしたら、自分らのテリトリーに人間が住んでるいうことやけんねえ」
「それにしても、あの弟はどーしてこうニガ手なもんが多いんだ…」
「しゃあないわあ、誰でもニガ手はあるしねえ。ま、アイツは確かに多いけど…。あーあートモ美、あんたはアレやっけ。『ドビンワリ』!」
「イヤァァァァァァァァァ!言うなァァァァ!言わないでェェェェ!思い出すのもイヤァァァァァァ!」
ドビンワリとはウチの地方の言い方で、エダシャクという蛾の幼虫のことを指す。シャクトリムシの一種である。
これが木にとまっていると、擬態によって木の枝にしか見えないのだ。
私は以前、何かのひょうしでコレに触れてしまい、その動いたすがたに心底驚いた。
木の枝としか認識していなかったものが、この手の生物特有の動きで曲がり、ヒョコヒョコ歩きだしたのだ。この事件は私のトラウマとなり、以後私は脚の無いモノのほとんどがダメになってしまった。
「お!トモ美、あんた『つのだ💀じろう』の恐怖顔も会得したやんか!レパートリー増えたねえ!」
「お、お、お姉ちゃん……私も…反撃するで…『メッカの巡礼大集合』!」
「アアアーーーやめろお!やめてくれえええ!」
姉は、細かいものが集まっているのが大の苦手なのだ。
「ペンギンの営巣!」
「やめてくれええ!ショッカー!」
「まあ、今日のところは、このくらいにしといてやろう」
次の週の金曜日、夕方のことである。
私は薪割りをしていた。
乾燥させた廃材を、風呂の焚き口で燃やしやすいように、ナタで割るのだ。
風呂に関しては、すっかり私の担当になった。
仕方がない。姉は一時期、焚き口に近寄れなかったのだ。
その姉は「エビウエ」と「コロバシ」を用意している。
エビウエとは、川で「テナガエビ」を捕るための箱型のワナであり、コロバシとはウナギを捕るための筒型のワナである。
「あー、もうそんな季節になったか…半夏生やったねえ…そういやあ。今年も大漁ヨロシク!お姉ちゃん」
「ふっふっふ、今年はどんなろうかねえ」
そばのバケツには、畑から掘ってきたのだろう。ミミズがいくつも、のたうっている。
「いっつも、よう捕ってくるやん、お姉ちゃん」
「まあ、ねえ……うーん……」
「え?何?お姉ちゃん?」
「いやあ、ね……毎年……このセットを出すときに……出すころに……なにか……あった…気が…して…ねえ」
「お姉ちゃんが、川漁をはじめるとき……だいたい…半夏生のころからでねえ…なんやったっけ?」
「わからん……思い出せん……けど…なんか…あった…気がする…」
「な、何やっけ?」
ブッポーソー!ブッポーソー!
近くの木で、コノハズクが鳴いている。
「うーーーん!わからん!ま、えーか!」
「そーそー、じきに思い出すって」
「とりあえず、今はコレやねえ」
姉は、小網にミミズをつめてコロバシに入れていく。ウナギは、この臭いにつられてコロバシに入ってくるのだ。
「手伝おーか?お姉ちゃん」
「トモ美、あんたミミズ大丈夫?」
「うん、そういうのは平気。虫はダメやけど…」
「あー、そうやっけ。まあ、コレはアタシがするけん、炊事場の生ゴミこんくらい持ってきてくれん?」
「わかった。エビウエに入れるやつやね」
私は小網をひとつ持って、台所に行く。
姉はこの晩、エビウエを一箱、コロバシを五本、ウチのすぐそばの蛎栖川に仕掛けた。
「いやったぜええいいいい!今年は最初から調子がいいぜえええ!ハッピーラッキーよろピくねえええー!」
翌朝、日の出まえ姉は歓喜していた。
ウナギが二匹、テナガエビもかなりのものが入っていたのだ。
「おばあちゃん、このエビ、今晩揚げるやつやけんね。絶っっっ対に煮んとおってね」
姉はキュウリと川エビの煮物がキライなのだ。これは、ウチの地域ではとてもポピュラーな料理である。
「お願いねー。ドロ抜きで、ここに置くけんねー」
バケツにテナガエビを入れ、竹カゴをかぶせて井戸水をちょろちょろと垂らしていく。こうしておけば、夕方にはエビの泥が抜けている。
ウナギは、タライに入れて水をはり、蓋をした。
午前中の学校がおわってから、捌くつもりなのだ。姉は、ウナギをまな板に釘で固定してきれいに捌く。また、炭火でコンガリ焼いたウナギの骨は父の酒のつまみでもある。
「ええええええっ!カズ姉!今日の晩メシ、エビとウナギいいい!すっっげえやんー!」
「実益と兼ねたホンマにええシュミやねえ、お姉ちゃん」
この晩も、姉はエビウエとコロバシを仕掛けた。
翌朝、昨日よりも早く姉は漁を見にいった。私は朝食のかまえをしていた。
日曜日なので、私たちは農協ストアのアルバイトがあるのだ。
前日と、ほぼ変わらない漁果があった。
姉は、昨日と同様にエビとウナギを置いて、せっせと戦闘スタイルに着替え、朝食をかきこむ。
「ゴハン、ありがとートモ美」
「いえいえ、今日もええ漁やったねえ。まー、本日もガンバリませう姉上」
「そうじゃのう、妹よ」
そして私も仕事着に着替えていたら、先に出ていた姉のすさまじい悲鳴があがった。
「あっぎゃああああアアアああーーーーーー!これは、コレはああああああーーー嫌だ!イヤだああアアアああアアアああーーーーー!」
弟が出てみた。
「なにー?カズ姉?どうした…が…うわわわわわわああああああああーーーーーーーー!恐いコワイ怖いいいいいいいいいいいい!」
マッハのスピードで家に飛び返ってきた。
「いったい、何ごと?」
私も出てみてわかった。
この時期の、半夏生が過ぎたころにおこる現象だった。
体長3㎝ほどの、小さくて真っ黒い「クロコヤスデ」が大発生する日だったのだ。
しかも、ウチの庭じゅうびっしりにウネウネウネウネ動きまわる。
「トモ美!家の戸、開けられんで!窓もね!家ん中、入ってくるけん!」
「ひえええええええええええーーーーーーーー!お、お、お姉ちゃん!何とか、ナンとかしてええええええええええええ!」
この現象は毎年あるのだが、起こるのはたいがい夜間なのだ。だから普段は、その痕跡の何匹かを見つけて「昨夜発生したんだ」と気づくのがいつものことだった。
「できん!出来いん!無理むりムリ無理イイイイィイイイイ!アタシぁ、こんなの集まったのがほんっとニガ手やけんんんんーー!」
「ユウーーーー!何とかナランんーーー!」
「駄目だめダメ!オレ駄目!オレだめ!オレは虫は、とにかくダメ!」
「トモ美は、なんとかできんの?ヤスデは一応、脚があるヤツやけど……」
「いかん!イカあん!だってコイツらの動き、私が一番ニガテなヤツやああああ!」
「あ、そうだ!お父さんに!」
「ああー!ユウ待って!父さん、まだ寝ようけん!起こさんといて、休みやけん」
「どうするがよお?コレええ?カズ姉ぇ?」
姉弟三人がトホウにくれていると、庭を掃く音が聞こえてきた。
祖母が、竹ボウキでクロコヤスデをどけてくれているのだ。
「まー、今年はようけ出てきたねえ。こんながは、アテもはじめて見たよー」
モーゼのようにクロコヤスデの海に道をつくってくれた。姉が呟いた。
「だ…『大魔神怒る』…」
「ほりゃほりゃ、あんたらあ、この間に行きんさいや。アテが分けておっちゃるけん。どうせコレぁ昼までにはおさまるけん」
「あ、ありがとう!おばあちゃん。行こか、トモ美!」
「うん、お姉ちゃん」
私も、一気に飛び出す。
「おー、オレも部活ブカツー!」
「ユウー、ちゃんと締めなさいよー!」
「おおっとー!いかんイカンー!」
実に慌ただしい朝であった。
半夏生の巻 終
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