第32話
トリスタンは困惑していた。唇の腫れ具合からして間違いない。さきほどの妙な沈黙のあいだ、あの男はヴァイオレットにキスしていたのだ。それも、ただの戯れで済むような軽いキスではない、女をベッドに連れ込むための誘惑のキスだ。求婚するつもりもないくせに、いったいどういうつもりだ?
トリスタンが知る限り、ラーズクリフはいわゆる放蕩者とは対極に位置するような真面目な男だった。一切の愛を求めない、完璧な政略結婚をすることこそが自分の責務だと考えて、特定の女性と親密になることは常日頃から避けていた。トリスタンのように愛人がいた試しもなければ、気まぐれに女性を誘惑したこともない。性欲処理を高級娼館で済ませているのは知っているが、その回数も月に一度が精々で、トリスタンのように禁欲生活を強いられるまでもなく、常に禁欲しているような男だった。
それがいつの頃からか、彼はヴァイオレットに危うい関心を向けるようになっていた。いったい何故、確かな地位も持参金もない美しいだけの娘に、あのラーズクリフ伯爵が手を出そうとしているのだろう。親友の行動にまったく理解が追い付かないまま、トリスタンはエントランスホールに足を踏み入れた。
そのとき、広々としたホールに胸を揺さぶる愛らしい声が響いた。
「トリスタン!」
見上げると、シャノンがミセス・ドノヴァンを伴って踊り場に立っていた。シャンデリアの光を反射してオレンジ色にきらきらと輝く瞳が、まっすぐにトリスタンに向けられている。
今夜の彼女はシャンパンゴールドのツーピースドレスを着ていた。大胆に開かれた胸元は襟ぐりが緻密なレースに彩られ、ボディスやオーバースカートの縁を金糸の刺繍が上品に縁取っている。涅色の髪は後頭部の低い位置に纏められており、緩やかに巻いた後れ毛を肩に流していた。小粒のダイヤを散りばめた金の首飾りが、彼女の清廉さをよりいっそう際立たせている。
トリスタン自身、贔屓目に見てしまっている自覚はあるが、美しすぎるデビュタントとして一斉を風靡したヴァイオレットと並んでいても引けを取らないほど、今のシャノンは美しく可憐に見えた。トリスタンは颯爽と階段の前に進み出ると、紳士らしく丁重にシャノンに手を差し伸べた。
「やあ、ダーリン。今夜は一段と愛らしいね」
「ありがとう、トリスタン。あなたもとっても素敵だわ」
レースの手袋に包まれたシャノンの手が、手のひらにそっと重ねられる。トリスタンのエスコートで階段を降りながら、彼女ははにかんだ笑顔で彼を見上げた。
「緊張するわ。私、正餐会ははじめてなの」
言われて初めて、トリスタンは気が付いた。確かにそうかもしれない。シャノンの父親はあくまで中産階級の者でしかなく、その娘である彼女は公共の場で催される舞踏会に出入りすることは許されても、貴族が個人の邸宅で開くハウスパーティーや晩餐会に招待される機会など殆どなかったはずだ。挙式のために訪れたプラムウェル・マナーでの晩餐も身内だけのものだった。
「席順は夫婦で隣に、というわけにはいかないのよね?」
「ああ、そうだ。でも心配はいらない。レディ・ラーズクリフが上席に座るから、彼女が右隣りに話しかけたら右隣りの席の者と、左隣りに話しかけたら左隣りの席の者と適当に話をすればいい。会話の内容なんて、相手に任せておけば事足りるよ」
「わかったわ」
シャノンが伏し目がちにうつむいたので、トリスタンはさらに言葉を付け加えた。
「自信を持って背筋を伸ばして。そうしていれば、きみは誰よりも綺麗なんだからね」
「誰よりもだなんて、買い被りすぎだわ」
「ぼくはそうは思わない」
困ったように笑う彼女のつぶらな瞳を、トリスタンはまっすぐに覗き込んだ。買い被りでも冗談でもない。少なくともトリスタンにとって、それは真実以外の何物でもなかった。彼女は出会ってほんの数日でトリスタンを魅了したのだから。
「さあさあ、他のお客様を待たせてしまっては失礼よ。はやく正餐室に行きましょう」
ミセス・ドノヴァンの弾んだ声が、ふたりを現実に引き戻した。はっとして声のほうへ目を向けると、つんと澄ました表情でヴァイオレットが伯母の隣に立っていた。どうやら準備は万端のようだ。トリスタンが目で合図を送ると、シャノンはほんのりと頬を染め、トリスタンの腕に軽く腕を絡めて、もう一度彼を見上げてうなずいた。
正餐室では、紺地に銀糸の刺繍が施されたベストを着た従僕が四人を出迎えた。トリスタンは室内に入ると、素早くテーブルの席を見渡した。真っ白なリネンのテーブルクロスで覆われたテーブルには、すでに銀の食器と白い皿が準備されており、客人がそれぞれ席に着いていた。招待客の顔触れは例年とほとんど変わっていなかった。見覚えのない顔が末席のほうに何人か居るだけだ。
ミセス・ドノヴァンとヴァイオレットは、ラーズクリフが座る末席側の席に案内された。シャノンの席もヴァイオレットの席に近かったが、トリスタンの席は彼女の席から見て長いテーブルの対称の位置にあり、食事中の会話は聞き取れそうになかった。
従僕に椅子を引かれて席に着くと、先に隣の席に着いていた少女にまじまじと顔をみつめられた。トリスタンは苦々しく口の端をあげて、声には出さず、唇の動きだけで彼女を窘めた。彼女は軽く肩を竦めると、うきうきした様子でテーブルの末席へと目を向けた。
イヴェット・コールマンはラーズクリフの歳の離れた妹で、来シーズンに社交界デビューを控えた十五歳だ。琥珀色に輝く金色の髪と、紺碧の空を思わせる青い瞳の美しい娘で、おそらく次のシーズンがはじまれば、今シーズンのヴァイオレットと同様か、それ以上に紳士達の求愛を一身に受けるに違いない。
イヴェットは兄とは違い、天真爛漫で好奇心が旺盛だった。また、遅くに生まれた娘であったことから甘やかされて育ったらしく、わがままで強情なところもあった。伯爵令嬢としてあるべき振る舞いもまだまだ身に付いておらず、昨年までは勉強部屋に追いやられていたということもあり、今夜の晩餐を随分と楽しみにしていたようだった。
「ねえ、あの綺麗な女性はどちらの家のご令嬢なの?」
イヴェットが声を潜めて末席側を目線で指した。視線の先を見ると、従僕が料理の皿を手に立っており、ちょうどヴァイオレットがその料理を皿に取っているところだった。彼女の所作は相変わらず洗練された貴族令嬢さながらのもので、その堂々とした振る舞いに感心しながらトリスタンは言った。
「ミス・メイウッドだ。今シーズン社交界を騒がせた『美しすぎるデビュタント』だよ。父親は確か、地方都市で弁護士をしている」
「ふうん……」イヴェットは碧い瞳を細めてうなずいた。「あのひと、二日目の午後にお兄様と庭園にいたわよね。ふたりはどんな関係なのかしら」
トリスタンはぎくりとした。まさか、実の兄が火遊びに夢中なのだと教えるわけにもいかない。ヴァイオレットの名誉のためにも、適当な説明をしておかなければ。
「夜会で何度か顔を合わせているだけで……ああ、そうだ。僕の結婚式で一緒に進行役を務めてくれたから、今回の招待はそれがきっかけかもしれないな」
「あら、それだけなの?」イヴェットは目をまるくして、それからどこか棘のある調子で「つまらないわ」とつぶやいた。
運ばれてきた料理を口に運び、ワインを飲んで、イヴェットの好奇心から繰り出される質問に答えているあいだ、トリスタンの注意は常にシャノンに向けられていた。シャノンは隣席の紳士に話しかけられるたび、恥じらうように頬を染めていた。けれどもトリスタンと目が合うと、安堵したように柔らかく微笑んだ。
「あのひと、貴方の奥様でしょう? おとなしくて可愛らしい人ね。仕事に忙しい殿方が癒しを求めて結婚したがるタイプの女性だわ」
イヴェットは得意げに言って、それからトリスタンに悪戯な目を向けた。
「ねえ、知ってる? お母様ったら、貴方が来シーズンまで独り身だったら、貴方と私を結婚させるつもりだったのよ」
「それは酷い」トリスタンは皮肉に笑い、軽く肩を竦めて戯けてみせた。「きみはともかく、ラーズクリフが義兄だなんて、首を吊ってもおかしくないね」
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