第31話

 トリスタンはビロードの長椅子に座り、シルクの布張りの天井に描かれた緻密な宗教画を見上げていた。ジャコビアン様式の壮麗なエントランスホールは、普段のこの時間なら人の出入りがあるのだが、この日は一切の人通りもなく静かなものだった。

 セオドア・マナーに招かれて四日目、レディ・ラーズクリフの誕生日を迎えたこの日、客人は皆、夕刻からの正餐会と舞踏会への期待に胸を踊らせて、それぞれにあてがわれた客室で正装し、そのときが来るのを心待ちにしていた。

 優秀な従者であるブライソンのおかげで、トリスタンはとうの昔に着替えを済ませていた。一方でシャノンはと言うと、アナを連れてレティの部屋に向かったきりで、未だホールに姿を現す気配もない。結婚生活が長い夫婦であれば、夫が妻の着替えを手伝ったりもするのだが、ふたりはまだそのような関係には至っていなかった。それでもいつものトリスタンなら強引に着替えを手伝っていたかもしれない。けれど、今の彼は欲求不満を極限まで募らせており、下着姿のシャノンを前にすれば、どんな奇行をしでかしてしまうか自分でも予測不可能だった。結果として、彼は大人しくシャノンを見送り、ドレスアップした彼女がエントランスホールを訪れるときを、今か今かと待っていたのだった。


 それにしても、女性の着替えというものは時間がかかる。これを朝と夜の二回、外出する予定があればさらに着替えの回数が増えるのだから、女性の一日の半分は着替えで終わっているのではないかと疑ってしまう。トリスタンは苦笑いを浮かべ、真鍮製の懐中時計を胸ポケットから取り出した。

 懐中時計の歯車が噛み合って、秒針が一メモリずつ進んでいく。この静かなホールでならば、秒針の音が聴こえるかもしれない。トリスタンはゆったりと長椅子の背にもたれ、眼を閉じて耳を澄ませた。

 規則正しい針の音が聴こえてくるはずだった。けれどこのとき、彼の耳は別の物音を捉えた。

 エントランスホールを抜けた廊下の先から、何やら人の声がする。ひそひそと囁くようなその声は女性の——それも聴き覚えのある声だった。長らく暇を持て余していたトリスタンの足は、好奇心を抑える間もなく声のするほうへと向かっていた。

 長い廊下の壁際に二階へと続く階段があった。囁き声は、実際にはやや抑え気味の話し声だったようで、階段に近付いた頃には、その会話の内容もはっきりと聞き取ることができた。トリスタンの眉間には、いつのまにか深い皺が刻まれていた。

「だから、何度もお話ししたでしょう。私は社交界からは身を引いたの。貴方に関わることはもうないのよ。それなのに部屋を訪ねてくるなんて、伯母に見られたらどう誤解を受けるか考えられないの?」

「きみが私を避けるからだろう。外で話ができるなら何気ない会話を装うことだってできるが、きみが逃げ回るなら追いかけ回すしか方法がない。それからもうひとつ。今後、きみに関わらないかどうかは私が決めることだ」

 憤るヴァイオレットの声と、やや傲慢にも思えるラーズクリフの声だった。トリスタンは溜め息が漏れるのを止められなかった。

 近くに客人こそいないものの、使用人の耳にはしっかり入るだろうに、いったいこのふたりはこんな所で何を口論しているんだ?

 トリスタンの心配など知る由もない。ヴァイオレットが呆然として言った。

「あきれた……嫌がる相手を追いかけ回すのがそんなに楽しいの? それとも罵倒されるのが嬉しいの? とんだ被虐趣味だわ!」

「しっ……声が大きい、落ち着きなさい」

 どうやらラーズクリフのほうはいささか冷静ではあるようだった。けれど、ヴァイオレットの性格から考えれば、おそらくその態度がかえって彼女の神経を逆撫でするのだろう。彼女は苛立ちを抑えきれないようだった。

「……もう、どうしろって言うの? 私は貴方とこれ以上話すことなんてないのに」

「ワルツを一曲、私と踊ってくれるだけで良い。今日のところはそれで満足できる。それから、伯母上に妙な勘繰りをされたくなければ、私を避けるのをやめて、手紙の返事はすぐに出すことだ」

「信じられない……貴方はいつもそんな脅迫じみた言葉で女性を口説くの?」

「そんなわけないだろう」ラーズクリフはそう言って、一度咳払いをして、続けた。「ミス・メイウッド、きみは今日も素晴らしい。シンプルなドレスだが、いつも以上にきみの美しさが際立っている。ただ、露出が控えめなのはいただけないな。かえって想像力を掻き立てられてしまうからね」

 トリスタンは噴き出した。親友の言葉が、まったくもって彼らしくない、これまでにないほどに滑稽な言い草に思えたからだ。驚いたことに、ヴァイオレットも噴き出したようだった。ころころと愛らしい声で笑いながら、彼女は言った。

「馬鹿ね、それで口説いてるつもりなの?」

 突然、会話が途切れた。ややあって、トリスタンには聴き馴染じみのある、混ざり合う吐息の音と湿ったリップ音が微かに聞こえてきた。

 あの男は……社交界にデビューして間もない少女を相手に、こんな廊下の暗がりで、いったい何をしているんだ。

 トリスタンが眩暈を抑えていると、しばらくして、ラーズクリフの低くなめらかな声が「また後で」と囁いた。

 トリスタンが身を隠す間もなく、階段の陰からラーズクリフが現れた。彼はトリスタンを見て不敵に口の端を吊り上げると、酷く好戦的な、高慢な口振りで言った。

「驚いたな。こんな場所できみと出会すとは」

「ラーズクリフ、きみこそこんな所で何をしていた? 正餐室で客をもてなさなくてもいいのか?」

 すぐさまトリスタンが切り返すと、彼はちらりと階段を振り返り、それから軽く肩を竦めてみせた。

「どうせ見知った顔ばかりだ。執事と従僕がうまくやるさ。私にはそれよりも大事な用事があった。それだけのことだ」

 含みのある物言いでそう告げて、彼は颯爽と正餐室へ向かって歩き去った。柔らかな絨毯が敷かれた廊下に、くぐもった靴音が響く。琥珀色に輝く髪の、長身の男の背中が曲がり角に消えるのを見届けて、トリスタンは身を翻した。

 階段下を覗くと、ヴァイオレットが気不味い表情で壁にもたれて立っていた。彼女は瞳と同じ菫色の、露出の控えめなシンプルなデザインのドレスを着ていた。装いは恐ろしく落ち着いているはずなのに、いつもよりぽってりとした唇と潤んだ瞳のせいで表情が妙に艶かしい。

「大丈夫かい?」

「え、ええ、大丈夫よ。シャノンは?」

「まだ降りてきていない」

 端的にそう答えると、トリスタンは一歩前に踏み出した。妻の双子の姉が——未婚の無垢な娘が、よりにもよって彼の親友と口論の末、おそらく人に見られてはならないような、親密な行為に及んでいた。突然の出来事に、まだ考えがまとまっていない。

 ——くそっ、なんてことをしてくれるんだ、あいつは!

 胸の内で悪態をつき、トリスタンはなんとか平静を装って言った。

「ヴァイオレット、もし……もしラーズクリフが迷惑をかけているのなら、ぼくが彼に釘を刺して」

「ご親切にありがとう。でも心配には及ばないわ」

 トリスタンの言葉は、すぐさまヴァイオレットに遮られた。彼女はしゃんと背すじを伸ばし、つんと顎をあげて、貴族令嬢さながらの品のある佇まいに戻っていた。夜会で紳士たちを魅了した、あの凛として美しい、ミス・メイウッドに。

「それよりも早く戻りましょう。シャノンが降りてきて誰もいなかったら心配するわ」

 華やかな笑顔でそう言って、彼女はつかつかと廊下を歩き出した。

 確かにヴァイオレットの言うとおりだ。トリスタンがエントランスホールを離れてから、だいぶ時間が経っていた。シャノンもそろそろ着替えを終えて、ホールに降りてくる頃だろう。

 眉間の皺を人差し指で揉みほぐす。ふうと大きく息を吐き、トリスタンはすぐさまヴァイオレットを追いかけた。

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