第8話
トリスタンは店の中央にそびえ立つ金色の柱時計を見上げ、女性の着替えとは斯くも時間がかかるものなのか、と溜め息をつくと、重心を右脚から左脚へと移した。
買い物が終わったらシャノンをメイウッド家のテラスハウスに送り、ミセス・ドノヴァンに婚約の報告をしなければならない。カワードテラスに戻る前に事務所にも寄ったほうがいいだろう。彼が手掛けている事業はいわゆる大工場の下請けのようなものだったが、国内各地に工場があり、海外にも新しい工場を建てたばかりだった。
彼はもう一度大きく息を吐くと、胸ポケットから懐中時計を取り出した。真鍮製の懐中時計は手巻き式で、文字盤に極小粒のルビーが飾られていた。彼はガラス越しに覗く歯車が噛み合って動く様を眺めるのが好きだった。長い待ち時間の暇潰しにはもってこいだ。
しばらくして、靴音がふたつ彼の元に近付いてきた。懐中時計を胸ポケットに運びながら顔を上げて——わずかに手元が狂い、トリスタンは危うく懐中時計を落としそうになった。
さきほどの女性店員に連れられて、シャノンがこちらへ向かって来る。すっきりとしたシルエットのシンプルな白いデイドレスは、彼女にとてもよく似合っていた。ドレスに合わせた白いリボンのカポートを被り、細くくびれた腰を締める茶色の絹タフタのベルトからは、同じく絹タフタのシャトレーヌが吊り下げられていた。緻密なレース編みの白い手袋が、彼女の繊細な指先を薄いベールのように包んでいる。
比較される対象がヴァイオレットだったことと、本人が華やかな装いを好まなかったことが合わさって、今まで気付かれていなかっただけなのだ、と彼は思った。持ち前の慎ましやかな仕草も合わさって、シャノンはとても綺麗に見えた。自信なく伏し目がちにしているから目立たないが、褐色の瞳はつぶらで大きく、店内の照明を受けて宝石のようにきらめいていた。高すぎない小振りな鼻も可愛らしいし、小柄で細身な身体は儚げで庇護欲をそそる。
「……悪くない」
思いがけずしゃがれた声でつぶやくと、シャノンは一瞬目をまるくして、それから恥らうようにうつむいた。トリスタンはそれ以上、何も言うことができなかった。支払いを済ませ、シャノンを連れて店を出ると、メイウッド家のテラスハウスへ向けて馬車を走らせた。
日が暮れかけていた。道沿いの酒場やクラブに点々と明かりが灯り、通りを行き交う人々も様変わりしていた。シャノンの服を買うのに予想以上の時間がかかったこともあり、未婚の男女がふたりで出掛けるには不適切な時間が経っていた。トリスタンは馬車の手綱を握ったまま、ミセス・ドノヴァンになんと言い訳をするべきか考えをめぐらせていた。如何わしい事など、なにもしていないというのに。
二頭立ての四輪馬車が十字路を横切っていたので、トリスタンは一時馬車を停車させた。二、三台の馬車が通り過ぎるのを見送っていると、それまでずっと黙っていたシャノンが不意に口を開いた。
「……ありがとう」
トリスタンははじめ、彼女がなんと言ったのかわからなかった。わずかばかり言葉の意味を咀嚼して、それからシャノンに目を向けた。彼女はオレンジ色に輝く褐色の瞳でまっすぐにトリスタンを見ていたが、彼と目が合うと、素早く白いドレスに視線を移した。
「この服、本当は店に入る前から気になっていたの」
「それなら、なぜ選ぼうとしなかったんだ?」そう尋ねて、彼はすぐに眉を顰めた。「金額か?」
彼女はゆっくりと首を振り、膝の上に視線を落とした。
「私には似合わないと思ったの」
「きみには地味な服のほうが似合うとでも言いたいのか?」
「そうじゃないわ。あなたに
彼女はそう言って、夕暮れの朱と夜の藍が混ざり合う遠方の空を見上げ、遠い昔、幼い日々に想いを馳せるように、ぽつりぽつりと話しだした。
「私はもともとレティと着るものの好みが似ているの。子供のころ気に入った服はいつもレティと同じものだったわ。でもね、同じ服を着ていると、みんなが比べるのよ」そこで一度、言葉を区切って言った。「私と
馬車が通り過ぎたので、トリスタンは馬車鞭で馬の尻を軽く打ち、先ほどよりもゆっくりと馬車を走らせた。
「華やかなデザインのドレスなら——いいえ、どんなデザインのドレスでも、レティが着たほうが見栄えがするのよ。だから私は、レティが絶対に選ばない服を選ぶことにしたの」
車輪が石畳みを轢く音は相変わらずうるさかったけれど、不思議なことに、彼女の声はトリスタンの耳に鮮明に響いた。
「父の元に依頼に来るお客様はね、初めて私たち姉妹に会うと、私のことをレティの侍女だと思うのよ。おかしいでしょう?」
彼女が軽く肩を竦めて笑う。トリスタンは不可解な苛立ちを感じながら、眉間に寄った皺を指先で押さえつけた。
「いや……」彼は言った。「わからないな。なぜそんな話をぼくにするんだ?」
彼女は目を瞬かせた。髪の色と同じ褐色の睫毛が大きな目を黒く縁取っていた。
「……どうしてかしら。あなたがあまりにも明け透けなことばかり仰るから、つい……」
「なんでも話して良い気分になった?」
トリスタンが皮肉に口の端を吊り上げると、彼女は気まずそうにうつむいて、ふっくらした唇を舌先でちろりと舐めた。薄紅く頬を染めて恥じらうその姿に、トリスタンの肌がぞくりと粟だった。
あたりは薄暗く、人通りは多くない。彼は道の脇に馬車を寄せた。
「それはきみの癖か?」
「え…?」
「気付いていないのか? ときどき舌で唇を舐めているだろう?」
指摘されて初めて気付いたのか、彼女は二、三度まばたきをして、答えた。
「わからないわ。ただ……今日は不思議と唇が乾くから」
「それなら忠告しておこう。きみは人前でその癖が出ないように気を付けるべきだ。そんな誘うような真似をしていては、ぼくが今、突然きみにキスしても文句は言えないよ」
驚いたことに、トリスタンは彼女を誘惑したくなっていた。昨日の今日で、本当に馬鹿げているとしか思えないけれど。
彼女は目をまるくしてトリスタンを見ていたものの、突然ふふっと笑いだした。
「でも、あなたはもう、私にキスしたりしないでしょう?」
「なぜそう思うんだ?」
「だって、そう約束したわ。後継ぎを強要しないということは、そういった親密な行為にも及ばないということよね?」
トリスタンは喉の奥で唸った。もしかしたら、彼女と結婚するために提示した条件は、彼が思っていたよりも遥かに重いものだったのかもしれない。
「そういうことになるのかな、ダーリン?」
絞り出した声は、またしてもしゃがれていた。シャノンはこくりとうなずいて、それから目を逸らしてつぶやいた。
「……その呼び方はきらいだわ」
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