第7話

 王立公園の美しく生い茂る樹々のざわめきと、ほのかに香る花の匂いが遠ざかっていく。賑やかな街の景色はめまぐるしく変化して、やがてアーデン卿のカブリオレは、多くの馬車が行き交う混み合った通りへと繰り出した。

 最先端のファッションを取り扱う一点物の高級服オートクチュール店や老舗の宝飾店、紅茶や煙草等の嗜好品の専門店が道路の両側に整然と並び立つ大通りでは、ショーウィンドウに飾られたドレスやアクセサリー、お菓子や紅茶の缶が次々に目に飛び込んできて、シャノンはまたもや瞳を輝かせて夢のような光景を楽しんだ。

 シャノンは自分の決断に満足していた。

 アーデン卿の求婚は身勝手で独善的な理由からのものだったけれど、シャノンにとって彼との婚約はそれほど悪いものでもないように思えていた。彼は結婚後のシャノンの自由を約束してくれたし、なにより、今まで何の役にも立てなかった自分が、父に課せられたレティの肩の重荷を下ろしてやれたのは、何事にも代えがたい幸運に思えた。

 それに、シャノンは彼のことを少しだけ見直していた。昨夜の彼の行いはどう考えても人として最低なものだったけれど、彼があの完全無欠のラーズクリフ伯爵を畏怖するのではなく出し抜こうとしていたことが、シャノンにとっては驚くべきことだった。すべてにおいて自分に勝る完璧な相手が目の前にいるのに、その相手と肩を並べようと努力し続けるのは本当に大変なことなのだと、シャノンは知っていたからだ。

 完璧な双子の姉と共に育ったシャノンは、彼女と対等な存在になることを早々に諦めてしまった。父や周りの人々がシャノンよりも姉を愛し、甘やかすことを当然のように受け入れてきた。シャノンを対等な存在として扱ってくれるレティに対し、どこか遠慮がちで卑屈な考えを抱いてしまっていた。けれど、アーデン卿は違う。すべてが完璧なラーズクリフ伯爵と対等な友人であるために、常に努力を怠らず、精力的に物事に取り組み、彼固有の財産や社交界での地位を築き上げ、ラーズクリフ伯爵本人からも対等な友人として厚い信頼を得ていた。

 彼がレティと出会わなければ——盲目的にレティを愛し、求めたりしなければ。昨夜のような蛮行に及ばなければ。シャノンはいずれ噂話で彼を知り、尊敬に値する人物だと思っていたに違いない。


 しばらくすると、アーデン卿の馬車は少しばかり砕けた印象を受ける店の前で動きを止めた。通りに並ぶ店のショーウィンドウをぼんやりと眺めていたシャノンは、馬車が停まったことに気が付いて御者席を振り返った。

「……アーデン?」

 彼は黄色いベストに黒いズボンを合わせた制服の男性に馬の手綱を任せているところだった。シャノンが小首を傾げていると、彼はシャノンのドレスを視線で指して、意地悪な笑みを口元に浮かべて言った。

「率直に言わせてもらえば、今日のきみは全くもって野暮ったい。これから婚礼の準備でふたりで出掛ける機会も増えるだろうに、婚約者がこんな地味で流行遅れのドレスを着ているなんて、ぼくにはとても耐えられない」

 ずばりと言い切られて、シャノンは目をまるくした。確かにシャノンは落ち着いた色が好きだし、なるべく目立ちたくなくて、華やかさとは縁遠い服を好んで着ていた。

「だからって、こんな高級たかそうなお店……」

「気にしないでいい。この店はオートクチュールじゃない。最近は高級な一点物ばかりじゃなくて、既製服を安価で取り扱っている店も多いんだ」

 したり顔でそう言うと、彼はひらりと馬車から降りた。車体を回り込んでシャノンの側の扉を開き、紳士らしく丁重にシャノンの手を取り、馬車から降ろしてくれた。彼が自然な仕草で腕を差し出したので、シャノンはそっと彼の腕に手を掛けた。まるで本物の恋人にでもなったみたいで、ちょっぴり胸がどきどきした。

 店の正面はガラス張りのショーウインドウになっていて、流行のドレスやそれに合わせた小物類が、造花とともに飾られていた。中でもシャノンの目を引いたのは、白地に鮮やかな刺繍の縁飾りをあしらった、ジャッケットとスカートを組み合わせたような、すっきりとしたシルエットのデイドレスだった。細くくびれたウエストに切り替えがあって、クリノリンを使わないスカートの膨らみが自然なラインを描いている。レティが着たら似合いそうだ。

「ダーリン?」

 アーデンの少しざらついた低い声に囁かれて、シャノンははっと我に返った。ふざけた呼び方に居心地の悪さを感じたけれど、敢えて気が付かなかったふりをした。


 外観からある程度は予測できていたものの、店内にはシャノンの想像をはるかに超えるきらびやかな世界が広がっていた。中央には目新しいデザインのドレスでコーディネートされたトルソーが飾られており、大小様々なサイズの同じデザインのドレスが壁に沿ってずらりと並んでいる。あまりの光景にシャノンが声を失っていると、アーデンがまた、耳元で囁いた。

「好きな服を選んでおいで」

 シャノンは驚いて、隣に立つアーデンを見上げた。

「きみは小柄で華奢だけど、サイズがないなんてことはないだろう。……まぁ、胸のほうは少々慎ましすぎるかもしれないが、詰め物をすれば事足りるはずだ」

 片方の眉を微かに上げて、人を食ったような態度で彼が言う。あけすけに体型について指摘され、シャノンは真っ赤になって顔を背けた。

 ひととおり店内のドレスを見てまわった後、シャノンは小花柄のプリント地のデイドレスを手に取って、アーデンを振り返った。

「これにするわ」

 シャノンから少し離れた場所で柱に寄り掛かっていたアーデンは、彼女が手にしたドレスを見ると、眉を顰め、黙って彼女のそばにやってきて、彼女の手から小花柄のドレスを取り上げた。

「他人のセンスにとやかく口を出すつもりはないが、今回はぼくに選ばせてくれ」

 高慢な態度でそう言うと、シャノンが返事をする間もなく、彼は店の奥に姿を消した。ふたたびシャノンの元に戻ってきた彼は、ショーウインドウに飾ってあったものと同じ白いデイドレスを手にしていた。

「そこのきみ」

 アーデンが黒いドレスにエプロンをつけた女性店員に声を掛けた。

「すまないが彼女の着替えを手伝ってやってくれ。それから、このドレスに合う小物一式も揃えてもらいたい」

 女性店員はにこやかに笑うと、シャノンを試着室に案内してくれた。店の奥へと向かいながら、ちらりと振り返ってみると、アーデンは腕を組んで柱に寄りかかり、満足そうにうなずいてシャノンを見送っていた。

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