第2話

 ほんとうに、どうしてしまったのかしら。

 真紅のベルベットカウチに腰を落ち着けたまま、ヴァイオレットは低く唸った。頭上にはクリスタルのシャンデリアが輝いて、美しく磨かれた板張りの床をきらびやかに照らしていた。色とりどりのドレスで着飾った貴婦人が黒い夜会服の紳士に導かれ、波間をたゆたう花のようにフロアを横切っていく。

 よりにもよってなぜこんなときに。あくまでも平静を装って、金彩で縁を彩った羽根の扇子の陰で悪態をついた。

 シャノンがホールを離れてから、どれほど時間が経っただろう。

 浅い呼吸を繰り返す。優雅に広げた扇子を支える指先が小刻みに震えてしまっていた。首筋をつたう冷たい汗に身震いして、ヴァイオレットは考えた。

 この息苦しさの原因は何だろう。昨日から今に至るまで、特別珍しいものを食べた覚えはない。だから食あたりではないはずだ。

 それではほかに原因が? コルセットの紐をきつく締め過ぎた? 確かに今夜はいつもより張り切っていたかもしれない。

 ヴァイオレットはこれまで、コルセットなどまともに使ったことがなかった。矯正下着などに頼らなくてもウエストは美しくくびれていたから、かたちだけ身に付けていれば充分だったのだ。

 けれども今夜は別だった。彼女は出来る限りの美しい姿でこのフロアに立たなければならなかった。彼女のために不当な条件で社交界に引っ張り出された妹のシャノンのために。そして何より彼女自身のために。

 確固たる地位と財産を持つ名のある貴族の妻になれば、来シーズンにはシャノンの後ろ盾になることができる。そうすれば、彼女は今より良い条件で夫選びができるし、たとえ貴族との結婚を望まなかったとしても、不自由ない幸せな生活が送れるはずだ。社交界にデビューしてからずっと、ヴァイオレットはそう考えてきた。

 年齢や容姿など関係ない。とにかく家柄と評判の良い金持ち貴族の気を引いて、最も条件の良い相手と結婚しなければならない。上流階級に強い憧れを抱き、娘に爵位ある男性との結婚を求める父を満足させて、妹に望みどおりの未来を選ばせるために。

 けれども、ヴァイオレットだって本当は社交界での地位や名声など関係なく、好ましい男性と恋をして幸せな結婚をしたかった。だから、地位も名誉も財産も、人柄も容姿も全てが完璧と噂のラーズクリフ伯爵からの誘いには胸がときめいた。柄にもなくいつもより張り切ってしまっても、おかしくはなかったはずだ。

 彼のことは一度夜会で見かけただけで、言葉を交わすことはおろか、目を合わせたことすらなかった。けれど、遠くから見たその姿には確かに心惹かれるものがあった。人気者の彼の周りにはいつも人集りが出来ていて、特に独身の若い女性は皆必死になって彼の気を引こうとしていた。ヴァイオレットも同様に彼の気を引く努力をするべきだったけれど、ひっきりなしに他の男性からダンスに誘われていたこともあり、高望みすぎるのもよくないだろうと考えて、彼のことはすっかり諦めていたのだ。


 シャノンは無事にラーズクリフ伯爵を見つけることができただろうか。肝心なときに妹に頼りきっている、そんな自分が嫌でたまらない。扇子で口元を隠したまま、ヴァイオレットはため息をついた。

 シャノンが戻ってきたらホールを出て、どこかの空き部屋でこっそりコルセットを緩めてもらおう。そう考えると、彼女はぐるりとホールを見渡して、それからはたと動きを止めた。

 ホールの隅に人集りが出来ていた。背の高い紳士が華やかに着飾った女性に囲まれているのだ。彼が誰かに笑いかけるたびに、豊かな髪がシャンデリアの明かりを受けて琥珀色に輝いている。その顔立ちも瞳の色も遠目にはわからなかったけれど、それでもヴァイオレットには一目でわかった。ラーズクリフ伯爵だ。

 彼がホールに戻ってきたと言うことは、シャノンは無事に伝言を伝えることができたのだろう。ヴァイオレットは扇子をたたみ、もう一度、端から端までホールを見渡した。妹の姿はみつけられないまま、視線はふたたび先ほど人集りができていたあたりに戻った。けれど、集まっていた人々はすでに思い思いに散った後だった。

「誰かをお探しかな?」

 唐突に声を掛けられて、ヴァイオレットは慌てて声のしたほうを振り向いた。ホールの隅に置かれた細長いテーブルの前で、声の主と思われるその人物は、ワイングラスを片手に彼女を見ていた。その佇まいは堂々としており、身体にぴったり合わせて仕立てられたシンプルな夜会服が、より一層彼の魅力を引き立てている。彼はとても背が高く、ともすれば存在そのものが威圧的に感じられたけれど、深い海の青に似た碧眼は穏やかで、その眼差しには気持ちを落ち着かせる不思議なちからがあった。ベルベットのようになめらかな低い声の名残が耳に心地良く響く。噂に聞いていたよりもずっと、実物の彼は素敵だった。

「ああ、失礼。ミス・メイウッド、直接お話しするのは初めてでしたね」

「とんでもございません、伯爵様」ヴァイオレットは恐縮して、それから慌てて言葉を続けた。「さきほどは約束の場所に行くことができず、申し訳ございませんでした。その……妹は今どこに?」

 そう言ってちらりと周囲に視線を巡らせる。けれどもシャノンの姿はどこにも見えない。もう一度伯爵を見上げると、彼は怪訝そうに濃青色の目をまるくしていた。

「何の話でしょう」

「何、って……」

 つぶやいて、はたと口をつぐむ。瞬間、嫌な予感がぞわぞわと背筋を駆け上がった。

「……わたくしの思い違いだったようですわ。失礼致します」

 言い終えると同時にヴァイオレットは身を翻し、足速にホールの壁際を歩き出した。


 どうして気がつかなかったのだろう。ヴァイオレットは今シーズンのデビュタントのなかでも一際目立つ存在だった。誰かが心ない悪戯で彼女に恥をかかせようと考えてもなんら不思議ではない。けれど、もしもあのメッセージがほんの悪戯ではすまないような、彼女を陥れるための罠だったとしたら。

 ぞっとするような想像が脳裏をよぎる。裾を踏まないようドレスを持ち上げ、彼女はテラスに続く扉へと急いだ。

 幸い、扉の近くには誰もいなかった。ホールを満たす軽快なワルツの旋律が人々の注意を惹きつけているようだ。ヴァイオレットは扉に駆け寄り、細やかな装飾細工が施された把手に手を伸ばした。瞬間、白い手袋に覆われた大きな手が、把手を握ったヴァイオレットの手を包み込んだ。

「失礼」ラーズクリフ伯爵が言った。「察するに、何か良くないことが起きているようだ。差し支えなければ協力致しましょう」

 ヴァイオレットは驚いて手を引っ込めた。伯爵は真剣な眼差しでうなずいてみせると、慎重に扉を押し開けて彼女をテラスへと導いた。

 春の夜の冷たい風が庭園の樹々をざわめかせていた。空は薄い雲に覆われて、月の光がおぼろげに庭園の芝生を照らしている。闇の中に白い小径が薄っすらと浮かんで見えた。

「妹を探さなければいけないの。私の——」

 言い掛けて、ヴァイオレットはその続きを飲み込んだ。伯爵にどこまで説明するべきかわからない。彼の名を騙った誘いにまんまとのせられたことを本人に伝えるのは、とても恥ずかしいことのように思えた。それに、彼女を罠に嵌めようとした輩がまだ庭園にいて、妹がその脅威にさらされているかもしれない。幸い、ラーズクリフ伯爵は言葉の先を尋ねようとはしなかった。

「場所の見当はついているかい?」

 冷静に尋ねられて、幾分気持ちが落ち着いた。ヴァイオレットはうなずいて、白い小径を歩き出した。人魚の彫像が水瓶から水を注ぐ噴水や、咲き誇る花が優しい香りを漂わせる花壇の横を通り過ぎる。伯爵は注意深く周囲を見渡しながら彼女の後をついてきていた。ヴァイオレットはほとんど駆け足で小径を進んだ。やがて群生する植木の壁の向こう側に、目的の白い屋根が見えた。

「シャノン!」

 心なしか震える声で妹の名前を呼ぶ。返事はなかったけれど、ヴァイオレットはそのまま東屋を目指して歩き続けた。空を覆う雲が流れ、月の光が庭園を照らしたとき、ちょうど途切れた樹々の向こうにこじんまりとした東屋が見えた。

「シャノン!」もう一度、逸る思いで名前を呼んだ。「シャノン! 返事をして!」

 震える脚がもつれそうになったけれど、構うことなく東屋に向かう。そして彼女は足を止めた。

 一瞬、東屋には誰もいないのかと思った。けれど、屋敷から遠く離れ、静まり返った夜の庭園では、いつもよりもずっと小さな音まで聞き取ることができた。

 荒い息遣いと聞きなれない女の喘ぎを耳にして、ヴァイオレットは愕然とした。冷静に考えることなどできなかった。重いドレスの裾を持ち上げて、彼女は全力で駆け出した。

 東屋に備え付けられたベンチの上で、男が身を起こしていた。石造りの床の上にドレスの裾が広がっている。間違いない、シャノンのものだ。

 恐怖と安堵が入り混じり、涙がぐっと込み上げた。けれど、剥き出しにされた白い肌を目にした途端、その想いは怒りで真っ赤に塗り潰された。男の肩越しに覗いた妹の顔を目にするのと同時に、ヴァイオレットは動いていた。

 妹を組み敷く男の肩をぐいと掴み、顔をこちらに振り向かせて。ヴァイオレットは間髪入れず、平手打ちを繰り出した。

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