第8話 忌魔島奇譚 その十五



 牢の近くまで来たとき、女の泣き声を聞いた。見まわすと、あのレンガの建物の前で、香澄が泣いている。牢屋のなかから持ちだしてきたのだろう。肉屋で売ってる肉のブロックにしか見えないものを胸に抱いていた。


「ほっときましょう」と、青蘭は言ったが、そうもいかない。

 この島はもうじき崩れる。ここに置いていけば、それは百パーセントの死を意味しているのだ。


 龍郎は近づいていき、香澄の腕をつかんだ。

「逃げよう。あんただけでも生きないと」

 香澄は心がここにないかのように、むやみと首をふるばかりだ。

 龍郎は香澄の頰をかるく、はたく。

 ビックリしているすきに、むりやりひっぱっていった。


 森を出たころには、ほんのりと東の空の端に白い光の筋が細く見え始めていた。

 まもなく夜が明ける。人間の目でも、いくらか視野が広がった。


 人魚の村はたいへんな騒ぎになっていた。

 彼らの父であり、神であり、絶対的なゆいいつの心のよりどころであったものが失われたのだ。その喪失はたとえじっさいに目撃していなくても、心で感じとれたのだろう。

 すべての人魚が通りに出て、ぼうぜんと立ちつくしたり、わけもなくわめきちらしたり、走りまわったりしている。


「終わりだ! この世の終わりだ!」

「おれたちの世界は終わったんだ」

「滅びだ。もう何もかも……」


 逃げまどう人魚たちは、もはや龍郎たちになど見向きもしない。


 心が痛んだ。

 人魚たちのベースは人間だ。

 大神と対峙してわかった。

 人魚は人ではない。異質な血がその体のなかに流れている。


 それでも、彼らの体のほとんどは、人間の遺伝子からできている。

 あのひとめ見ただけで人を狂気の淵に追いこむほどの、大神のような異物感はない。

 人間のなかに、ほんの一滴、怪物の血がまざっただけだ。


 だから、人魚たちの心は人なのだ。


 彼ら全員を見殺しにするのは、哀れな気がした。一番の犠牲者は彼らなのかもしれないと。彼らだって、好んで化け物として生まれたわけではないだろうに。


 すると、通りを走りながら、青蘭が告げた。

「人は死ねば、その魂は天界へ昇り再生される。ヤツらもみんな、人間に生まれ変わる。人に戻るんだ」

「そうか。そうなんだな」

 人になるために、彼らは一度、死ななければならないということか。

 ムリヤリ流しこまれた怪物の血を浄化するための、これは通過儀礼なのだ。

 そう納得するしかなかった。


 うろたえる人魚たちをかきわけながら、龍郎たちは進んでいった。

 その途中、子どもの人魚が大人につきとばされて泣いているのを見た。

 自然に手が出ていた。助けおこすと、それは春海だった。顔は人間の少年だが、足元はやはり何やらキラキラしている。


「春海くん」

「お兄ちゃん」

「おいで。君もいっしょに行こう」

「うん」


 思わずつれてきてしまったが、死ななければ、春海は人間に戻ることはできない。わかってはいるが、子どもを一人、この騒乱のなかに置き去りにはできなかった。


 青蘭がちょっと小馬鹿にしたような目つきで、龍郎を見る。

「僕はあなたのそういうとこは、どうかと思う」

「そんなこと言ったって、ほっとけないよ」


 子どもをほっとけるような性格なら、そもそも青蘭を助けにこの島まで追ってきてはいない。

 青蘭はあきれたようにため息をついたが、それ以上は何も言わなかった。


 ようやく、入り江にたどりついた。

 赤い朝焼けの帯が、空と海の境界線をきわだたせている。帯の幅は刻一刻と広がっていく。


 龍郎はリュックからスマホをとりだした。青蘭が完全防水にしたほうがいいと言うから、ここへ来る前に機種変しておいたことを、心から神に感謝した。


「重松さん! 今すぐ迎えにきてくれ! 頼む。なるはやで!」

「もうそっちに向かってる。あと……分で……」

 交信状況が悪いのか、とうとつに途切れた。しかし、すでにこっちに向かっているという。

「もうちょっとの辛抱だ。船が来るぞ」


 地鳴りが島全体をゆるがし、立っていられない。地面が四、五十センチも浮きあがっては沈む。

 そのなかで、守らなければならない相手が三人に増えた龍郎は、孤軍奮闘してみんなを叱咤した。

 が、島の崩壊のほうが早かった。

 いきなり大きく、一メートルほども体が浮いた。そのあと、ガクンと沈下した直後、地面に巨大な亀裂が幾筋も走った。島が裂けていく。


「青蘭!」

「龍郎さん!」


 流氷のように、島がバラバラになって海に流れだす。

 龍郎はとっさに青蘭の手をつかんだ。

 手と手をとりあって、二人は海になげだされた。


 轟音とともに、淫魔の島は崩れ去った。その崩壊のエネルギーが激しい海流を生み、龍郎たちを翻弄する。

 何度も波に飲まれた。岩に体を打ちつけた。青蘭を支える手に力が入らない。

 だが、青蘭は泳げない。一瞬でも手を離せば、確実に失うことになる。


「龍郎さ……もういいよ。僕を離して……」

「バカ言うな。絶対……離さない!」


(死なせない。絶対に。ここで離すくらいなら、いっしょに死んだほうがマシだ!)


 自分を奮起して、なかば朦朧もうろうとしながら波に抗った。

 ずいぶん水も飲んだ。

 もうここまでかと諦めかけたとき、その音が近づいてきた。

 あのエンジン音。

 漁船だ!


「しっかりしろ! これにつかまれ!」


 目の前にオレンジ色の救助用の浮き輪が投げこまれる。そのさきのロープを重松がつかんでいる。

 龍郎は必死でそれにつかまった。

 数分後、どうにか龍郎と青蘭は漁船に乗りこんだ。漁船も高波に乗って、ジェットコースターのように浮き沈みする。


「そうだ! 香澄さんは? それに春海くんも!」

 見まわすが、あたりに人影はない。

「春海? 春海だって?」

 重松がおどろきの声をあげる。

 それはそうだ。わが子は死んだと思っていたはずだから。


「春海くんは生きていたんです。人魚になって」

「そうか。夏海の血があの子には流れてるからな」

「おーい、春海くん! 香澄さん! どこだ? 春海くん! 香澄さん!」


 呼びかけると、遠くのほうに小さな頭が浮かんだ。こっちにむかって手をふっている。見ると、春海が香澄をかかえている。人魚だから泳ぎは得意だろうが、大人の女を支えるには力が足りない。


「香澄さん! しっかりするんだ! ここまで来るんだ。あと少し!」


 香澄の反応はない。気を失っているのだろうか?


 龍郎は意を決して、さきほどの浮き輪を手にとった。ロープの端を船の舳先へさきに結びつけると、浮き輪を持って海にとびこむ。波に逆らいながら、少しずつ彼らに近づいていった。

「しっかりしろ。これにつかまるんだ」


 香澄は気絶しているわけではなかった。うつろな目をして、生きる気力がないのだとわかる。

「わたしは……もういいの。湊は死んだのよ。わたしだけ生きていて、何になるって言うの?」


 龍郎は香澄を叱ろうとした。

 そんなことを湊くんは望んでないぞとか、ドラマでよく聞くようなセリフを吐こうとして。


 が、龍郎より早く、春海が叫ぶ。

「僕のお母さんは人間に殺されたよ! でも、僕は死なないよ。お母さんが言ったから。お母さんのぶんも長生きしてねって、言ったから!」


 春海の声が響きわたると、香澄の目から涙があふれだしてきた。


 息子を人魚に殺された香澄。

 母を人間に殺された春海。

 立場は違うが、この二人は鏡の表と裏だ。痛みは同じ。同じ悲しみを抱いている。


 香澄はうなずくと、しっかりと自分の手で浮き輪をつかんだ。

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