第八話 忌魔島奇譚

第8話 忌魔島奇譚 その一



 暁の薄桃色に世界は染まっている。

 忌まわしいことなど何もないような、澄んだ空気と清澄な朝焼けのなか、船は一路、忌魔島をめざす。

 やけに黒っぽいクジラのような形をした島は、遠目には人工物はまったく見あたらない。

 だが、朝のさわやかな空気のなかでさえ、背筋のふるえるような気配が、その島にはあった。



 ——このさき、あなたの命を保証できません。もしも、危地におちいったとき、逃げだす機会があれば、あなた一人で逃げだしてください。僕はなんとかなるから。



 青蘭はそう言っていたが、彼だけを残して自分一人、逃げだすことなんて、龍郎にはできない。

 逃げだすことができるなら、最初から青蘭の助手になろうなんて思わなかった。

 あの強気な見せかけの裏で、つらい思い出に泣く青蘭を見たときから、ほうっておくことなんてできなくなっていた。

 まだ出会ったばかりで、こんなことを言うのはバカらしいかもしれないが、これは運命だったのだと、龍郎は思う。


(おれが青蘭と出会ったことには、きっと深いわけがある。おれがアイツに惹かれるのは、そういうことなんだ)


 どうかまだ無事でいてくれと、ひたすら願う。


 凪の海を切りわけるように、船は進む。波しぶきとエンジンの音にまぎれて、重松が操舵室から声をかけてきた。

「あんたを島まで送るが、それ以上は手助けできねえ。あんた一人で、どうする気だ?」

「まあ、そこはなんとかなるかなと」

「……悪いことは言わない。今からでもやめて帰ったほうがいい」

「そうは行かないんです。どうしても友達を助けないと」


 重松は前を見ながら、ふっと、ため息をついた。

「あそこは人魚の棲む島だと言ったろ? じつは、おれのかみさんのふるさとだ」

 たぶんそうだろうと、龍郎の想像していたとおりのことを、重松は打ちあけてきた。


「十年ほど前だったか。漁に出たときに、岩場でケガしてる女を助けてな。そいつが夏海なつみだった。最初から妙なとこはあったんだが……」

「下にも歯が生えてるんですよね?」

 龍郎が言うと、重松は苦笑した。

「そうか。あんたの兄さんが話したんだな? まあ、それでも、おれたちは、うまくいってた。夏海は優しい女だった。あの岩場に行けば、また会えるような気がして、毎日、通ってたんだがよ」


 龍郎は喫茶店で会った女のことを思いだした。あれは夏海の霊だったのだろうか?

 わたしを探さないでくれと夫に伝えてほしいと言っていた。

 そのことを告げるべきだろうかと思案していると、重松のほうがさきに口をひらく。

「昔から村じゃ、人魚だと言ってたが、あれはほんとの意味で人魚じゃねえ。人の体に魚の尻尾みたいなやつじゃないんだ。なんか海のもんなのはたしかだが」


 たしかに、義姉の姿は人魚というより、クラーケンに近かった。

 女の上半身にタコの下半身という化け物が西洋にはいる。ギリシャ神話に登場するスキュラだ。

 何かそういう関連のものなのだろう。日本ではなじみがないから、重松たちの村では人魚と呼ばれるようになったのだ。


「夏海は優しかったが、みんながそうじゃねえだろう。あの島には、たくさん人魚がいる。夏海がそう言ってた。どれくらいの数だか知らないが」


 もしも昨日、青蘭をさらったのが人魚だとすれば、少なくとも十人はいるだろう。だが、重松の口調では、それ以上の数がいそうだ。

 繭子のような化け物がウジャウジャいれば、なかなかの危険ではある。


(でも、行かないわけにはいかないんだ)


 島影が近づいてくる。

 龍郎は決心をあらためる。

 そこを出るときには、必ず青蘭とともにだと。


 三十分ほども漁船にゆられたのち、龍郎たちはその島に到着した。

 海岸から見える表側は切りたった崖になっていた。反対側にまわると、ようやく上陸できそうな入江があった。砂浜の海岸に近づけるだけ漁船をよせてもらう。


「この島から脱出するためには船が必須です。帰りも迎えにきてもらえますか?」

「いいぞ。いつごろだ?」

 島のなかをあてもなく青蘭を探し歩くことになる。短時間ですむとはかぎらない。むしろ思っていた以上に大きな島だ。ぐるっと一周するだけでも半日はかかる。


「丸一日後でいいですか? もしも万一、早めに友人が見つかれば、重松さんの携帯に電話します」

「わかった。こいつを持ってけ」

 重松から水筒と握りめしの入った袋を渡された。

「ありがとうございます」

「気をつけろよ。兄ちゃん」

「はい」


 いよいよ、人魚の島へ上陸だ。




 *


 重松の船が遠くなっていく。

 不安な気持ちはあったが、しかたない。

 もしものとき、重松が人魚に襲われてしまったら、島から脱出できなくなる。帰りの足は確実に確保しておかなければならない。安全な場所で待機してもらえるほうが、龍郎としても安心だ。


 龍郎は渡された袋をリュックのなかに入れて背負いなおした。


 入り江のなかは岩場にかこまれていた。島の内陸がまったく見えない。

 なんだか天然の要塞のようだ。

 しかし、まもなく、そこが無人の島ではないことがわかった。

 人工物が歴然と、自然に人間が手をくわえた証を残している。岩場と岩場のあいだに、細い階段があった。

 それは決して海水の浸食などによって偶然にも構築された形状ではない。人間の歩幅にあわせて造られ、両側をはさむ岩壁には、木製の手すりがとりつけられていた。


 しばらく周囲をウロウロしてみたが、内部に侵入するためには、その階段を使うしか道がないようだ。

 このさきに見張りが立っているかもしれないと思ったが、ここまで来たのだ。臆するわけにはいかない。

 龍郎はカラス貝のへばりついた岩場の階段を、一段ずつのぼっていった。

 それほど高い階段ではなかった。

 五分ばかりのぼり続けると、岩場の頂点に達した。


「あッ——」


 見張りはいなかった。

 しかし、そこから見える光景に、龍郎は思わずおどろきの声をあげた。

 無人島どころではない。

 そこには百軒以上もの家屋が建ちならび、立派な村が形成されていた。


(ここが、人魚の棲家……)


 一望にのぞむその景色を、龍郎は目に焼きつけた。

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