6. 鳥籠リセット

 かたむけた言葉に視線を移す。君はなんだか今にも事切れてしまいそうで、そのはかなさが僕の心を掻き立てる。

「やっぱり、私に明日は来ない気がするわ」

 君はまたその言葉を繰り返す。

「そんなことは無いさ」

 僕は慌てて返した。君は少しだけ振り向き微笑ほほえむ。

 そして、君は何かを思い出した様に立ち上がる。そのままゆっくり歩いて行って、白くか細い手を伸ばしカーテンを寄せて、鍵の外されていたベランダの窓を開けた。

 今日は満月だ。

「私は幸せね、だって今日は満月なんですもの。ねぇ」

 僕はなんだか悲しくなった。

「そうだね」

 だけれど決して表情には出さなかった。

否、出せなかった。

 君はまた少しだけ僕の方を見た。でも今度は笑わなかった。

 その意味は僕には分からなかった。けれども、なんだか君の輪郭りんかくから漏れた白い線がとても綺麗だった。ただそれだけだった。

「今日は寒いわね」

 君はずっと月を見ていた。僕は後ろで君を見ていた。

「そうだね」

 あれから君は一度も振り向かなかった。でも今日の僕はなんだかそれでも良いような気がした。

「でもそのお陰で、とってもよく月が見えるわ」

 君の感情は言葉には出ない。きっと君は全てを理解していて、それでもそうして今日の満月を見ていたいのだろうと思うと、僕はどうしても言葉が出ない。

「ねぇ、昨日の私は何をしていたの」

 そう尋ねた君は、とうとうベランダまで飛び出してしまった。

「昨日の君はそこでずっと傘を差していたよ」

 やっぱり君は、どうやら君は全てを理解しているようだった。

「まぁ、それはさぞ悲しかったでしょうね」

 確かに昨日の君はずっとうつむいていたよ。

 でもそんなことを今日の君に言えるはずもなかった。

「あなたは嘘と隠し事がとっても好きなのね」

 あぁ、そうじゃないんだ。僕は君に嘘をつきたいわけでも、隠し事をしたいわけでもないんだ。

 そんなことも決して言えない。もしそんなことを言ってしまったら僕は君の質問に全て答えなければ行けなくなってしまうから。


「ごめんなさい、そんなつもりはなかったの」

 君はいつの間にか部屋の中へと戻っていた。

「そんな顔をしないで。私、あなたに嫌われたくないの」

 君はひっそりと鍵を閉めながらまるで僕をなだめる様な優しい声で言う。

 途端に嫌な予感が頭をよぎった。

「私、あなたに見放されたらきっと一人になってしまうわ」

 君は僕の側へ寄って来て言った。

「それに今ならあなたが謝った理由がわかる気がするの」

 あぁ、僕は僕の予感が的中したのだと悟った。

「私は今日、あなた以外の誰とも会っていないわ。きっと昨日もそうだったのでしょう」

 君はとうとう僕の目の前まで来て膝を曲げて座った。

 君の目の中に僕が映っているのが見えた。

「だから、あなたに嫌われてしまったらきっと、明日の私に寂しい思いをさせてしまうわ、そんなのは嫌」

 君の手がゆっくりと僕のほほへと伸びる。

 あぁ、今日の君もこうなってしまうのか。もう既に渇いた唾を飲む。

「だから、私の事をどうか嫌いにならないであげて、お願い」

 君はそのまま僕にそっと口付けをした。

 なんだかもう本当に悲しかった。今日という日はもう終わってしまうのだから。

「今日はもう遅いし、そろそろ寝た方がいい」

 僕はまたこの台詞を口にする。昨日も昨日の君に言った台詞だった。その前も僕は全く同じ台詞を口にした。きっと明日も口にするのだろう。それが、もうずっと前から僕の日常だった。

「昨日の私にもそう言ったの」

 君は唇を噛んで言った。

「ああ、」

 やっぱり君は心配性だな、と思った。

「それでそのまま私は眠ってしまったの?」

「ああ、」

 そう返すと君は何かを少しだけ考えるようにしてから、再び口付けをする。そして、すぐに唇を離すと僕の眼をもう一度見てから、そっと身体を手繰たぐり寄せる様にして僕の胸に沈み込む。

「明日の私も幸せでありますように」

 と君は零すと、しばらくしてそのまま眠りについてしまった。

 それを確認して僕は君の身体をそっと抱き上げ、ベッドのある部屋へと運ぶ。

 君の重さが昨日と変わらないと感じて、不意に目にしてしまった廊下の一番奥の壁から慌てて意識をそらした。その瞬間に何故だか君が少しだけ重くなった様な気がした。

 僕はその後に一人で、沈んでいた皿を急いで洗いベランダの鍵を開けてから直ぐに眠った。



 目を覚ますと、君が僕の顔を覗き込んでいた。

「おはよう、いきなりで悪いのだけれど、ここから出られる扉はどれだかわかる?」

 昨日の夜とは対象的なほど君の表情は眩しかった。

「ごめんよ、僕も知らないんだ。まずは朝食を食べよう」

 君は少しだけ表情をこわばらせた。

「あなたには記憶があるのね」

 昨日の君もこのタイミングだった、その前の君も。

「そうだね」

 こうして君は少しずつ表情に影を落としていくのを僕はずっと前から知っている。

 だから今日の僕もたくさんの嘘を君について、たくさんの隠し事を君にするのだろう。

「ごめんね」

 先に謝っておくことにした。君は表情に疑問符を浮かべたが、君のお腹の音で一瞬で掻き消された。

「あなたが作ってくれるの、朝ごはん?」

 また君が笑った。




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