第98話 背中から感じる温もり
「あれ……わた、し……?」
パチリと目を覚ました美奈はまだ覚醒しきれぬ頭のまま周囲を見渡す。
窓から差し込む光は夕焼けからすっかり月の柔らかなものへと変わっており、どうやら帰宅後、あのまま眠ってしまったようだ。
覚束ない手で枕元に無造作に置かれたスマートフォンの画面を灯せば、時刻はすっかり22時を示しており、夕暮れ時に帰ってきたことを考えても随分と眠ってしまったようだ。
まだ覚醒し切れていない頭のままベッドから力なく立った美奈は自室を出ると、一先ずリビングへと向かおうと階段を降りる。寝起きの為、食欲の類はないが他にすることがなかったのだ。
「あら、漸くお目覚めかしら?」
ゆっくりとリビングの扉を開いてみれば、そこにはソファーでテレビを眺めていた母が起きたばかりの美奈を見て、クスリとからかい混じりに声をかけてくれた。
「……ごめん、寝ちゃった」
「良いのよ。ご飯は?」
「お腹空いてないし、この時間は……」
「太るって? ならスープだけでも飲んじゃいなさい。ポトフを作ったのよ」
どうやら母だけしかいないようだ。いつの間にか眠ってしまったことに謝るとわざわざそんなこと言わなくて良いのにとばかりに苦笑しながらソファーから立ち、まだ夕食をとっていない美奈に空腹の度合いについて尋ねる。
しかし寝起きや押し潰さんばかりの悩みの数々の前ではさして食欲も湧かないのだろう。とはいえ、何も食べさせないというのも気が引ける部分があるのか、時計を見て少女らしい悩みを口にする美奈を横目に作り置きしていたポトフを用意し始める。
「パパは?」
「もう寝ちゃったわ。明日早出なんだって」
先程まで母が腰掛けていたソファーに座りながらこの場にいない父について触れると、どうやらもう眠ってしまったらしい。だがここで会話らしい会話は途切れてしまい、無言の空間が広がるなかテレビの音声と料理を準備してくれている物音だけが静かに室内に響く。
作り置きということもあって、温められたポトフが美奈の前に現れるのにはそう時間がかからなかった。
キャベツやジャガイモなどの野菜達がふんだんに使われたポトフは色鮮やかであり、漂うコンソメの香りは寝起きであっても食欲を湧かすには十分過ぎるほどだ。
いただきます、そう言葉短めに両手を合わせると用意してくれたフォークを手にカップのポトフを口にする。カリッと音を立てた粗挽きウィンナーは口内で肉汁を迸らせ、煮込まれた野菜類は口にすればするほど体内が心から温まっていくかのようだ。
母の料理はとても美味しい。プロ並……と称せば流石に大袈裟かもしれないし、それこそ母よりプロの方が料理の腕前は段違いかも知れない。しかし自分にとって食べれば食べるほど優しく、温かく包み込んで安心させてくれるような母の手料理は幾多のプロをも凌駕すると思える。
「あ、れ……?」
ポトフを全て食べ終えた時、不意に視界が滲んだ。それだけではない。どんどんと身体を流れて伝わっていくかのように震えてしまう。何とか抑えようと下唇を噛むも嗚咽が漏れてしまう。
「そーやって抱え込んじゃうのは、どっちに似たのかなー?」
ふと背後から両腕を回されたかと思えば、自分の身体は温もりに包まれた。耳元で聞こえてくるのは愛しい母の言葉だ。徐々に震えが収まるのを感じながら振り返ってみれば、最愛の娘を慈しんで柔らかく笑いかける母の姿があった。
「アナタは昔っから泣いてもすぐに我慢しようと声を押し殺そうとしたりするのよねー。たまには思いっきり泣いたほうが良いって時もあるのよ?」
涙が溢れているにも関わらず、それでも眉を顰め唇を噛み締めることで抑え込もうとしている愛娘の姿に彼女のこれまでを脳裏に過ぎらせながら、指先で涙をそっと拭ってその頬に手を添える。
「声を聞かれたくないってんなら……ほら」
そう言って母は両腕を広げたのだ。
それが意味することは美奈にもすぐに理解でき、一瞬どうしようかとい迷うような素振りを見せた後、こちらを見て、ただただ優しく微笑む母の姿にやがて耐え切れなくなったように母の胸に飛び込んで顔を押し付けるとそのままこれまでの全てを吐き出さんばかりに大声で涙を流す。
美奈に何があったのか、それは母には知る由もないことだ。しかし愛娘がここまでの涙を見せるのだ。きっと彼女の中での許容量を超えたことがあったのだろう。だが何にせよ、今、すべきことは下手な詮索などではなく、愛娘の心を癒すことであろう。だからこそ母は何も言わず、されど決して一人ではないのだと美奈を優しく抱きしめ、彼女が満足するまであやし続けるのであった。
「……ありがと」
程なくゆっくりと美奈は母から離れた。
とはいえ、あれだけ派手に泣いた後では彼女の目は腫れており、今もなお鼻を啜りながらも礼を口にする。
「……ねえ、ママ。人を愛するのって難しいんだね」
ふと漏らした美奈の言葉に母は一瞬だけ面食らったような様子を見せる。何かを抱え込んでしまったのは察しがついていたが、どうやらそれが恋愛関係だとは思っていなかったのだろう。
「そうねぇ。確かに正解はないと思うわ」
「……私はその人の為にしているつもりだった事が逆にその人を苦しめてるんじゃないかって……」
自身の恋愛体験を思い出して思い悩む思春期の娘と重ねているのか、美奈を前に苦笑する母に鼻をぐしぐしと啜りながら不安定な心の内を明かす。
全ては沙耶の為にしているつもりだった。彼女が家庭の事情で苦しめられているのであればその障害を排除するのだと……。
『では、それで美奈さん自体が悲しませてしまったら?』
だがそれが結局、沙耶を苦しめているのであれば本末転倒も良いところだ。
自分は沙耶の為に動いている。ただそれだけを考えるあまり肝心な沙耶の意志を省みてはいなかったのだ。今にして思い返せば、沙耶はここ最近の自分に対して喜ぶどころか悲しそうにしていたのだから。
「それなら何もしなければ良いんじゃない」
あっけらかんとした母の言葉にハッと驚きで目を見開くのも束の間、無責任にも感じた言葉に眉間に皺を寄せて母を見やると放った言葉の調子とは裏腹に真っ直ぐと美奈を見つめていた。
「美奈のことだから今のままそれでもなんて何かしようとした所で空回りしちゃうでしょ。だったら一回立ち止まって振り返ってみなさい。そうすれば何か気付けるかも知れないわ」
その通りだと思う。
今も沙耶の為になにかしたいという想いは消えていない。彼女の為ならばどんなことだって出来ると言う心も……。しかしそのままでは美奈を見る沙耶の瞳から悲しみが消えることはないだろう。寧ろどんどん苦しみを増やすことに繋がりかねない。
「誰も急かしてなんかない。急かしているのは自分自身なのよ。だから躓いちゃうの」
だからと言って本当に何もしなくて良いのだろうか?
母の言葉を聞くたびに美奈の中でも激しい自己問答が繰り広げられていく。しかし結果、何度繰り広げたところで明確に自分自身が納得できるような答えが見つかることはなく堂々巡りとなってしまっていると不意に母の温かな手が美奈の頬を包み込んだ。
「だからゆっくり考えてみなさい。自分がなぜ、そうまでして行動しようとしたのかを。その為ならいくらだって話を聞いてあげる」
「ママ……」
「正解なんてママだって分からないわ。でも少なからず答えが見つけられるように……美奈がもう一度歩き出せるようにその背中を押してあげるわ」
しっかりと美奈の目を見て話すと、手をゆっくりと話して食べ終えたポトフのカップを流し台まで持っていく。母の姿を見つめていた美奈だが、こちらに戻ってきた母はすっと美奈を席から立たせる。
「だから今は休みなさい」
優しくそっと母は美奈の背中を押してくれる。力なんて籠っていないはずなのに押された背中は不思議と力をくれるような温かさが込められており、背中を押された美奈は一度、振り返れば母はにっこりと笑ってくれていた。その姿に胸が温かくなるのを感じながら、美奈は自室へと戻っていくのであった。
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