第96話 根底にあるもの

 

「例えば……──沙耶ちゃんのこととか」


 刃物のような鋭利な痛みが胸に刺さり、血溜まりのようにじわじわと広がっていくような感覚が襲った。

 その原因は目の前で笑みを見せている綾乃であろう。彼女は相も変わらず人を喰ったような笑みを浮かべており、彼女が今、その心中でなにを考えているのかなど一切、読み取ることが出来ない。


 ぞわぞわと波紋を広げるような動揺が今の美奈の心中を占めていた。

 何故、綾乃は沙耶の名を挙げたのか。自分と沙耶の関係は啓基は知っていても綾乃は知らないはずだ。

 もしかしたら啓基が話したのだろうか? いや、それこそありえない。確かに綾乃は啓基の恋人でこそあるが彼女に沙耶との関係を明かさなかったのはそれで発生するいらぬ混乱などを回避する為だ。

 啓基に沙耶との関係が露呈してしまったのは予想外と言わざるえないがそれでも知らないのなら知らないままで良いことであり、一々言いふらすようなことでもない。何よりそのような事情を抜きにしても啓基がベラベラと人の秘密を口走るような人間ではないことは分かっている筈だ。


「な、何でそこで沙耶ちゃんの名前が出てくるの?」


 だからこそ余計に綾乃の発言の意図が分からないのだ。

 確かに考えうる可能性の中で大きいのは啓基だろうが長年の付き合いで知っている彼の人柄がそれを否定させるからだ。

 だからこそ探りを入れようとなるべく動揺を悟らせないように平静を保ちながら彼女に問いかける。


「いえ、特には。ですが沙耶ちゃんとかなり親しいですよね」

「そう、かな? 綾乃ちゃん達と同じだと思うけど……」

「へぇ」


 綾乃と会話を重ねる度にどんどんドツボに嵌っていくような感覚が絶えず襲ってくる。

 自分がなにか話すたびに綾乃はどこか滑稽なものを見るような可笑しそうな笑みを口元に浮かべるのだ。


「まあ、深い意味はありませんよ。それよりもさっきの話の続きをしましょう?」


 ペースは綾乃に握られてしまっている。しかしそれを自覚したところで美奈にはどうすることも出来なかった。今はただこれ以上、自分でも分かるほどの動揺を表に出さないようにするので精一杯だった。


「……言うほどの良いことはなかったけど、吹っ切れたってだけだよ」

「吹っ切れた?」

「私の大切な人がね、自分の家族に苦しめられてるんだよ。私はそれを何とかしたい……。例えどんな手段を取ろうとも」


 沙耶の家族のことが発覚してから今日に至るまで、またかつてのように深い泥沼に沈んでいくのを感じている。

 その原因が沙耶の家族であり、そのせいで彼女が苦しんでいるのならその原因をいかなる手段を用いてでも排除する。そうすることが彼女と共に歩むとを決めた自分の務めであろう。


「どんな手段……。どんな……かぁ」

「変なこと言ったかな?」


 美奈の話に対して、どこか嘲るような態度を見せる綾乃に流石の美奈も眉を顰める。

 自分は純粋に沙耶を想ってそう考えているのだ。それを小馬鹿にするような反応を見せればそうもなろう。


「いえ。でもどんなって、どんなことですか?」

「えっ……?」


 しかし綾乃はそんな美奈を意に介した様子もなく、更に追求してくる。

 よもやそのようなことを聞かれると思っていなかったこともあり、一瞬の間が生じてしまった。


「それは……──」

「あぁ、もしかして大っぴらには言えない事とか? だったらマズイですよねー。警察に相談しないと」


 もう既に美奈が口にする"どんな手段”が何であるのか、大方の想像がつくのか戸惑いながらでも沙耶の為ならばいかなる手段をも辞さない腹積りである美奈の言葉に被せるようにして流れを掴み、白々しいような態度をとる。


「勿論、冗談ですよ? 美奈さんはそんなことしないと思いますし」

「……そうかな? 私、そんなに良い子じゃないよ。特に大切な人を悲しませるような人がいるのなら」


 ニッコリと人を食ったような笑みを見せる綾乃の態度に焦りからか、段々と気に障ったようでその物言いに不機嫌さを含ませながら答える。

 自分は沙耶の為ならばいかなる行動すら出来る。それは決して嘘などではなく、せせら笑われるようなことではない。


「では、それで美奈さん自体が悲しませてしまったら?」


 しかしどういうことなのだろう。

 まさに手玉に取るかのようにぬらりくらりと流れを掴んで離さず、綾乃は美奈を揺さぶりかけるような問いかけばかりをするのだ。


「それ、は……っ。で、でもそれはきっとその人の為だから──」

「それを誰が決めるんですか? それこそ警察のご厄介になった時、そんなこと言うんですか? 器用でもないくせにそれしかないって決めつけて、目先のことしか見えないから後先考えずに独善的に動こうとする……。正直、愚かしいとしか」


 何とか言葉を詰まらせながらも答えようとするのだが、綾乃はその度に目眩がしてくるほどの心を深く抉ってくるような凶器のような言葉を矢継ぎ早に投げかけてくるのだ。


「それともその人が好きとかではなく私はその人の為にこんな風に考えてしまうくらい尽くしてますー……なーんて献身的になっている自分が好きとか──」


 その言葉が最後まで放たれることなく、その代わりに店内には緊張感を抱かせるような甲高い弾いた音が響き渡る。周囲の来店客がざわつきと共にその音の発生源である女子高生二人組が利用しているテーブルを見れば、綾乃に対して腕を振りぬいた状態でいる美奈がいたのだ。


「……っ。ご、ごめんっ! 綾乃ちゃん、私……っ!!」


 とはいえ美奈も無意識だったのだろう。

 じんわりと赤らんでいく綾乃の片頬と周囲から刺さる困惑の視線、そして何よりピリピリと痺れた感触が残る自身の手。綾乃の頬に比例するようにどんどん青褪めていく美奈は慌てて自身が使用していたおしぼりを綾乃に向けようとするのだが……。


「いえ、構いませんよ。私も無遠慮でしたから」


 だが彼女はまるで何事もなかったかのように涼しげな表情を浮かべてこちらに向けられようとする美奈の手からおしぼりだけを抜き取ってテーブルに置き、そのまま空いた彼女の手を取って自身の頬に添える。


「でも美奈さんに“どんなこと”もなんて出来ませんよ」


 今までジンジンと痺れが残っていた美奈の手に綾乃の体温が広がって行くなか、感情に駆られた行動をしてしまったことに自責の念に襲われて視線を彷徨わせている美奈の耳にどこか柔らかな声が聞こえてくる。


「感情任せの行動は誰にでも出来ます。でもきっとその後に美奈さんは後悔する……。だってアナタの本質は歪みなく優しいから。過激な行動を取った時点でアナタは本当の意味で壊れてしまう」


 人間という生物はどうしても大きな部分を見てしまう。

 美奈にとっての綾乃は大人しいながらしっかりとした少女でこそあるが、ふとした瞬間にこれまでの人生で感じたことのない不気味さを持ち合わせた人物であり、彼女によって刻まれた恐怖は今でも鮮明に覚えている。


「美奈さん、確かに大切な人が苦しんでいるのなら如何なる手段を用いてでも……というのは理解できます。ですがアナタ一人で救えるほど人間という存在は簡単ではありませんよ」


 だが今の彼女から戒めるような厳しさの中に優しさを感じるのだ。

 それは何より美奈を想っての言葉だからなのだろう。


「何故なら生きていて心があるんですもの。自分の行動が必ずしも相手にとってプラスになるわけじゃない。それを無視して私はあの人の為に尽くしてるだなんて思っているのならそれはただそんな自分に気持ち良くなっているだけであり、相手はその為の道具にしているだけです」


 そんなつもりはない、と口にするよりも前にこちらに向けられる綾乃の目は下手な反論を許さなかった。

 だが思い返せば夏祭り以降、自分を見る沙耶はどこか切なそうにしていたのだ。


「おいそれと話せるような問題でもないのでしょう。でも溜め込もうとするのは毒です。そういう時はいくらでも私に話してください。サンドバック代わりにはなりますよ」

「……それこそ綾乃ちゃんを道具にしてるだけだよ」

「ふふっ、そうですね。では今日みたいに遊びに行きましょう。二人で遊んで、まだまだ知らないお互いのことを知って、もっともっと関係を深めて、それでいっぱい笑えば楽になるかもしれませんし」


 どこかおどけたように話す綾乃に先程の彼女の言葉もあってか、苦笑気味に答える美奈。

 すると綾乃は自身の頬に添えていた美奈の手を両手で包み込みながら、にっこりと微笑む。


「あのさ……。例えばケーキが身内に苦しめられているのだとしたら綾乃ちゃんならどうする?」


 張り詰められていた空気も少しずつ和らいでいくなか、美奈は綾乃に問う。

 彼女も啓基に対してはどこか歪にも感じるほどの一途な好意を寄せている。そんな彼女がもしも沙耶のように家族で苦しんでいるのだとしたらどういう行動を取るのだろうか?


「もしかしたら美奈さんのようになっているかもしれませんね。偉そうなことを言ってますけど私も視野が狭いので」


 今の綾乃はあくまで第三者である部分が大きいのだろう。

 それこそ美奈の問いもその状況にならねば分からないことだ。今、ここで冷静に話していてもそれが現実になればどのように想い、どのような行動をとるか、想像できない。


「……その時は私が動くよ。大切な友達だから」


 自分を傷つけた手に怒るわけでもなく優しく両手で包み込んでくれる。

 そんな綾乃の手を見つめながら、美奈は弱弱しいながら笑みを浮かべながら話す。綾乃という存在の全てを理解したわけではない。それこそ彼女が言うように人は生きていて心があるのだ。その全てを把握できるほど自分は、人間は完璧ではない。でもだからこそ今の綾乃のように寄り添おうとするのだろう。

 美奈の言葉に対して一瞬だけ目を見開いた綾乃のではあるが、やがて美奈の言葉を噛み締めるようににっこりと笑顔を見せるのであった。


 ・・・


 美奈と別れ、綾乃は一人、帰路についていた。

 あの後、喫茶店を後にして暫らく遊んだ後に別れたが、喫茶店のやり取りもあってか、以前よりももっと撃ちとめられたようにも感じる。


「……沙耶ちゃん、か」


 時刻は日暮れであり、薄暗い空の住宅街では今晩の献立であろう夕飯の匂いが漏れて空腹感を促す。

 そんな有り触れた日常のなかでふと綾乃が零したのは沙耶の名前であった。


 何故、綾乃がわざわざあの場で沙耶の名前を出したのか?

 その際、当人は深い意味はないと話していたが、何の意味も、そして脈略もなく沙耶の名前を出すわけがない。


 それは朝の美奈達の登校に混ざるようになった時のことだ。

 ふと、いつしか美奈と沙耶の間に流れている雰囲気に違和感を感じたのだ。

 当人達は友達と語ってこそいるが、それにしては妙な空気があの二人の間にはある。

 それこそ美奈の親友である玲菜や未希との間にはない、自分と啓基の間にあるお互いを心から想い、愛するような温もりのような雰囲気だ。


 しかしそれをそのまま当て嵌めれば美奈と沙耶は同性愛者ということになる。

 これまでの自分の現実にそのような人物は一人としておらず、始めはまさかと思ってはいたが恋人はいると言うわりにはいつまでもそれらしい男性の姿が見えない美奈、そしていつだってそんな美奈の傍にいる沙耶。もしも仮に美奈の恋人が沙耶だと仮定すれば今日、沙耶の名前を出した後の妙なぎこちなさにも辻褄が合うのだ。


 だが勿論、これは綾乃の考えでしかなく調べたわけでも誰かに聞いたわけでもない。

 ただ彼女にとっての、まさに女の勘とでもいうべきか、自分の中で彼女達の関係を疑っている自分がいるのだ。


「まあ、大切な人……というのは間違いないでだろうけどね」


 同性愛に関しては綾乃からすれば対岸の火事であり、どうでも良いことだ。

 それに綾乃は事実確認をしていないので彼女の中で確証があるわけではない。

 だがふと見せるあの二人の温かな雰囲気と大切な人の為にと歪な渦の中にいるであろう美奈を脳裏にその美奈の行く末を想いながら再び帰路につくのであった。

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