第88話 違和感

 

「はあぁぁーーっっっ……」


 時刻は夜の9時を回ったところだろうか。

 昌弘がその自慢の腕を振るう洋食店・Petunia(ペチュニア)はラストオーダー間近と言うのもあり、比較的穏やかでゆったりとした居心地の良い時間が流れていた。しかしそんな店の雰囲気には似つかわしくないほどの溢れんばかりの大きなため息が聞こえてくる。オーダーを受け、調理の途中であった昌弘が眉を顰めながら見てみれば目の前のカウンター席でうつ伏せの状態になっている嘉穂だったようだ。


「……疲れた」

「お疲れさん」


 うつ伏せのまま呟けば水疱のように消えてしまいそうな程のか細い声を発する嘉穂。

 社員である嘉穂は今日もシャルロットコーヒーで激務に追われていたのだろう。少し前にいつものように来店してきたかと思えば、この調子なのだ。


 とはいえ今は世間一般では夏休みの真っ只中。

 特に嘉穂が勤めるシャルロットコーヒーは複合施設であるポートシティに店舗を構えている。

 夏休みであれば、いつも以上にポートシティの利用客が流れてくるので比例して忙しくなると言うものだ。そんな彼女に同情気味に苦笑して労をねぎらいながら、彼女が注文したナポリタンスパゲッティーを提供する。


「……なんだよ、値段が高いって……。別に私が決めてるわけじゃないんだよ……。本社に言ってくれよぅ……」


 怠そうに身体を起こして、チロチロと出来立てで鮮やかな色合いのナポリタンをフォークで巻きながら、クレームなど日々の激務に神経をすり減らし、気分が沈んでいるのだろう。吹けば散ってしまいそうなほどあまりに弱々しい嘉穂の姿に普段は冗談を言い合う仲である昌弘も心配してしまう。


「そう言えば今日って夏祭りらしいよな」

「……お祭りなんて最近行ってないなぁ……。お祭りに行ってた学生時代に戻りたい……」

「まあなぁ……。俺も昔は准や彼女と行ったりしてたんだけどよ」

「ちょっと待て」


 いつまでも暗い雰囲気にしてはいられないと少しでも気分転換になればと昌弘は夏祭りの話題を振る。


 とはいえ昌弘も嘉穂も社会人。

 日々の多忙さから学生時代のように気軽に遊びに行けるような状態ではない。ふと過去の思い出に浸って懐かしんでいたが昌弘の何気ない発言に現実に引き戻された嘉穂が待ったをかける。


「は? お前に彼女? はぁ!?」

「って言っても高校まで付き合ってた元カノだけどな。准なら知ってんじゃねえかな」


 仕事の疲れもどこへやら。

 昌弘から零れた彼女発言に凄まじい剣幕で食いついてくる。

 最も当の昌弘は特に気にした様子もなく呑気に話していたが。


「か、彼女……っ……。彼女って……」

「っんだよ、そんなに意外か?」

「いや意外って言うか……」


 日々のクレームの内容よりも深くショックを受けてしまっている。

 流石にそんな反応をされるのは心外だったのか、顔を顰める昌弘に嘉穂はいまだ整理がついていないのか、段々とか細い声になりながら話していた。


 確かに昌弘は外見良し器量良しと良いとこ尽くしの人間だ。太い一本の柱のように何かあった時には頼りになるような存在であることに違いない。嘉穂もそんな昌弘に惹かれて…………とまぁそれは置いといて、兎に角、魅力のある男性なのだ。


 よくよく考えてみれば、そんな昌弘を異性が放っておく筈がない。

 同じ教鞭を受けていた調理師学校時代も女子達が異性についての話題で盛り上がれば、必ず昌弘の名前が出てくるほどだったのだから。


 言ってしまえば昌弘は所謂、モテるタイプの人間。

 そしてかつては彼女もいた。

 それを突き詰めて考えていくと……。


「お前、童貞じゃないな」

「なに言ってんのお前」


 わなわなと身体を震わせながら、彼女が至った帰結を口にする。

 とはいえそのあまりに突飛な内容にすかさずツッコミを入れる。

 これが店でなく、彼女が隣にいたのであれば芸人張りのチョップを食らわせていたところだ。


「私だって処女を感じる声なのに、お前の声から童貞を感じない……」

「本当に大丈夫か? 仕事し過ぎじゃないか?」


 目が据わって、この世の終わりのような悲壮感漂うような声で話す嘉穂。

 普段の彼女であれば、こんなことは間違ってもまず口走らないだろう。


 この時期の激務がいよいよ祟ったのか、ツッコミ以前に頭の心配をしてしまう。

 だがそんな心配の声も聞かず、自棄になったかのようにナポリタンを平らげた嘉穂は紙ナプキンで口元を拭って相変わらず据わった目で昌弘を見やり、彼を身震いさせる。


「ち、因みに今、彼女はいるのか……?」

「いや今はいねぇけど……。いたらこの間のバーベキューにも呼ぶだろ……」


 すると嘉穂はなにやら頬を染め、恥らった様子で尋ねてくる。

 一見して、その姿は可愛らしいが先ほどのやり取りもあってか、そうも思えず昌弘は表情を引き攣らせながら答えていた。


「……帰る」

「お、おう……。またなんかあったら来いよ……」


 そうか、そうか……となにやらしきりに頷いた嘉穂はすくっと伝票を持って立ち上がる。

 嘉穂が立ち上がっただけで一瞬、身体を震わせた昌弘だが、今浮かべられる精一杯の笑顔で彼女を見送り、会計を済ませた嘉穂はPetuniaを後にする。


「普段は良い女なんだけどなぁ……」


 まるで嵐のようだった嘉穂がいなくなり、昌弘はため息をつく。

 普段の嘉穂であれば、気怠そうにしながらでも人のことはちゃんと見ており、何かあればそっと寄り添ってくれるような女性だ。昌弘ももしも隣に立って歩いてくれる女性を選ぶのであれば───。


「……養う、か」


 そんな無意識に出てきた言葉に我に返った昌弘は掻き消すように慌てて仕事に専念するのであった。


 ・・・


「あ、ああぁぁ、ぁぁぁぁぁっっ…………」


 一方、Petuniaを後にした嘉穂は暫らくして電柱を壁にズルズルと力なき声と共に崩れ落ちていた。


「なにが処女だ童貞だ……。なんてことを口走ってんだ、私はあぁぁぁっっっっ……」


 店を出て、夜風に当たったお陰で少しは冷静になったのだろう。

 心地の良い涼やかな風とは裏腹に先程の醜態を思い出してか、真っ赤になった顔の熱を少しでも何とかしようと顔面を抑えて唸っていた。


「あぁもぅこれじゃただの地雷女じゃないかっ……」


 普通に考えても、いきなり店先で処女だの童貞だの言うような人間など品性を疑う。

 そんな行動を自分がしてしまったのだ。今、思い返しても自分を見て、昌弘は口に出さずとも表情を引き攣らせていた。


 それもこれも昌弘の彼女発言が発端だろう。

 少なくともあの言葉を聞いた瞬間、言葉が胸を穿ったような感覚を味わったのだから。


 かつて昌弘と交際していたという女性は一体どんな人物なのか。

 昌弘は一体、彼女に対してどんな接し方をするのだろうか。

 もしも自分が彼女なら昌弘はどんなデートを──。


 そこまで考えて湯気でも出そうなほど、より一層顔を赤らめる。

 これ以上、想像するのは危険だと今、頭の中に思い浮かんだ映像を振り払うようにブンブンと頭を振る。


「……ん?」


 今は兎に角、帰ろうと帰路に着く。

 しかしその途中で何かを視界に捉えた嘉穂は目を細める。


 彼女の視線の先にいたのは美奈だった。

 トレードマークであるポニーテールを揺らし、上機嫌に歩いているその姿は確かに覚えがある。


 帰り道だろうか? どうやら今は一人のようだが、もしも普段であれば気付いたこの時点で声をかけたことだろう。しかしそうは出来なかったのは、美奈に強烈な違和感を感じたからだ。


「……本当に小山か……?」


 美奈との付き合いはかれこれ一年程度であるが、それでも思わずそんな疑問が出てきてしまう。

 傍から見ても、上機嫌なその口元は綻んでいる。

 それだけで可愛らしく普段の美奈も笑顔が魅力的な少女だ。

 しかし今の美奈には可愛らしさよりも先に言い得ぬ不気味さがあったのだ。

 結局、嘉穂は美奈に声をかけることも出来ず、彼女が夜闇に消えていくのを見ていることしか出来なった……。

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