第77話 憧れの人はすぐ近くに

 

「ほれ」


 髪を乾かし終えると和葉は洋室のテーブル近くでくつろいでいた。

 昌弘は和葉から離れて今、冷蔵庫の前で何か物色している。するとすぐに声がかかり顔を向けて見れば手に何かを持った昌弘はこちらに対して下投げを行おうとするモーションに入っていた。


 反応した和葉が受け止めようと構えた瞬間、手に持った物を軽く投げる。柔らかな弧を描いたこちらに向かってくる暖色の長方形の物体が何かは視界がブレていてハッキリと視認は出来ないが何とか和葉は両手で受け止める。


「あっ……これ……。私が好きな奴……」


 両手で受け止めた物が何か確認してみればそれは500mlの中容量紙パックに入ったオレンジジュースだった。しかもただのオレンジジュースと言うわけではなく、和葉が好んで良く飲んでいるメーカーの果汁100%のオレンジジュースだったのだ。


「お前はしょっちゅう来るからな。一応、ストックしてあんだよ」

「へぇ……マーサにしてはシュショーな心がけだね」


 和葉が座るテーブル付近に歩み寄りながら、笑って話している昌弘。

 その両手には自分が飲むためのものと思われるコップに注がれた麦茶と和葉に振る舞うつもりで用意したポテトチップスがそれぞれに握られている。


 昌弘がテーブルにつくと和葉もその横に座り直す。

 紙パックを開封しながら備え付けのストローを挿すと昌弘の持て成しに嬉しそうな笑みを浮かべる。


 今日はアポなしで来たのだ。寧ろ何もなくたって何ら不思議ではない。相変わらず昌弘に対して軽い調子で話すものの、ストローを口に含んでオレンジジュースを飲む姿は非常にご機嫌な様子だ。


「今日ね、白花の学校説明会だったんだー。けぃ兄と綾乃さん、凄くカッコ良かったよ」

「ほぉー……もうそんな時期か」


 昌弘が用意してくれたポテトチップスをつまみながら、早速今日の出来事を喜々として話す。もっとも学生時代からもうかなりが経った昌弘からすれば、食い付くのはどっちかと言えば学校説明会の時期その物なのだが。


「それより勉強の方、大丈夫かぁ?」

「だ、大丈夫だし……問題ないし……」


 学校説明会があるのだから、その先には受験が控えている。

 ニマニマした笑みを浮かべて、からかうように尋ねる昌弘に学力に関してはハッキリと心配ないと言える程ではないのか和葉は僅かに冷や汗を流しながら自信の無さを表すように視線を彷徨わせてしまってる。


「まっ、いざとなったら俺がマンツーマンで教えてやるよ」

「マーサ、無理しなくて良いよ。それじゃあマーサが勉強できるように聞こえちゃうよ……」

「オイコラ」


 頬杖をつき、気さくに勉強の指導を申し出る昌弘。

 しかし和葉は憐れむように悲し気な表情で首をフルフルと動かすと、すかさず昌弘のツッコミが入り、二人は笑い合う。


「マーサの方はどうなの? ペチュニアは?」

「別にこれと言って変わった事はねえなぁ……」


 今度は昌弘の近況に話題が移り変わっていく。

 とはいえ昌弘が引っ越して一ヵ月足らず。

 劇的と言えるような変化はなく、特に変わらない生活を過ごしているようだ。


「でも店を開くのが夢だから、その為に色々勉強はしてるかな」

「夢かあ……」


 いつかは自分の店を持ちたい、それが昌弘の夢だ。

 己の夢を話す昌弘の姿はまるで少年のようで、自分よりも十歳近く離れていると言うのに自分と同い年くらいの子供を見ているような錯覚を覚える。それ程までに輝かしい夢を抱いている昌弘の姿を見て、和葉はテーブルの上で腕を組むと、どこか迷いがあるようなそんな様子で呟く。


「私さぁ……将来、これがやりたいってのがないんだよね」


 そんな和葉の様子に昌弘は麦茶を飲みながら視線を向けると和葉はぼすっと組んだ腕の上に体を乗せながら、ため息交じりで話し始めた。


「何となしに高校目指して……多分、大学だって……。明確な目標がないんだ。だからズルズルと学校だけには行って……。それって何か時間稼ぎみたいだよね」


 進学をする理由も別に深い理由があると言うわけではない。

 入れるなら入る、周りが受験に励もうとするから流されるように高校を目指す……。


 白花学園を第一志望に選んだのだって最初は兄や美奈など知り合いが多くいるからなのかもしれない。明確で深い理由もないまま、ダラダラと流れる時間を過ごしていると言うのもあって、目の前の昌弘が眩しく感じてしまうのだ。


(……ヤバい)


 思わず話してしまったが、こんな話をしてどうしようと言うのだろう。

 こんな話をするつもりもなかったし、自分の情けない面を見せてしまった。


 昌弘から顔を逸らして俯いてしまう。

 今の話を聞いた昌弘は何を思うのだろう。

 何の目標もなく無駄な時間を過ごす自分を呆れているのだろうか、嘆いているのだろうか。

 そんな想像をすると昌弘の反応が怖くて、彼の顔を直視することは出来なかった。


「別にそれだって良いんじゃないか?」


 だが昌弘は和葉を呆れる事もしなかった。

 寧ろ肯定するような言葉を放ったので、和葉は思わず顔を上げる。

 そこにはあっけらかんとしている昌弘が。


「何がしたい、あぁなりたいっていう夢はそのうち自ずと思い至るものだろ。焦ることはねえ」


 無理に自分はこうなるんだという決めたところでそれは長続きするのだろうか。

 それならば好きなだけ時間をかけて、様々なものを見て、色んな経験をして見つければいいのではないだろうか。


「いつまでも雲が覆う事なんてないんだ。そのうち晴れ間も見えてくんだろ。だから今は顔をあげて色んなモノを見ておけよ」


 これで良いのかと言う迷いが雲となって心の中を覆って暗くする。

 いつまでもそれが続くわけではない筈だ。

 和葉の中の雲を晴らすのなら、それはやはり色々な刺激を受ける事だろう。


「お前とこんな話をする日が来るなんてなー」

「あぁマーサに変なこと話しちゃったよぉ」


 いつもどちらかと言えば、ふざけ合って騒いでいる昌弘と和葉。

 こんな風に二人きりで真面目な話をする日が来るとは思っていなかった。

 和葉も先程の昌弘の言葉で少しは心も楽になったのだろう。

 おどけた様子で両手で顔を覆うと恥ずかしがるような素振りをする。


「でも……ありがと」


 だがそのうち、やんわりと微笑むと礼の言葉を口にする。

 和葉の微笑みを見て、少しでも和葉の心が軽くなれば幸いだと答えるように昌弘も笑みを浮かべる。


「俺の兄妹は世話がかかるからなぁ。まぁまた何かあったらいつでも話に来いよ」

「ふーんだ。何もなくたって来るもんねー」


 場の雰囲気を明るくするように軽妙に肩を竦めて、やれやれとおどけてみせるとそれでもさり気なく何時でも相談に乗ることを口にする。その言葉が嬉しくて、にんまりとした笑みを見せながらチロリと舌を突き出して軽口で返すと、そうだな、と昌弘も口角をつり上げる。


「ねえ、マーサ。今日泊まっても良い?」

「仕方ねえなぁ。ちゃんと母さん達には連絡しとけよ」


 テーブルの上で両手で頬杖をつき、甘えた口調で頼む和葉。

 別に泊まる事はさして問題ではないし、何より先程の事もあって和葉を気遣ってか昌弘はすんなりと受け入れると、やったー! と和葉は無邪気に喜んでいた。


「んじゃあ、晩飯の材料でも買いに行くかっ」

「りょーかい! 私もそれなりに出来るようになったんだよ!」

「ホントかぁ?」


 和葉が泊まるのならば二人分の食事を用意しなくてはいけない。

 早速、近所のスーパーに買い出しに出かけようと提案する昌弘に和葉はビシッと敬礼すると、昌弘が引っ越してから少しは料理も続けているのかその事を話すが粗かったみじん切りの件もあってか、からかわれてしまい、それはそれでまた騒がしくなる。


(やっぱりマーサが傍にいると楽しいなぁ)


 着替えて二人並んで外に出て買い物に向かう。

 何気ない話を繰り返しては賑やかに笑みを浮かべ合うなかで、和葉は心からそう感じる。


 昌弘が引っ越してから寂しくなかったと言ったらそれは嘘になってしまう。

 将来の事も考えださなくてはいけないと言うプレッシャーもあって、どこか感傷的になってしまったようだ。


 そのせいか元々、昌弘がいないことを覚悟したうえでこのアパートに来てしまった。そうすれば昌弘が家から離れた寂しさも、今の自分の心は少しは楽になると思ったからだ。結果的に昌弘はアパートにいて、何気なく自分の零した相談にも乗ってくれて心が軽くなったのだ。


 まだ将来の夢、と言えるモノはないが、それでも少なくともこの兄のような存在になりたい。

 誰かにとって何気なく近くに居たいと思える存在になりたいと考えながら、今は前を見るのであった。

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