第73話 アナタの全てが欲しくて

 

「……聞いてもらっても良いですか?」


 沙耶は今、美奈の健康的でバランスの良い肉付きの太腿の上で膝枕の形で横になっていた。

 美奈はずっと膝枕をしている沙耶の頭を優しくそっと撫で続けている。

 無言ながら、ずっと居心地の良い空間に満ちた美奈の部屋の中で沙耶は口を開いた。


「……うん、良いよ」


 遂に来た。

 沙耶から出てきた言葉に美奈は僅かに反応する。

 何かが彼女にあったことは明白。

 それを今から、何より彼女自身の口で知らされる。


 それを聞いた自分が沙耶にどんな事が言えるのか分からない。

 それでも自分は自分なりにこれから彼女が聞かされる話を受け止めようと思っている。


「……父が……再婚するんです」


 沙耶が重い口を開いて切り出したのは彼女の父である寺内純一郎の再婚話。

 美奈からしてみれば、純一郎とは一応の面識はあるものの、それでも会った事など数える程度でしかなくそれも短い時間で、しかも会ったとしてもちょっとした挨拶程度でしかない。


 経営者の肩書きを持つだけあって理知的で鷹のような鋭い目を持つ厳格そうな男性であった覚えがある。子供ながら中々近づき辛くどこか人を寄せ付けない雰囲気があった。だがそれ以上にあの男性は何処か尾を引いたようなとても重たく押し潰れそうな悲しみと寂しさを醸し出していた。


「……別にその事自体、どうだって良いのですが」


 沙耶が半ば一人で暮らしているのは美奈だって知っている。それ故に美奈の家庭のような有り触れたような家族の距離感ではないのだろう。だからこそ例え父の再婚だって他人事のように大して気にもせず流してしまう。その事に関して美奈も思うところがあるが、沙耶と純一郎の問題は根が深く不用意な発言は以ての外だ。それに問題は再婚よりも別の所にあったようだ。


「……ここ最近、母のことをずっと思い出すんです」


 膝の上で横たわっている沙耶の手がキュッと握り締められる。

 やはり彼女が抱えていた問題は再婚なんかよりも彼女の母親に関することだったようだ。沙耶の母親はこの二郷に引っ越してくる前に他界してしまったという話は耳にしたことがある。美奈の立場で言えば、結局は他人の家庭なのでそれ以上のことは分からないのだが。


「母は美奈ちゃんのような……とても温かく包んでくれるような……そんな優しさを持った太陽のような人でした」


 自身の母親の人物像を口にする沙耶。

 言葉で聞けば何だかそんな人物のようだと言われると気恥ずかしいものがあって照れ笑いを浮かべてしまう。


「……家庭を明るくさせてくれる太陽のような存在……。母を失った時、私達の家庭は影が広がっていきました。寂しくて辛くて……そんな時に出会えたのが美奈ちゃんだったんです」


 ふと沙耶が起き上がり、膝には沙耶の頭を乗せていた感触がまだ残るなか、美奈は自分を見据える沙耶と向きなおる。


「もしかしたら幼い頃の私はどこかで母と美奈ちゃんを重ねていたのかもしれません。優しくて温かくて……。美奈ちゃんの傍にいたのは母を失って出来た穴を美奈ちゃんで埋めようとしたんでしょうね」


 当然、美奈と自身の母親とでは年齢は違うし、何もかもが違う。

 だがそれでも二人に共通する根底の部分に惹かれて、幼稚園で初めて出会った美奈に心の穴を埋めてもらおうとしていたのかもしれない。


「ですが美奈ちゃんと母は違う。美奈ちゃんは鈍感でだらしがなくて、おおらかな部分もあれば打たれ弱い一面もあるし、たまに頭が悪いなってところがあって……」


 沙耶の口からどんどん羅列されていく美奈の悪い点。

 自覚がある為、反論は出来ないのだが今までの流れで言われてしまっている状況に美奈は冷や汗を流しながら乾いた笑みを浮かべている。


「でも美奈ちゃんは私の心を支えてくれた。私の手を繋いでくれた……。一緒にいれば、私の心は温かな気持ちで満たされる……。そんな日々を過ごしていくうちに美奈ちゃんの悪い部分も全てが愛おしくなったんです」


 すると沙耶はぽすっと美奈の胸に倒れ掛かる。

 沙耶を受け止めた美奈がその肩を抱くなか、美奈の腕の中にいる沙耶は美奈の鼓動を感じ取るように目を閉じて顔を埋める。


「……愛しているんです。いつだったか美奈ちゃんを母を重ねる事は出来なくなったんです。もう美奈ちゃんは私にとって……母以上の……いえ……誰よりも愛する存在なんです」


 最初は心のどこかで亡き母を幼い日の美奈に重ねていた時があった。だが所詮、もう母は記憶にいる思い出の中の存在でしかない。今、目の前で確かに存在する美奈と過ごす日々は全てが新鮮で彼女の喜怒哀楽を一瞬でも見逃したくないと思える程、心を掴まれていた。


 いつしか美奈を母に重ねる事は出来なかった。

 その代わりに美奈へはこの人の隣で一生を共に歩んでいきたい、と一人の人間へ向ける確かな愛が生まれていったのだ。


「簡単じゃないんです……愛すると言う事は。だからこそ失いたくない……。ずっと……傍にいて欲しい……。いつまでも……アナタの全てを欲し、この身に感じていたいッ……」


 美奈の背中に手が回され、ぎゅっとひ弱な力が籠る。

 本当に弱々しい力だ。

 声も体も震えていて、振り解こうと思えば出来そうだがそれでも絶対に離したくないと言う意志を感じてしまう。


「きっと再婚ともなれば、多かれ少なかれ私の環境は変わってしまう……。だからこそ美奈ちゃんだけは……変わらず私の隣にいて欲しいんです……」


 純一郎の再婚などどうだって良いが、それでもいざ再婚すれば絶対に沙耶を取り巻く環境は変わるだろう。何があるかは分からない。別に再婚相手の義母となる人物と必要以上に馴れ合うつもりもないが、変わらぬ確かな心の拠り所が欲しかった。


「……私はいつまでも沙耶ちゃんの隣にいるよ、どんなことがあっても」

「……母は似たような事を言っていました。ですがその母だって幼い時にはもう……」


 沙耶の隣にいる、ずっと傍にいる。

 そんな言葉を一体、今までどれだけ重ねて来ただろうか。だが言葉は確証があるわけではない。その時口にした言葉がいつその意味を失うか分からないのだ。


「……怖いんです。母を失った時のように美奈ちゃんも突然、失ってしまうのではないかって……」


 沙耶はそれを痛いくらい知っている。

 だからこそ何度も聞いてきた言葉が泡のように消え、その人を失ってしまうのがとても怖いのだ。


 一度は自分の心を照らす太陽を失った。

 二度はもう耐えられない。

 どんな形でさえ隣にいる美奈を失いたくはないのだ。


「……私は弱いんです……っ……。どうしようもないくらい臆病で……っ。でも……メッキのように必死に取り繕って外面を保っている……。でも……そんなものはふとした拍子に簡単に剥がれてしまう……」


 沙耶の目尻に小さな涙が浮かぶ。

 確かに沙耶と言えば、学園ではクールだなんだと評される存在だ。でもそんな彼女も傷を負い続ければ、いつしかそこに残るのは弱い心だけなのだ。


「沙耶ちゃん」


 今目の前にいるのは、その弱い心だけが残った沙耶だけなのだろう。

 沙耶の震える身体は収まる気配も見えてこない。

 そんな沙耶を感じながら、美奈は彼女の名前を口にすると沙耶が顔を上げた瞬間、彼女の唇を奪う。


「ありがとう、私に沙耶ちゃんの弱さを教えてくれて」

「……弱さはどこまで行っても弱さなんです……。こんなものは……」


 軽く重ねた唇を離し、改めて彼女を抱きしめ、肩に顎を乗せながらその耳元で囁く。

 優しく囁かれた美奈の言葉に一層、体を震わせる沙耶は震える声色で答える。

 弱さを曝け出せば出すほど、自分は弱い人間だと思われてしまう。


 そんな事は嫌だった。

 自分は弱い存在だと認識しているからこそ他人にそれを悟られたくなかった。

 だからこそ自分の心の弱さに蓋をして、外面を保ち続けていた。


「……でも弱さがあるからこそ、支えたいって思える」


 抱きしめた手を解き、沙耶と向き直る美奈。

 沙耶は己の弱さを隠すように顔を俯かせようとするなか、その前に美奈は指先で彼女の目尻に溜る涙をそっとぬぐい取ると、その頬に手を添える。


「良いんだよ、弱くたって。沙耶ちゃんが私のダメなところも愛してくれてるように私だって沙耶ちゃんの弱さも愛したい……。だから……私にだけは……もっと見せて」


 ずっと泣いていたからか、沙耶の目は腫れあがり、顔も全体的にほんのりと赤く染まっていた。少しでも乱暴に触れればいとも簡単に崩れてしまいそうな今の弱々しい沙耶を真正面から向き合いながらその手を握る。


「私には今の沙耶ちゃんをいくら言葉で言っても、絶対に大丈夫だって安心させることは出来ないかもしれない……。どうすれば良いのかも……まだ分からない……」


 大切な存在を過去に失った沙耶をいくら言葉で元気付けようとしても心のどこかでは完全には信じられないかもしれない。


 だからこそ自分は今の沙耶になにが彼女にとって最善なのかは考え付かない。どうすれば彼女のその弱った心を癒すことが出来るのかは分からない。だがそれでも沙耶のことを案じ、彼女を想い続けるこの心は本物なのだ。


「だからせめて……今は私の全てを感じて」


 すると美奈はトレードマークといえる自身のポニーテールを纏めるリボンを解き、さらりと流れるように艶やかな髪は重力に従って垂れる。


「私が確かにここにいるんだって……」


 そのままもう一度、沙耶の身体に手を回して優しく抱きしめるとそのままコツンと額と額を合わせ、その瞳は沙耶だけを見つめ、その口元には天使が愛を振りまくような笑みを浮かべている。


「私の全てを欲して」


 間近で囁かれたその甘く柔らかなその言葉に先程まで泣き顔で赤くなっていた沙耶はまた別の意味で頬を紅潮させ、瞳を潤ませている。沙耶に優しく微笑んだ美奈は再び彼女と唇を重ね、確かにそこにいるのだと互いの存在を今、確かに感じ合うのであった。

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