第43話 女の嫉妬

「今日は楽しかったです、また行きましょうね?」


 シャルロットコーヒーを後にした啓基と綾乃の二人。

 もう遅い時間となってしまい街灯と窓から照らされる住居の照明が夜の暗闇を照らしている。

 啓基は綾乃を家まで送り届けると別れ際に綾乃は微笑みを浮かべながら、またこうしたデートの約束を取り付けようとする。


「うん……。それじゃあまた明日」


 啓基としてもまた綾乃とのデートすることに関しては異論はない。ただやはり今日のシャルロットコーヒーでの綾乃との会話は頭に残っているのだろう。弱々しい笑みを浮かべながら軽く挨拶をして帰路に就こうと綾乃から顔を逸らして一歩踏み出そうとした時であった……。


「啓基君っ!」


 急に綾乃に呼び止められてしまった。

 どこか楽しそうに声を弾ませているのを聞く限りでは見送りの言葉でもかけるつもりなのだろうか。そう思って何気なく振り返った時であった。


 身を預けるような軽い衝撃とともに唇に初めて感じる柔らかな感触が広がる。

 最初こそ理解できなかったが、綾乃から感じていた甘い香りが間近で感じ、至近距離で見える目を瞑った綾乃の表情を見て、今の自分の状況を理解する。


 突然のキスであった。

 思考が混乱する中、軽いキスで終わらず綾乃はそのまま啓基の首に手をまわして舌同士を絡ませ合う。啓基は驚きで顔を顰めるものの綾乃を突き飛ばすことも拒否することも出来なかった。そのキスはまるで自分の存在を確かに刻み付けるかのように、ねっとりと綾乃は舌を絡ませてくる。


 舌から感じる良い匂いと温かな感触。

 鼻に届く甘さを感じるような綾乃の香り。

 耳をくすぐるさながら喘ぐような甘い吐息。

 脳を麻痺させていくような熱は何て甘美な感覚となって人を狂わせようと言うのだろう。


「ふふっ……やっぱりデートしたらキスはしないといけませんよね?」


 そんな時間も永遠に続くものではない。

 無意識に名残惜しそうな啓基からゆっくりと離れていく綾乃は人差し指を唇に添え、目を細めて微笑む。妖艶にさえ感じるその笑みは男を魅了し乱すほどの破壊力を秘めていた。その笑みを見ていると体が熱くなって気が触れてしまいそうなくらいだ。


 鼓動の高鳴りを、顔が熱くなっていくのを感じる。

 今この瞬間、綾乃から目を逸らせないほど啓基は無意識に夢中になっていた。


「それじゃあまた明日っ」


 後ろに手を組んで前屈みとなりながら綾乃は別れの挨拶を口にする。

 キスをしたこともあって、はにかんだ様子で声を弾ませるその姿は先程とは違って可愛らしい。綾乃と接すれば接するほど違う一面が見えてきてその度に心が揺さぶられてしまう。啓基もまた綾乃につられるように照れ臭そうにしまりのない笑みを浮かべながら綾乃に見送られて、漸く帰路に就くのであった。


 ・・・


 啓基が見えなくなるまで見送った綾乃はようやく帰宅した。

 両親はこのような時間まで遊び歩いていた綾乃を心配していたが、まだ20時過ぎだ。


 第一、あくまで今日はデートなのだ。

 心配してくれているのは承知の上だが、そこをとやかく言われる謂れはないだろう。だが綾乃はそんな事さえ頭の中から消え去るほど、ある事で頭が一杯一杯になっていた。そのお陰で初めて両親の話も適当に受け流してしまうほどだ。


「キス……できたっ……」


 自身の部屋に入ると照明もつけることなくそのまま扉を背にズルズルと座り込む。ものの数分前まで重ねていた唇の感触を手繰るようにその指先は唇に触れる。唇に触れている綾乃の表情は心なしかとろけるような恍惚な表情を浮かべていた。


 初めてのキスであった。

 自分でもかなり大胆な行動をしたとは自覚している。

 でももう動かないで終わるような自分とは決別したいのだ。例えどのような事になろうとも何もせずに後悔するよりもやって後悔した方が良い。


 想い人とのキスというものは何て素晴らしいものなのだろうか。キスという行為を今まで想像でしかした事がなかった、まさに想像以上のものであった。許されるのであれば、それこそ永遠にしていたくなる程だ。


「……ふぅ……」


 しかし桃色に広がる綾乃の頭も途端に冷や水を浴びせられたように冷めていく。

 溜息に似たものを吐きつつ顔を上げ、天井を仰ぎ見るその表情は非常に無機質にさえ感じる。


 次に頭の中に浮かんできたのは美奈のことであった。

 会計の際、美奈と啓基の間に流れる雰囲気が和らぐのを感じた。別にそのこと自体、悪い事ではない。二人の間になにがあったのかなど知らないが、啓基が引き摺っているのなど大よその察しついている。美奈の事を引き摺らなくなるのであればそれに越した事はない。


 だが心配なのは、雰囲気が和らぎそのまま啓基が美奈に目を移すのではないかと言う事だ。


 噂になるほど、美奈に好意を抱いていたのだ。

 下手をすればきっかけ一つで簡単に変わってしまうのかもしれない。


 二番目でも良いと言った。

 だがその立ち位置に何も思わないわけではないのだ。


 現にわずかの間でも笑いあった啓基と美奈を見て、自身の中で黒い何かが蠢くのを感じた。それは紛れもなく嫉妬であろう。美奈にその気はないとしても、美奈を妬んでしまう。


 あの笑顔はとても愛らしいとは思う。

 眩い太陽のような笑顔は確かに見ていてこちらの気分も晴れやかになっていく。

 自分があの笑顔が出来るかと言われれば難しい。

 啓基の求めで笑顔を浮かべ続けてはいたが、啓基が求める美奈の笑顔には程遠いだろう。


 だがどんな太陽でさえ昇り続ければ眩しく邪魔にしかなれない。

 それは美奈の笑顔も同じことだ。


「小山さんの曇った顔も素敵だったなぁ……」


 我ながら歪な事を言っているのは分かっている。

 だが周囲が美奈には笑顔が似合うと言うのに対して綾乃はそう感じたのだ。

 初めてちゃんと中庭で話をした時、美奈が綾乃に対して見せた怯えた表情。

 あの表情を見ただけで加虐心を大いにくすぐられてしまう。


「必要以上に啓基君を惑わすようなら……ちょっと意地悪しちゃうかも……」


 美奈が啓基を惑わそうという意図がない事など理解はしている。

 だが逆にそれが性質が悪いと言うものだ。

 啓基が別れ話にも感じられる話をしたのを覚えている。

 少しずつではあるが啓基は目を覚まして言っているのだろう。

 だが今更、別れるなどさせるものか。

 漸く歪にでも結ばれることが出来たのだ。


 美奈とは今後良い関係を築けるのが一番だ。

 だが、もしも下手に美奈が啓基を惑わすのなら容赦をするつもりなどない。その時はこの胸に秘める蠢く黒く醜い嫉妬の感情を発散させてもらうまでだ。窓から差す月明りだけが照明代わりとなる中、再び俯き表情の隠れた綾乃の口元には歪な笑みが浮かび上がるのであった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る