脱出者ジーティー

稲荷 古丹

脱出者ジーティー


「やっぱり出ないな」

 三回目の携帯からの呼び出しにも、やはり黒田は応じてくれなかった。


 時刻は十四時。殆どの人間が勉学か労働に励んでいる頃、蒸し暑い中で立ち話をしている主婦連中やベンチで船を漕いでいる年寄りを尻目に、俺は大学の同級生である黒田の住処を目指していた。


 彼とは別段仲が良い訳でもなく、たまたま入学式で隣席になり軽く雑談をして知り合いになった程度で、お互いに深入りすることもなく授業で会えば挨拶を交わして、それっきり言葉を交わすことはない。


 だから教授から黒田が一か月ほど大学に姿を見せていないと聞かされても

『へえ、そうでしたか』

 と当たり障りなく答えるしかなかったし、ましてや黒田と俺を仲の良い友人だと思っていたと聞かされた時は些か困惑を覚えたほどだった。


 教授は私に黒田の家を訪ねさせる心積もりであったらしく、またそれを覆す気も無いようであったので、個人的には不本意極まりないが一つポイント稼ぎと割り切り、黒田のアパートの住所と電話番号を託されて大学を後にした。(個人情報の管理が雑ではないか、とか友人の家を知らない俺に疑問を抱かなかったのか等々言いたいことは幾つもあるが気にしないことにしよう)


 真夏の真っ昼間の住宅街を歩くのは蒸し暑さで倒れそうになる。ペットボトルの中身は早々に切れて、もう一本買おうにも自販機が見当たらない。

 肩に掛けた鞄のチャックを開けて空のペットボトルを放り込み、代わりに取り出したハンドタオルで首や額の汗を拭うと幾らか不快感が消えた。携帯の地図アプリを確認すると黒田のアパートは既に肉眼でも見えそうな位置のようだった。


「お、あれか?」

 程なく左斜め十メートル程先、白い壁の二階建てアパートが目に入った。壁面には剥げかけた緑色の『コグレハイム』の文字が刻まれている。目を引くようなものは一切ない、この古めのアパートの二〇一号室が黒田の住居らしい。


 道路に面した一階の部屋の窓が少し開いており、そこから毛深い灰色のネコが半分だけ顔を覗かせて、じっとこちらを見ていた。

「よっ、元気?」

 特に反応することもなくネコは暑苦しそうな見た目に反して冷ややかな視線をこちらに投げかけ奥に引っ込んでいった。


「ペット飼えるとこなのかな?それとも大家さんに内緒で?」

 いずれにしても狭い賃貸住宅で畜生の世話をするという気は時分には一切起きない。大学生活とは一人で優雅であるべきものだ。

 そんなことを考えながら階段を上り黒田の部屋の前に立った。


「おーい、いるかー?」

 扉を叩いても反応はない。試しにドアノブを捻るとカチャリと軽い音を立てて簡単に開いた。


「おおっと?」

 反射的に扉を閉める。三秒ほど間を空けて落ち着いてから再びそっと開けて、隙間から部屋の様子を窺う。中からむわっと籠った熱気が滲み出し思わず顔を顰めた。


 電気は付いておらず昼だというのに中は薄暗かった。右手側に備え付けのキッチンがあり、奥に磨りガラスがはめ込まれたスライド式のドアがある。恐らくあの向こうが居住スペースなのだろうが、中の様子を窺い知る事は出来なかった。


 ふと目線を下げると何足かの靴の上にポストから押し込まれた広告紙が何枚も散らばっている。

(靴を動かした形跡がないし帰ってきてないのか?部屋に引き籠るにしたって腹は減るわけだから買い物くらいには行くだろうし)


 黒田が外出中に施錠をしない人間なのかどうか知らないが留守なら帰るだけだ。

 しかし脳裏に浮かんだ余計な想像が足を重くさせた。


(孤独死?いや老人じゃあるまいし。けどこの暑さなら熱中症ってこともあり得る。あるいは強盗に入られたということも…)


 我ながら無駄に豊かな想像力だと思うが、帰った後でトラブルが発覚し、難癖付けられて余計な責任を背負わされるのはごめんだ。


「入るぞぉ!」

 大声で呼び掛け、散乱した広告紙を踏みつつ靴を脱いで中に足を踏み入れた。仮に何かあって通報したとしたら真っ先に俺が疑われるよな、と少し後悔したがきちんと説明すれば問題は無い。俺は教授に言われて様子を見に来ただけなのだから。


 キッチンを通り過ぎ、磨りガラスのドアに近づく。もしも中で死んでいるとしたら恐らく一か月は発見されていない状態だ。腐りかけの体と臭い、最悪の光景が頭の中で展開される。じっとりと全身に汗がまとわり付いて不快さにイライラしてくる。

 意を決してドアを開けた。


 壁際にデスクと椅子がある。その隣に本棚。中には整頓された本。部屋の真ん中には卓袱台が鎮座している。きちんと片付けられている。デスクと反対側の壁に沿うようにベッドがある。その上には、誰も寝ていなかった。


「……」

 無言で部屋の中に入り、あちこちに視線を向けた。何もおかしな所は見当たらないと分かった途端、ある種の落胆にも似た溜息がこぼれ出た。


「無駄にびびって馬鹿みたいだな。まったくあいつ今頃どこに―ん?」

 ふとデスクに置いてあるものが目に入った。スプレー缶と錠剤が幾つも入った透明な袋。手に取ってみると両方にネズミのシルエットが描かれていた。

「殺鼠剤?おいネズミ出るのか、この部屋。」


 デスクには二枚のプリントも置いてあり、どこかのサイトから印刷したのであろう『ネズミの傾向と対策について』の情報が書かれていた。

「被害をもたらすのは主にクマネズミ、ドブネズミ、ハツカネズミの三種類か。その内、高い所によく出るのはクマネズミ。ふーん、二階なら多分コイツだな」


 さらに各ネズミについての細かいスペックや被害、病原菌についても記述があった。

「意外と危ないものなんだなネズミって。ガンバとかトッポ・ジージョみたいな可愛いもんだと思ってたけど。ひょっとして一階のネコ、ネズミ捕り用か?」


 微妙に愛層の無いヤツだとは思ったが、エサを自分で捕っているようならそれなりにプライドも高いものなのかもしれない。と、その時プリントに額からの汗が落ちてインクが滲んでしまった。慌ててデスクに戻したが染みはじわじわと広がっていく。

 自分が酷く暑すぎる場所にいることを思い出した。


「勝手に入ったのがバレちゃうかな?とにかく早く出るか」

 デスクの上を軽く整頓して戻ろうとした瞬間、視界の端、床を何かが走ってベッドの下に潜り込んだように見えた。

 嫌な予感がして自然とスプレーと錠剤入りの袋を手に取って、体制を低くしてベッドの下の暗闇に目を凝らす。


 暗闇の奥に何か二十センチほどの物体がいる。その塊からは長い管のようなものが伸びており、尻尾だと推測するのは容易な事だった。


「うわ、いた」

 ドクドクと心臓が妙に高鳴る。ネズミに近い生き物をペットショップや動物園で何度も目にしているが、その類が居住空間に勝手に侵入してくると愛玩の情よりも嫌悪感や緊張感の方が先に立つ。


 いっそ、そのまま無視して帰ったって問題は無い。

 まずは教授と警察にと思った所で、そいつは猛スピードでこちらに向かってきた!

 

 俺は思わず飛び上がってベッドの上に飛び乗ると同時に床を注視した。

 明るい場所に出たそいつはやはりネズミだった。二十センチほどの茶褐色の体毛で全身が黒っぽく汚れている。プリントに描かれていた画像と同じクマネズミだ。丁度卓袱台を挟んでベッドの上に身を屈めている俺と床上のネズミはじっと睨みあった。ちらっと卓袱台とベッドの間を見ると床に赤茶色の水滴の跡が幾つもあった。


「うわぁ、これ俺がやったって思われたらどうしよう」

 吐き出した悪態は少し震えていた。たかが小動物相手に自分でも情けないと思ったが、如何に情報として頭では理解していても実際に目の前に出現されては驚かざるを得ない。あるいは病原菌などといったネガティブな情報を手に入れてしまったが為に過剰に拒否反応が出てしまったのかもしれない。


「ドブの水かな?ああ、もう帰りたい」

 クマネズミは声には反応せずじっとこちらを見ている。その口に何かを加えておりそこから絶えず汁が滴り落ちている。どうやら床の汚れはあれが原因のようだ。ドブに落ちていた食べ物か何かだろうと思ったが、

「ん?」


 そこで初めて違和感を抱いた。

 ドブの水というものは大抵黒く濁っているはずだが何故か、

「赤いぞ?」

 点々とクマネズミが通った跡を示す水滴は良く見知った赤色をしていた。

「まさか血?ってことはアイツ怪我してんのか?」

 

 もう一度クマネズミを見ると、その足元に小さな赤い水溜まり―と言うよりも血溜まりが出来ていた。だがそれはヤツが口に咥えているものから出ており、ヤツ自身が何か怪我をしてるようには見えなかった。

「お前何を持ってる?何を咥えてるんだ?」


 必死に首を伸ばすこちらの声に反応するかのようにクマネズミは咥えているものを落とした。血溜まりの上に落ちたものに俺は見覚えがあった。正確には見る事は少ないが、しょっちゅう使っているモノ。それは、


「…舌」


 舌先から中ほどまで、半分の長さに千切られた人間の舌だった。


 ぞわりと怖気が走る。蒸し暑いはずの部屋の中でがたがたと震え始めた。混乱した俺は殺鼠用のスプレーを置いて肩掛け鞄から携帯を取り出し、自分の口の中を撮って写真と血溜まりの中の物体を見比べた。


「似てる。そっくりだ。あれはやっぱり人間の舌だ!」

 クマネズミと視線が合い慌てて錠剤入りの袋と携帯を鞄に突っ込み両手でスプレーを向ける。

「人喰いネズミって…冗談じゃないよな?どこから持って来たんだそれ?」


 クマネズミはじっとこちらを見つめたまま動かない。落とした舌を拾おうともしなかった。まるで落ち着き払っているかのようなその態度に酷く動揺した。


「誰のだ!」

 答えられるわけがないのにクマネズミに怒号を浴びせた時、ぼすっと何かを布に突き刺したような音が聞こえた。小さな音なのに聞き逃さなかったのは近くで鳴ったからだ。


 そう俺のすぐ横、ベッド端の枕に十センチ程の灰色の何かが噛み付いていた。


「あっ―」

 思わず息を呑んだ。

 そいつは黒い小さな目で俺を見上げたのた!


「こっちにもいたっ!?」

 反射的に俺はベッドの逆端に飛び退った。灰色の小さなネズミは意に介することなくじわじわと枕の上を登って来た。


「毛並みが違う?体の大きさも小さい。確かあれはハツカネズミだ。プリントに書いてあった通りなら」

 ハツカネズミはすんすんと鼻を動かし枕の上を小刻みに動いている。

「あのネズミ二階に上がって来れるのか?いや脚力が弱いのはドブネズミの方か?ああもうどっちでもいいよ!」


 悲鳴を上げてクマネズミの方を向き、思わず目を見張った。

 クマネズミが震えて怯えていたのだ。ヤツの視線は枕の上のハツカネズミに向けられている。自分よりも体躯の劣る小さなネズミに恐怖を抱いているように思えた。


「おい、どうしたんだ?あんなものを恐れる必要がどこにあ―」

 そこで言葉が途切れた。視線を戻した枕の上には何時の間にか、もう一匹ハツカネズミが増えていた。しかも二匹目はクマネズミと同じようにモノを咥えていた。赤い汁が滴り落ちるそれはピアスの付いた、


「な―」

 人間の耳。ハツカネズミは一心不乱にそれを齧っていた。


 氷柱で脳天を一気に貫かれたような恐怖を覚えた瞬間、もう一匹もう一匹、次々とハツカネズミがベッドに這い上がって来た。


「うわあああああ―ッ!」

 絶叫と共にベッドから転げ落ち頭を床に打ち付けた。気をやりそうな痛みを我慢して立ち上がるがシャツやズボンには既にハツカネズミが数匹纏わり付いていた。


「寄るなっ!寄るんじゃないっ!」

 必死に手や鞄でネズミ共を叩き落とすがシーツの上に次々と登るだけでなく、ベッド下からも、うようよと湧き出て来る。


「誰か助けてくれ!誰かぁーっ!」

 何とか取りついたハツカネズミを叩き落としたが今や二十匹を超える灰色の塊が自分めがけて押し寄せてきている。終わりだ、と思った瞬間ハツカネズミ達は突如向きを変え俺の事など眼中にないかのように卓袱台の下に殺到していった。


「い、一体何が?」

 わけも分からぬまま咄嗟に卓袱台の下を覗き込むと、ハツカネズミ達が我先にと何かを奪い合っている。それはクマネズミが持ってきた舌だった。


 散り散りに引き裂かれる舌の残骸にたじろいだがこの機を逃す手はない。

 殆どジャンプするようにキッチンの方に駆け込み磨りガラスのスライドドアに手を掛ける。卓袱台の下で争っていた灰色の害獣達が一斉にこちらを向き、小さな無数の黒い瞳と目が合った瞬間、ドアを閉め切った。


 一瞬の静寂の後、ドアの反対側にネズミ達が一匹、また一匹と群がり磨りガラスにガリガリと爪を立て始めた。


「ひいいい」

 余りの悍ましさに尻餅を付いて後退った。既にドアは閉めきられたというのにヤツらはまだ諦めていないのだ。


「一体なんだ!ここで何が起こっているんだ!?」

 理解を超えた恐怖に絶叫した時、右手が動物の体毛のようなものに触れ飛び上がって振り向くと、そこにはクマネズミが逃げるでも襲うでもなく、じっとこちらを見上げていた。


「うわっ、いたのかお前!」

 食われると身構えたが、じぃっと数秒見つめ合う内に不思議と目の前のクマネズミへの恐怖や敵意と言ったものが薄れていった。ハツカネズミ共の旺盛さがコイツにもあったなら既に後ろからやられていたはずだ。だがそうしなかった。


「何故だ?じゃあどうしてお前は人間の舌を持っていたんだ?エサのつもりで手に入れたわけじゃないのか?」

 そこまで聞いて、ふと舌のあった位置を思いだした。元々あれは卓袱台の下には無かったものだ。それがいつの間にか位置が変わり、それにハツカネズミは釣られて飛びついていった。

 まさかこのクマネズミが囮として投げて寄越したのか?


「ネズミが俺を助けた?いや偶然だ!何かの拍子で舌が動いたんだ。そうに違いない」

 頭を振ったがクマネズミはじぃっと見上げてくる。その視線が妙に恩着せがましいものに思えて、はぁーっとため息をついた。

「分かったよ!あり得ないとは思うが…お前に感謝しなきゃな。お前が舌を投げて、アイツらの気を逸らしてくれたから助かったのか」


 背後からは小さな力でガラスを叩く音が途切れることなく響いてくる。俺に恩をくれた小さな獣は急に忙しなくぶるぶると震え始めた。

「お前、クマネズミだよな?縄張り争いに負けたのか?」

 異なるネズミ同志が協力し合って生活するという話は聞いたことが無い。住処を奪い合った結果、いや恐らくは争う暇も無くハツカネズミの爆発的な繁殖力の前に脱出することも叶わず閉じ込められてしまったのかもしれない。


「外に出してあげるよ。ラッキーだなぁ、体の大きな奴がいて。それともこれを見越して助けたのか?だとしたら知恵の回るヤツだぜお前…お前ってんじゃ失礼か。ガンバかトッポ・ジージョか…いや両方取ってジーティーってのはどうだ?」


 ジーティーは軽口にも特に関心を示さず、じっとしたままだ。

 俺は肩を竦めて立ち上がり玄関へ向かう。パリパリと広告紙を踏み荒らしながら靴を履き振り返るがジーティーはついてこなかった。まだうずくまったままで動こうという素振りすら見せない。


「おい逃げるぞ。俺が怖いのは分かるがここにいちゃあ危険なんだ。とにかく外へ出さえすれば―」

 言い終わらない内にジーティーが明らかに玄関から後退した。背後にハツカネズミが迫っているというのに。


(何故そんなことをする?いや、そもそもアイツは俺が近くにいても逃げなかった。ってことは俺ではなく何か別のものを怖がっている。ひょっとして…)

 試しに玄関のドアノブに手を掛けるとジーティーは一層身構えた。表情の見えない獣の顔に脅えが浮かんでいるような気さえした。


「何かいるのか?扉の向こうの何かを感じ取っているのか!?」

 ドアノブから手を放し、急いで覗き穴から外を確認した。魚眼レンズで円形に歪んだ風景の中にそいつはいた。落下防止用のアパートの柵の上に寝そべる灰色の体毛と黄色い目を持った、


「ネ、ネコ?」


 一階にいた灰色のネコだった。しかも柵には数匹のハツカネズミがネコを取り巻くように鎮座している。


「何でここに?しかもネズミがどうしてネコと一緒に…」

 ネコはずるずると何か麺のようなものを啜っている。その先には白いギトギトしたピンポン玉のような物体が引っ付いていた。

「うげえええっ!」


 人間の眼球だった。

 ネコは視神経を啜り、ヘビのような目でこちらを睨んでいた。

「ネ、ネコも『人食い』だったのか!出れば…間違いなく殺される!」


 ネコがどれほどの力を持っているか知らないが愛玩動物でも本気を出せば人間を殺せるという話はしょっちゅう聞く。ネズミは取り巻きか手下か。より大きな獲物を狩る為に彼らを戦力として手懐けたとでもいうのか。


 間髪入れずバリッと何かが割れるような音が響く。遂にハツカネズミ共が磨りガラスに僅かだが穴を開け始めたのだ。ジーティーが狂ったようにその場で激しく首を左右に振り始めた。玄関かリビングか、どっちに行っても逃げ場はない。


「来るんじゃなかった!このアパートはヤツらの罠なんだ!」

 部屋に出たハツカネズミに混乱し外へ脱出した所を待ち構えていた猫が襲い致命傷を負わせる。それから時間をかけてネズミ達と一緒に全身を食い荒らす罠。果たしてそんなことを、たかがネコが考えつけるものなのか?


 だがこの目で見て、これまでの状況を思い返せば最早そう信じるしかない。ヤツらが食っていたものは紛れもない人間の一部だったのだから。

「出来るんだアイツらは。いつ気が付いたのか分からないが思いついたんだ。狩りのやり方を。住人も訪ねてきた人間もエサにする方法を!」


 黒田は既にヤツらに食われてしまったのか。このまま俺も全身を引き千切られて眼も耳も舌も奴らの歯で砕かれて飲み込まれるのか。

「なってたまるか!あんなヤツらのエサになんて…そうだ台所だ。包丁があるっ!」


 土足のまま玄関からキッチンへ戻るとジーティーが飛び退いた。気にせず幾つかの戸棚を開けると下段の棚に一本の包丁が収まっていた。

「あった!」


 だが包丁を手に取り喜んだのも束の間、ハツカネズミが三匹飛び出してきた。既に此処にも入れるルートを開けているヤツがいたのだ!


「うわぁ!?」

 叩き付けるように戸棚を閉め、ハツカネズミに包丁を突き立てようとするがすばしこくて捉えられない。そうこうする内に二匹にシャツに取りつかれてしまった。包丁が大き過ぎて下手に刺せば自分も怪我しかねない。


「ちくしょう寄るな!寄るな!」

 止む無く振り払おうと手を上げたが、突然ハツカネズミの頭にジーティーが食らいついた。そのまま壁に向かって咥えたネズミをぶん投げると驚く俺を尻目に、もう一匹にも噛みつき捕えて同様に壁に叩き付けた。


 激突したネズミは目から血を流しながらピクピクと痙攣していた。

「た、助かった!ジーティー!残りはっ!?」

 言いかけた時、死にかけのハツカネズミに三匹目が食らいつき、そのままムシャムシャと食い始めた。

「まさか、共食い?」


 余程腹が減っていたのか俺やジーティーのことなど歯牙にもかけない様子で同族を貪っている。食欲だけが全て。目の前にあるものが食べ物かそうでないかしか判断せず、それだけの為に最善を尽くす生き物。


「このっ!このっ!」

 怒りにかられた俺はハツカネズミに包丁を何度も突き立てた。キィキィと耳障りな悲鳴を上げてどす黒い血を飛ばして小さな臓腑や骨肉を撒き散らし、やっと息絶えた。既にシャツや手も、どろどろに赤く汚れていたが構っている暇はない。


「なってはならない!絶対にこいつらのエサにだけは!食欲しか無いヤツに食われて終わるものか!」

 既に磨りガラスには幾つも小さな穴が開き始め、いつハツカネズミの大群が押し寄せて来てもおかしくはなかった。


「もう時間が無い…これで何とかするしかない!」

 俺は包丁を握りしめると空いた手を鞄に突っ込んだ




 この『狩り』で重要なことは確実に『大きなエサ』が手に入るという事実。


 欲に忠実だったから全て上手くいった。最初の大きなエサはこれまでくれたエサを与えてくれなくなったから寝ている隙に殺して食った。酷く手こずったが仕留めてから数日はもった。


 大きなエサが持っていた籠の中から出したネズミ共は勝手に増えるから、よく食ったが大きなエサに比べると不味かった。

 ある時ネズミに驚いて大きなエサが別の部屋から飛び出してくるのを見た。大きなエサにとってネズミは恐怖の対象であり、扉から出てくる瞬間は隙だらけであることを理解した時、簡単にエサを手に入れられるとワタシは確信した。


 今ではワタシが扉の前にいるだけでネズミ共は中にいる大きなエサを追い立ててくれるようになった。飛び出してきた大きなエサの喉を千切れば立てなくなり、ネズミ共が目を抉り口から侵入して腹の中を食い荒らせば動かなくなる。


 エサを移動させるのと扉を閉めることだけが大変だが、ネズミ共の数とワタシの力があれば何とかなる。扉が開けっ放しだと不意打ちが出来ないから毎回閉めないとならないが開ける力がないのは残念だ。こちらから打って出る力があればもっと早く済むはずなのに。


 さっき入った大きなエサは中々出てこない。もう残っていたエサも食い終ってしまった。いつもならばネズミ共が早々に追い立てているはずなのに、何をグズグズしているのか。


 と、やっと扉が開けられたが小さな隙間程度でしかもゆっくりだ。これまでとは少し違う。そこから何か飛び出し我慢できなくなったハツカネズミ共がそれに飛びついてしまった。我先にと噛み付いたそれは、他のハツカネズミの死体だ。


 まさかあんなものでワタシの気を引こうと思ったのか。ワタシの獲物は常に大きいエサで、方法も変えることは無い。これからもずっとそうだ。


 バンッ、と勢いよく扉が開きネズミ共が吹っ飛ばされた。待っていたワタシは無傷だ。後ろ足で跳躍し前足で取りつき首元を噛み千切るはずだった。

 

 目の前には、何も、いなかった。


 


 これは賭けだった。

 あのネコがどれだけ『この罠』を使ってきたか分からない上に状況に応じて柔軟な発想が出来るヤツならば一巻の終わりだった。


だが柵の上に居座る姿から考えると恐らくヤツは一度も失敗したことがない。そして扉が開けば最も襲いやすい高さにあり致命傷を与えやすい部位である喉を狙ってくる、と予想した。


 成功体験は同時に油断を生む。ヤツは覗き穴を、ジーティーを、そして人間が武器を使える事を知らなかったか、あるいは無視した。


 その結果、空振りしたネコは無防備な腹を、玄関に這いつくばり包丁を構えていた俺の眼前に晒してしまった。


「うおおおッ!」

 ネコの腹に下から突き上げられた切っ先が抉り込まれ、『ぶちゅっ』と鈍い水音を立てた。包丁と皮の隙間に血液が玉の様に滲み、弾け、顔に降り注ぐ。


 獣の絶叫が響いた。

 ネコは滅茶苦茶に暴れて腕を引っ掻いてきた。


「痛ァッ!」

 皮膚を走る熱い痛みに包丁を手放すと、腹に刃が刺さった猫は地面に転がり落ちて喘ぐようにもがいた。すぐさまネコに覆いかぶさり包丁を握り、さらに腹を裂く。


 抜けると飛びかかってくる気がして何が何でも刺したままにしておきたかった。硬い肉を渾身の力で掻き混ぜるように包丁を抉り込ませても、まだ死なない。

 

首をもたげたネコが怒りの形相で噛み付こうとしたが、その喉にジーティーが食らいついた。強力なネズミの前歯が肉を削りネコはもがり笛のような音を発した。


「ジーティー!」

 相棒の名を叫び、手を弛めることなくポケットに忍ばせておいた錠剤タイプの殺鼠剤を包丁と傷の隙間にありったけ詰め込むとジーティーを引っ掴んで遠ざけネコを持ち上げた。


「重…てぇ!」

 今まで食ってきた分の重さか、腰が砕けるかと思う程の重さだった。それでも耐えてネコをキッチンに放り込むと同時に、リビングのスライドドアの磨りガラスが破られてハツカネズミの大群が我先にと投げ込まれた『エサ』に噛み付いた。


 扉の外にいたネズミも部屋の中で弱っている自分達の主に標的を変え残らず部屋に飛び込んでいった。


 この生き物達の目的はただ一つ、『目の前のエサを食う』ことだけ。

 小さな捕食者達に襲われるネコと目が合った。濁った黄色い両の眼が見開かれ大きく口を開けてこちらに何か叫ぼうとするが、傷ついた喉からは微かな獲物の悲鳴が上がるだけだった。


 灰色のボコボコと蠢く肉塊と化した人喰い共を部屋に残し、二度と彼らでは開けることの出来ない扉を閉めた。


 それから転ぶように階段を駆け降りる俺の前をジーティーはたまに振り返りながら先行して駆け下りていった。

 一刻も早くアパートから離れたかった。


 鞄も服も何もかも血塗れになってしまったので人に会いたくなかったが、幸い誰にも遭遇せずに近くの公園まで来ることが出来た。子供がいないことにホッとした。

 トイレの水で顔を洗い、念入りにうがいをする。後で病院に行って感染症などが無いか検査をしなければならないだろう。


 ふと、視線を落とすと足元でジーティーが俺の様子をじっとうかがっていた。

「多分、あいつらもこれで終わりだよ」

 食欲旺盛なハツカネズミ達はネコの肉と一緒に錠剤にも噛み付いていた。いずれは毒で死に至るだろう。


 しかし全てではないはずだ。早くこの事実を伝えなければならないが一体誰が信じるというのだろう。頼るべきは警察か駆除業者か。それ以前にこんな格好のままでは要らぬ誤解を受けてしまうに違いない。


 それでも捕食者共が活動範囲を広げる前に食い止めなければ。

 黒田の事もはっきりさせたい。仲が良いわけでは無いし生存の可能性は絶望的だが、同級生として何処かで生き延びていて欲しいと願わずにはいられない。何より彼の備えがあったからこそ助かったのだから。


「まずは病院だ。警察も呼んで貰って、そこで事情を話して」

 ふいに、ジーティーが外へ出ていった。


「あ、おいどこ行くんだ?」

 ジーティーは一度立ち止まり振り返ると気怠そうな目でこちらを見つめたが、すぐにまた走り出しあっという間に公園の茂みの中に消えていった。まるで最初からいなかったかのように、その存在を自ら隠してしまった。


 ジーティーに何があったのか、他の仲間はいたのか、何もかも分からないまま一人と一匹の関係は唐突に終わった。

 だが、あの悪夢のような部屋から脱出者として共に生還したジーティーへの感謝と友情はこれから先も忘れる事はないだろう。


害獣として忌避される彼の今後の無事を祈るのは可笑しな気もするが、一人の友としてそれを願わずにはいられない。


「じゃあな、ジーティー」


 風が静かに木々を揺らし、纏わりつくような暑さが少し和らいだ気がした。

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