五ノ章 雨障み 七

 印を結んでいた指を解くと、青葉は浅葱の肩を借りながら、恐る恐る立ち上がった。少し頭が振れるだけで、目の前の景色は明滅する。血を流し過ぎたためか、眩暈も吐き気も酷い。左目も損傷したのか、左目から見える景色は全て赤に染まり、視界は霞んで、隣にいる式神達の輪郭すら曖昧だった。

 腕も指も足も胸も、身体のあらゆる部位が軋み、悲鳴を上げている。神喰から受けたたった一撃が、もともと底を尽きかけていた体力を、完全に潰していた。

 全身がけだるく、気を緩めた瞬間意識は飛び、二度と元には戻らないだろうと本能で悟る。今にも肉体から離れようとする魂を、ただ一つの想いだけを頼りに繋ぎ止める。

(彼女の生きる、京を守る)

 その意思のみが、身体を動かす唯一の手綱だった。

「あさぎ、あやめ・・・・」

「言わなくても大丈夫だ、青葉」

「わかっているわ。わたし達は、貴方の式神なんだから」

 青葉の両側に寄り添うようにして立つ式神は、もがき立ち上がろうとする神喰を睨みつけたまま、頷いた。

「これでがっつり、終わらせるんだろ?」

 肩に回された青葉の腕をしっかりと握り直し、浅葱はふいっと主の顔を見た。両頬を上げ、にっと歯を見せて笑いながら。その笑みに釣られるように、青葉も口の端を僅かに持ち上げた。

 瞬間、三人を取り巻くように暖かい風が巻き起こる。その風に、浅葱と菖蒲は淡い粒子となって溶け込み、青葉を包む。血に染まった髪が揺れ、焦げ千切れた衣がなびく。

 風に乗って、羽のように軽かに京の空へ飛び上がると、四肢をつきながらよろよろと顔を上げた神喰を、上空から見下ろした。ありったけの力を二発もぶつけたにも関わらず、まだ立ち上がってくるのは、さすが神喰というべきか。

 しばし周囲を見渡していた神喰が、頭上で待ち受ける青葉を見つけ、威嚇の咆哮を上げる。天を切り裂くような咆哮に空気は震撼し、禍々しい気が青葉の肌をちりちりと焼く。

 本来、神喰は神の血肉を求め地上を徘徊し、力を得るために神を襲う。奴の本来の目的であった神が、ほんの目と鼻の先にいるにも関わらず、今は己に危害を加えてきた、たった一人の人間に全意識が向けられていた。

(それでいい)

 狐の君には、この空間から気配も存在も隔絶させる結界を張った。これで狐の君に危害が及ぶことはない。

 朧げな視界の中で微かに見えた彼女は、名の通り、黄金色の美しい毛並をした狐の姿をとっていた。姿はすっかり変わっていても、栗皮茶色の丸い瞳だけは変わらなかった。

 彼女は自分に、「逃げろ」と言っていたような気がする。心優しい彼女のこと。恐らく自分を逃がし、自ら神喰に喰われようと考えていたのだろう。

(けれどそんなこと、させられるはずがない)

狐の君の命は、そんな軽いものではない。

彼女を失うことは、京の都に住む者の命、その全てを失うことと同義なのだから。

この地の宝たる彼女を、お前などに喰わせてなるものか。

その宝を守るためならば、己一つの命など、惜しくない。

―お前はこの地で果てろ、神喰

―果テルノハ貴様ノ方ダ

 そう言ったように、ギチギチギチ、と鋭く生え揃った歯を鳴らし、神喰は大地を蹴り出し、大口を開けて飛びかかってきた。一蹴りの跳躍で、青葉の足元まで迫った神喰を、青葉はひらりと風に乗ってかわす。

 極力最小限の動きをしようと意識するも、全身の骨は軋み、筋肉は切り刻まれるような激痛を発す。耳元で、邪気を纏った風が唸り掠める。宙を蹴って、更に上空へと回避して下を見やると、一度地上に落ちた神喰が、青葉を視界に捕えたまま、再度飛び上がる機会を窺っていた。

 口内に鉄の味がじわりと広がって、軽く咳込んだだけで赤い飛沫が宙に飛ぶ。

(時間がない、早く)

「準備はできてる。いつでもいけるわ」

 風に溶け込んだ菖蒲の声が、青葉の頭に直接響く。

「お前の身体はおれらが守る。集中しろ」

 続いて響いた浅葱の言葉に、青葉は両手の人差し指と中指を立て、重ね合わせて目を閉じた。

 大きく息を吸って吐き、全神経を身体の中心に据える。真っ暗になった視界の中で、徐々に外部の気配が遠のいていく。

 耳元で唸る風の音も、鼻を突く臭気も、肌を切りつけるような邪気も、目の前にいるはずの神喰の気配も、全身を駆けずり回る痛みすら、身体から離れていく。

 代わりに身体の底から、眠っていた何かが練り上げられる感覚と共に、身体がぐっと熱くなる。

 頭の頂点から爪先に至るまで、ありとあらゆる意識と力を引き換えに、呼び起こすのは四天を司る神々の力。

 薄弱な命の代わり、生まれ以て授かったのは、陰陽師として最も強固で誉れ高い霊力。神から授かった、神通力と呼ばれる力。

 その力を持つ者だけが扱える秘術を。

「…玄武げんぶ司りし玄北げんぼくの力、悪しきを封じる水牢すいろうと成れ」

 真っ暗になった意識の底で、湧き上がってきた言葉を紡ぐ。すると、静かに紡がれた言葉に応えるように、神喰の周りの大地が突如として裂け、神喰の身体よりも大きな水柱が、四方から爆音と激しい水飛沫を散らし、湧き上がった。

 大量の水は、意思を持ったように一斉に神喰に向けて倒れ込み、その巨体を呑み込んだ。

白虎びゃっこ司りし白西はくせいの力、悪しきを貫くつるぎと成れ」

 青葉の一声に、突如暗闇から現れたのは、鋼色の光の帯。それは水牢に閉じ込められた神喰の周りをぐるりと取り囲んだと思うと、瞬く間に人の身体よりも遥かに大きい、無数の剣となった。その切っ先が神喰に向き、目を焦がさんばかりの光を宿して、一斉に放たれる。剣は我先にと水牢を突き破り、神喰の全身に深々と突き刺さった。

 ギギギギギギ

 神喰の身体から出血はない。けれど痛みは感じるのか、突き立てられた剣を薙ぎ払うように身体を震わせ、激しくのたうちまわる。けれどその動きも、囲んだ水牢の力によって阻まれた。

朱雀すざく司りし朱南しゅなんの力、悪しき身を焼くほむらと成れ」

 ギィィィィアアアアアアアアアア

 水牢の内部で炎と轟音が巻き起こり、苦悶の鳴き声を上げながら、神喰の姿が炎の渦の中へと消える。紅い炎と黒煙が絡み合うように蠢く水牢の表面は、内側からの圧と熱により多少歪みを見せたが、決して崩れることはない。

「―青龍せいりゅう司りし青東せいとうの力、悪しきを閉じる大門たいもんと成れ!」

 青葉の言葉に呼応するように、大地が激しく隆起し、次いで太く巨大な木の根が次々と地を突き破って現れた。それらの根は一気に水牢を巻き込み完全に覆い隠すと、そのまま再び地下へと沈み込んでいく。

「ッ・・・は、・・ぁ」

 詠唱を終えた瞬間、手放していた全ての痛みが怒涛の如く押し寄せ、青葉の四肢を千切らんばかりに掻き喰らった。後頭部は思い切り殴られたような鈍痛が襲い、荒縄できつく首を締め付けられたように息ができず、胸は焼けた銅を飲まされたように熱く掻き切るように痛んだ。

 神喰の様子を確認する余裕はなく、次々と襲い来る激痛の波に飲み込まれる。先程までの集中力は四散し、身体を支えていた風までも散った。傾き、今にも真っ逆さまに落ちていきそうになる身体を、浅葱色の風が包み込み、体勢を無理矢理保たせる。

「青葉!しっかり気を保て!まだ――」

 脳裏に響いた浅葱の声を遮るように、ボゴン、と大きくくぐもった音が真下から聞こえた。朦朧とした意識の中、青葉は懸命に頭を動かし、音のした地上を見る。

「!?」

 そしてそれが、地上から殆ど姿を消していた、水牢の表面が弾けた音だとようやく知る。破れた水牢の隙間から、煤けた骨ばかりになった指が、手が、腕がこちらへ勢いよく伸びてくるのが見えるのと、青葉と神喰の間に、菖蒲が割り込むようにして現れたのは、同時だった。

「避けて!」

 菖蒲は咄嗟に身を翻し、青葉の身体を、伸びてくる腕の軌道から弾き飛ばす。しかし長く伸びた指は、止まることなく彼女の身体を絡め取り、いとも容易く握り潰した。

「―ぁ…っ」

 菖蒲の名前を叫ぼうにも、締まった喉では僅かに息が漏れるだけ。

「―逃げろ、青葉ああ!!」

 姿の見えない浅葱の怒鳴り声が、途切れかけていた青葉の意識を一気に引き戻す。そして気付いた。地上から這い上がって来たのは、神喰の腕だけではないことに。

 蛇のような細長く真っ赤な瞳の中にある、縦細い真っ黒な瞳孔と目が合った。自分の背丈よりも大きな歯の並ぶ上顎が、自分めがけて振り下される。

(避けなければ)

 頭ではそう思うものの、身体が言うことを聞かった。

 振り下される歯よりも先に、目の前に鮮やかな浅葱色が映し出される。物心ついた頃から、ずっと一緒だった式神の姿。気弱だった自分を、優しく、時に強く厳しく、慰め支えてくれた、双子のような存在。

 浅葱が、泣きながら何かを言っている。けれどもう、その声すら届かない。何かが打ち付けられたような衝撃が腹部に走った。同時に世界は光を失い、暗転する。

 痛みすら、もう感じることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る