二ノ章 あい言葉 四

 梅雨時期に訪れる束の間の晴れ間。久しぶりに雲の間から覗いた青空は、今はもう蒼から茜へと移り変わろうとしていた。薄い雲から零れた太陽の光は、京の都一面を金色に染め上げていく。

 光は京の都から少し外れた森にも惜しみなく降り注ぎ、木々の葉に乗る雫はそれを反射して宝玉のように眩くと輝いた。森の中は雨によって空気が洗われ、多少湿気を含みつつも非常に澄みきっていた。しかし足元は数日降り続いた雨により水溜りも多く、水をたっぷりと含んだ土は、どこもぬかるみ油断をすればすぐに足を取られてしまう。

 そんな雨上がりの森に、無造作に伸びた枝葉を避け、道とも解らぬ道を慎重且つ早足で進む青葉の姿があった。白を基調とした羽織も服も今やすっかり泥にまみれ薄汚れてしまっているが、そんなことを気にする様子は一切ない。額に滲んだ汗を拭いながら、ただただ前を向き歩き続ける。やがて鬱蒼と茂る木々の間から光がこぼれ始めると、その足取りは自然と早まった。木の根を飛び越え、青々とした草木を押しやり、泥の飛沫を飛ばして駆け抜ける。そのまま一気に森を抜け出すと、目の前に現れた朱色の鳥居へ向かって一目散に走った。

 鳥居のすぐ奥から続く石畳の階段に、目的の少女は膝を抱えて座っていた。足音に反応したのか、僅かに伏せられていた顔が上がる。そして青葉の姿に気づくや否や、少女の表情が綻んだ。まるで暗闇の中に灯った光のような、固く蕾んでいた華が咲き誇るような、晴れやかな笑み。

「遅くなってしまって、すみませんでした…。僕からまた会いに行くと、言っていたのに」

 青葉は鳥居の前まで来てようやく足を止めると、息を整えるよりも先にそう言った。

「ううん。わたしこそ、此処に来てほしいなんて無理に頼んでしまってごめんなさい…。でも、本当に来てくれて嬉しいです、青葉さん」

「青葉でいいですよ、狐の君。それに、無理になんかじゃないです。僕もあなたともっと話がしたかったんですから」

 青葉は弾んだ息を整えながら鳥居を潜ると、彼女の隣へ腰を下ろした。その所作に灯華は少しだけ慌てる。「自分達の交流は誰にも見られてはいけない」という2人の間で交わした約束のことを思い出したのだ。けれど鳥居の真ん前の階段にいては、もしかしたら通りすがりの人に見られてしまうかもしれない。灯華は特別な力を持った人にしか見えないが、ただの人間である青葉は、それこそ見えない誰かと話しているようにしか見えないだろう。怪しまれることこの上ない。

「あ、あの、ここでは誰か人に…」

「大丈夫です」

 すでにそのことは心得ていたのか、青葉は肩に掛けていた羽織の裾を掴むと軽く持ち上げ、

「浅葱、菖蒲、お願い」

と羽織の中に向かって声をかけた。すると、羽織の中に浅葱色と菖蒲色の淡い色の光が灯り、一瞬でその光は混ざり合うようにして二人を包み込んだ。何事かとぱちぱちと瞬きを繰り返す灯華の様子に、青葉はくすりと微笑むと、「出て来てもいいよ」と空中に声をかける。その声に呼応するように、二色の光は瞬く間に形を成し、彼らの目の前に掌に収まるほど小さな二人の童として現れた。童らは一様に灯華を見、灯華もそんな彼らを好奇心で溢れた瞳で見つめ返す。

「青葉、この子達は?」

 きらきらと目を瞬かせて青葉に問う灯華の声は、楽しそうに弾んでいる。

「この子達は僕の式神です。向かって右にいる男の子が浅葱、左の女の子が菖蒲。今この子達に頼んで、僕達の周りだけ結界を張ってもらいました。僕の姿も声も気配も、誰も見えないし、聞こえないし感じられない」

「そんなことができるの?」

 灯華は、これ以上は飛び出てしまうのではないかと思うほどに見開いた目を青葉に向ける。青葉が「はい」と答えるよりも先に、浅葱が口を開いた。

「この術はおれ達の十八番だからな。青葉はこの術を使って、何度も屋敷を抜け出してるんだ。一度も見つかったことがないし、術の効果はおれ達が直々に保障する!」

「浅葱、そんな口の利き方は無礼にあたるわ。この方はこの地の豊穣神様なんだから」

 浅葱の胸を張りながらの堂々とした発言と、その発言を制する菖蒲の姿に、灯華はくすくすと笑った。

「そう、なら大丈夫なのね」

 それからふと、灯華の視線は青葉の服と羽織に移る。泥が多く飛び散っており、その姿はお世辞にも綺麗とは言えない。彼女の視線に気が付いたのか、青葉は申し訳なそうに眉尻を下げた。

「すみません、任務を終えてそのままこちらに来てしまったので…。泥だらけで鳥居をくぐるなんて、罰当たりですよね」

「ううん、大丈夫、気にしないで。それより、どんな任務をしていたの?陰陽師の人達は、どんなお仕事をするの?」

 身を乗り出して訊ねてきた灯華に、青葉は心臓の鼓動が不自然に跳ねる。

「えっと…」

 少しだけ戸惑いながらも、青葉は今日あったことを順番に思い出していく。


 興味津々な様子で青葉の話に耳を傾ける灯華の顔は楽しそうであり、とても生き生きとして見える。自分の話を他人にこれほどまでに真剣に楽しんで聞いてもらったことがなかった青葉は、問われるままに今日行った鬼討伐の顛末を彼女に話して聞かせた。


 朱葉に命じられて向かったのは、京の都から山を一つ越えた所にある小さな村だった。村は周りを山と川で囲まれたとても静かな土地で、一見何の問題も抱えていないように見えた。

 現地に辿り着いた青葉はひとまずその村の長に会い、自分が依頼を受けた守門の陰陽師だということを告げた。村長は青葉がまだほんの子供で、しかもたった1人で来たということにいたく驚き少々疑惑の目を向けていたが、とにかく早く解決してほしいと事の詳細を話してくれた。

 村長の話によると、件の鬼は村のすぐ裏手の山にいるという。この村は数十年前に都から離れて暮らそうとした者達が開墾した土地で、その時にはすでに鬼達は此処に住んでいた。そしてこれまでは、その鬼達とはうまく交流を図れていたらしい。だが、4ヶ月ほど前から突然鬼達との仲が暗転した。急に鬼が人を山に入れなくなったというのだ。山に入れなければ、山に生える植物を採ることも、獣を狩ることもできない。それどころか、薪に使う木さえも手に入れられなくなってしまう。何度か無理矢理入ろうとしたらしいが、鬼の力は人を優に圧倒する。人間など敵うはずもなく、完全に失敗に終わってしまった。このままの状態が続けば村人の生活が危うくなる。危機感を抱いた村長は、こうして守門一族に助けを求めたのだという。

 青葉は話を一頻り聞くと、今度は鬼達が住む山へ向かった。そして今度は、鬼の長に会って話を聞いた。何故突然人を山へ入れなくなったのかを訊ね、またそのために村人達が生活に非常に困っていることも話すと、鬼は声を小さくして理由を話してくれた。

 彼らは4ヶ月前から、この山の中でとある祭祀を行っているのだと言う。その祭祀は彼らにとってとても重要なもので、他言はあまりできず見られてもいけない。だから人を山へ寄せつけたくなかったらしい。そしてその祭祀もあと一週間で終わるので、そうしたら山への出入りを速やかに開放するつもりだったのだと。また、迷惑をかけてしまった詫びにと、山で採れる珍しい野草や鉱石も目一杯用意していたのである。

 青葉が祭祀のことは隠しながらも事情を村長に伝えると、「そういうことだったのか」と拍子抜けするほどあっさりと納得した。結局青葉は陰陽の力を振るうことなく、両者の話を聞くということだけで任務を果たすことができたのだ。

「鬼達は村人達とはこれからもうまくやっていきたいと思っていたみたいで、実際山に入れず困っていたことも知ってはいたようです。けれどその祭祀のことはどうしても黙っていなくちゃいけないから、彼らもそれをどう伝えていいかわからず、ここまでもつれてしまったと」

「この任務に就いたのが青葉じゃなかったら危なかったかもなー。人間側の言い分だけ聞いて、さっさと討伐してたかも」

「そうなの?」

 青葉の説明に補足を入れた浅葱の穏やかならない言葉に、灯華は少し眉を潜めながら青葉に返答を求める。そんなことはないと言いたいところだったが、その言葉を否定できるほどの自信はない。守門一族の性質上、実際やりかねないからだ。

 陰陽師一族の中では最大勢力を誇る名門中の名門である守門一族は、守門の名と力を誇る一方、それを驕っている一面もあった。彼らの中では力が強い者が弱い者を力で抑え付けることが常であり、「妖怪は服従、もしくは討伐するもの」という思想が強い。そのため任務においては人間を最優先に考えて動く。結果人間からの支持は高く、一族は大きく成長した。しかしその一方で、妖怪からは恐れられ、時にはひどく恨まれているのが現状だ。そんな一族の考え方に、青葉は従うことができなかった。

人と妖怪。少し外見が違って、思考や風習が異なるだけだ。

人であっても妖怪であっても、縁があって同じ土地に生きている者同士。お互いに言葉を交わし、歩み寄ろうと思えば十分分かり合う余地はあると考えていた。今回だってそうだ。両者の話を聞けば、こうもすんなりと問題は解決した。

人と妖怪の間を取り持つのが陰陽師の役目。

守門にそう考える者が他に誰もいなくても。

自分だけはこの考えを貫こうと決めていた。

「同じ土地で、生活の仕方は違っても同じように生きているんです。人も妖怪も、共に生きていくことはできるはずです」

 静かに呟いたその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるように強い意志を持っていた。

「神と人は…」

 青葉の言葉を聞いた途端、思わず口をついてこぼれそうになった言葉を、慌てて口を閉じて飲み込んだ。しかし、彼にはその続きの言葉が届いていたらしい。顔を上げた青葉と目が合ったと思ったら、灯華の右手がぬくもりのある何かに触れた。

「…神と人であっても、」

 何だろう、と目線を下げて気が付いた。灯華の右手に、彼の左手が重ねられていることに。それを自覚した瞬間、心臓が大きく波打った。体中が痺れたように硬直し、心臓の音だけがやけに耳に響く。指先から伝わる彼の体温が、はっきりと感じられる。そのぬくもりは指先から体中へと伝わっていくようで、全身がじわじわと熱くなっていく。

「おんなじです。ほら、こうやって声を交わすことも、触れることもできるんですから」

 握られた手のぬくもりは、不思議と懐かしい感覚さえあった。以前に彼の手を握った時にも、密かに感じていた感覚だ。そしてその懐かしさは、自然と灯華の心の奥を静かに震わせる。それが何故なのか知りたくて、気が付けば灯華もその手に左手を重ね、握り返していた。

「だから、あなたともわかりあえます」

 青葉は微笑みながら、真っ直ぐな意思を以て告げる。その言葉に、灯華の胸の中に温かい「何か」がいっぱいに溢れた。「わたしも、」と言葉を続けようとしたけれど、溢れた何かで胸が詰まって、呼吸さえもうまくいかない。

人に信仰され、祀られる身でありながら、

神は人の生活を守り、慈しむのが己の役目だと知りながら、

神と人とは声を交わしてはいけないと言う。

神と人とは触れ合ってはいけないと言う。

どうしていけないのかと、ずっと問うてきた。

人と声を交わさないで、どうやって人と心を通わせることができる?

人と触れ合わないで、どうやって慈しみの心を育てることができる?

誰彼に訊ねてみたけれど、誰も答えてはくれなかった。

頭ごなしに否定され、影では嘲笑されてきた。

それでも。

他の神にそう考える者がいないとわかっても、自分だけはこの想いを貫こうと決めていた。

けれど実際はひどく不安で、怖かった。

自分が本当は間違っているのではないかと。

自分は神としての資格はないのではないかと。

しかし目の前にいるこの少年は、自分と同じ想いを持っている。

自分は神で、彼は人だけれど、同じ望みを抱いて生きている。

分かり合いたい。

もっと人と。

もっと彼と。

「もう青葉!神様にそんな気軽に触れるなんて!」

 事の次第を見守っていた菖蒲が突然、青葉の頭を叩いた。ぺしぺしと軽い音が響く。

「えっ?痛っあっ・・・す、すみません!」

 そこでようやく青葉は灯華の手を握っていることに気が付いたらしく、そっとその手が離される。けれどその感触も、体温も、未だ灯華の手には残ったまま。灯華はその手を胸の前に引き寄せて、いつもより早く脈打つ心臓の前に押し当てた。

「狐の君?」

 具合が悪そうに見えてしまったのだろうか、青葉が心配そうな眼差しを向けてくる。大丈夫、と首を横に振ると、彼はほっとしたように表情を和らげた。

「あー、青葉?良い雰囲気のとこ水差して悪いんだけど、ぼちぼち帰りのこと考えた方がいいんじゃねーかな?」

 彼の肩の上に乗っていた浅葱が、控えめながらも軽い調子で声をかけ、視線を空へと移す。つられて青葉も灯華も空を見上げる。そうすれば、先程まで黄昏に染まっていた空からはいつの間にか太陽も姿を隠し、星がちらちらと輝くほどに暗くなっていた。

「そうだね。あんまり遅くなると、また姉上に叱られる」

 苦笑を漏らしながら、青葉は名残惜しげにゆっくりと腰を上げ、羽織を再び肩に掛け直して軽快に階段を下り、鳥居を潜った。遅れて灯華も立ち上がり、階段を下りる。鳥居の向こうで、彼が此方へと向き直った。

 手を伸ばせば簡単に届く距離なのに、こうして向き合うと、何故だか彼がとても遠くにいるような気がしてしまう。

「…また、会いに来てくれる?」

「…また、会いに来てもいいですか?」

 どちらともなくそう言って、重なった言葉に思わず二人して笑いあう。

「では、狐の君。また、近いうちに」

 そう言って踵を返し、夜の暗がりに溶け込んでいく彼の背中を、灯華はその場から一歩も動かずに見送り続けた。


それ以来、彼は度々わたしの元を訪れてくれた。

共に草木茂る森を歩き、紅葉を愛で、雪の道を踏み、桜の舞い散る様を眺めた。

彼と重ねる時間は、四季を重ねる毎に重みを増し、

彼と四季を巡る度、彼への想いは深まっていった。

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