僕の水玉模様

 *



 さんざんな一日だった。

 あの親子にも申しわけないことしたな。

 せっかくの楽しい誕生日。ひさしぶりに母と娘で、ちょっといいランチでも食べてお祝いしましょうと、楽しみにしてたんだろうに。


 僕の失敗のせいで、気分を害して、イヤな思い出になってしまったかもしれない。一万二千八百円もしたワンピース。あれも見るたびに、今日のことを思いだして、不愉快な気持ちになるかもしれない。


 お金のからんだ失敗もツライが、人の心をふみにじるような失敗は、なおさらにツライ。


 そのくせ、心のどこかで、こう思う自分もいる。


 いいじゃないか。だって、来年もまた、お母さんの誕生日、いっしょに祝えるんだろ?

 僕にはもう、手のとどかないところにいる人と。

 僕だって、たまには会いたいよ。

 もう顔も忘れそうだけど。

 いないことにも、なれてしまったけど。

 それでも、たまにはさ。


 そんなふうに思う自分もイヤで、ますます憂鬱ゆううつになる。この失敗は、とうぶん、ひきずりそうだ。


 僕は重い足どりで駅へむかった。

 雨がこれでもかってほど降りしきり、僕の心を痛めつけてくれる。

 駅につくと、駅員にたずねてみた。


「電車のなかに傘を忘れたんですけど、どうしたらいいですか?」

「傘ですか。もよりの駅に届け出がないか、調べてみますね。どんな傘ですか?」

「水色にピンクの水玉もようの女物の傘です。かなり古くて、ちょっとサビてて……」


 駅員のおじさんは、僕の顔を見て不審そうな顔をした。

 男が女物の傘を持ってたら、そんなに変か?

 ムッとしたので、僕はたたみかけるように言った。


「亡くなった母の形見の傘なんです。すごく大事なんです。絶対になくしたくないんです」


 雨が降ると、いつも傘をさして僕を迎えに来てくれたお母さん。

 笑顔で手をふるあなたのうしろで、水玉もようの傘が、クルクルまわっていましたね。


 傘を失うと、その思い出までなくしてしまいそうで、たまらなく怖かった。

 母を亡くしたのは、ずいぶん幼いときだ。記憶のなかのあの人の笑顔が、どんどん遠くなることがイヤだった。


 僕は自然の忘却作用に、どうしても逆らいたくて、記憶の形骸にしがみついているのだと、自分でもわかっていた。


 僕の剣幕に、駅員はタジタジとなった。

「うん。じゃあ、検索してみますね。ちょっと待ってて」


 待つあいだ、僕は、ぼうっと、子どものころの思い出にひたっていた。


 どのくらい待っていただろうか。

 急に音がした。スマホだ。僕はポケットからスマホをとりだした。


 そのとき、スマホといっしょに、何かがカサリところがりでる。床に落ちたそれを見て、僕はぼうぜんとした。

 花がらの小さい封筒。

 職場でさんざん探しても見つからなかったはずだ。

 こんなところにあるんだから。


 僕は安堵と嬉しさで笑いだしてしまった。

 よかった。これで、あの母娘の思い出は、ちょっとだけ改善されるだろう。

 明日になったら、さっそく電話をかけて、謝罪して、見つかったことを報告しよう。


 電話は兄からだ。


「遅いじゃないか。何してるんだ?」

「ごめん。ごめん。ちょっと忘れ物して、駅にいるから。もう少ししたら帰るよ」


 まったく、心配症な兄だ。

 しかし、僕は気づいた。いや、ほんとは、ずっと知っていた。

 そうなんだよな。僕は一人じゃない。

 両親は交通事故で死んでしまったけど、僕のことを心配してくれる兄がいる。

 何もかも失ったわけじゃない。


 もう帰ろう。

 なくしたものを悲しむより、今ある喜びを大切にしよう。


 僕が「もういいですよ」と言おうとしたときだ。

 改札のなかから駅員が出てきた。


「見つかりましたよ。五条駅に似たような傘がとどけられているそうです」

「ほんとですかっ?」


 なんて、ぐうぜんだろう?

 五条駅なら、いつも乗り降りしてる自宅近くの駅だ。帰りに立ちよれば、今日のうちに受けとれる。

 よかった。なくさないですんだ。


 僕はくりかえし感謝を述べて、その場を立ち去った。そして電車にとびのり、五条駅に直行した。

 五条駅の駅員さんには、すでに電話で連絡がついていた。僕が忘れ物を申しでても、不審な目では見られなかった。


 手のうちに返ってきた水玉の傘を、僕はそっと、にぎりしめた。

 なんだか、駅まで母が迎えにきてくれていたようだ。

 くるくると傘をまわしながら、笑っていたあの人の笑顔が、とつぜん、いつにも増して、あざやかによみがえった。


「ごめんね。水玉ちゃん。もう忘れないよ」


 雨はまだ、やまない。

 僕は水玉の傘をひらいた。


 さあ、帰ろう。

 僕には待っている人がいる。


 明日は晴れるといいな。




 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る