憂鬱な始まり



 目をさますと、涙を流していた。

 ヤバイ。何年ぶりだろうか?

 死んだ母の夢を見るのは?


 僕は鳴り続ける目ざまし時計のアラームを止めて、布団からはいだした。


 ああ、ゆううつだ。

 外は今にも雨が降りそうな空もよう。

 テレビをつけると、お天気おねえさんが、午後は雨の確率100パーセントですと言っている。


 夢のせいで、なんだか、ぼうっとしてしまった。

 それでも仕事には行かなきゃならないので、メシを食って、出かけるしたくをする。


 そういえば、先日、コンビニで買ったビニール傘をなくしたばっかりだった。コンビニで買い物をしていたときに、誰かに持っていかれてしまったのだ。コンビニで買って、コンビニでなくす。なんだか、世の不条理を感じる。


 しょうがないので、家にある傘を持っていくことにした。しかし、兄と僕の二人暮らしだ。よぶんな傘はなかった。


「兄ちゃん。今日、仕事?」

「もう行くからな。おまえも遅刻するなよ」


 兄は自分の傘を持って出かけていった。

 しょうがない。またコンビニで買うか?

 いや、ダメだ。給料日前だった。

 ムダな出費は抑えなければ。


 そのとき、僕は思いだした。

 そういえば、あの母の傘が、どこかにあったはずだ。

 たしか、遺品の整理をしたときに、納戸のなかにほうりこんだ。


 急いで探すと、あった!

 ホネに少しサビが浮いて、布地に茶色い線がついているが、ひろげてみても穴などはない。使えそうだ。


 安心した僕は時計を見て、ギョッとした。

 しまった! 遅刻する。

 僕は傘を手に、急いで自宅をとびだした。



 *



 いつも乗っている電車は、すでに出てしまっていた。

 そのあとの六分遅れの急行なら、まだ余裕がある。

 しかし、今日はそれさえ、まにあいそうにない。


 ギリギリセーフの電車は八時二十二分発の各駅停車。

 以前、これに乗って職場まで走ったことがあるから、ギリでまにあうことは知っている。


 とにかく、これに、すべりこめるかどうかにかかってる。

 これまで無遅刻無欠勤で勤めあげてきたのに、こんなことで遅刻になるのは悔しい。


 僕は必死で駅の構内を改札まで走った。片手に定期。片手に傘。


 死にものぐるいで走る僕は注目の的だ。

 まあ、二十歳すぎた男が女物の水玉の傘を持って、必死の形相で走ってるんだから、そりゃたしかに怖いだろう。


 そんなの気にしていられない。

 腕時計を見る。

 八時十八分。あと四分しかない!


 改札が見えた。

 あわてすぎて足がもつれる。

 ころびそうになるが、なんとか持ちこたえた。

 定期をかざし、改札をかけぬける。

 あとは階段だ。

 僕は走った。ひたすら走った。


 ああっ、電車が見える。

 急げ、僕!


「二番線、まもなく発車します。白線の内側までおさがりください」


 構内アナウンスが僕をせかす。

 待ってくれ。まだ行かないで。


 階段をかけおりた。

 最後は三段跳びだ。

 勢いあまって、着地が乱れる。


 あッ。傘、落としてしまった。

 大事な水玉ちゃん。なくすわけにはいかない。


 僕は落とした傘をひろいあげ、今にもスライドし始めるドアにすべりこんだ。


 セーフ! まにあった……。


 あまりの安堵に脱力してしまう。

 僕は、ぼうっとしながら空席を探した。

 今日は土曜日なので、朝のこの時間帯、座席はまばらだ。

 土日に出勤という難儀な仕事だが、こういうときはサービス業も悪くないと思う。


 ぼんやりしながら窓の外を見ているうちに、目的地についた。よかった。これで職場まで走っていけば、なんとかギリギリ遅刻はまぬがれる。


 安心しすぎて、僕は気がぬけていた。遅刻しないようにと、あせってもいた。気がついたのは、職場についてからだ。


「あッ、ない!」


 持ってたはずの傘がない。

 なんで? 落とした? いや、ひろったよ?

 あれは大事な母の形見だ。なくすわけには……。


 そのとき、ふっと脳裏に浮かぶ。そうだ。

 電車に入ったとき、ほっとしたあまり、無意識に手すりにひっかけたんだ。それを、そのまま、置いてきた。


(忘れた——)


 たぶん、僕は蒼白になっていた。

 すうっと血の気がひいていくのが自分でわかった。

 あの傘は母との思い出のつまった、大切な……。

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