振り返る猫

影宮

わからない


 貴方と猫が一つずつ。

 貴方は猫より前を歩かなければなりません。

 貴方が歩くとまったく同じ速さで猫も歩きます。

 貴方が走ると猫はまったく同じ速さで走ります。

 何一つ、使わないまま猫より前を歩くには、どうすれば良いでしょうか?

 貴方の声に猫は耳を傾けないでしょう。

 猫は貴方の速さばかりに合わせて動くでしょう。

 貴方がゆっくり歩けば猫もまったく同じ速さでゆっくり歩きます。

 貴方が進んだ距離だけ、猫も進みます。

 しかし、貴方は猫より前に、そう一歩でも前にいなければいけません。

 貴方が止まれば猫も止まります。

 貴方が進めば猫も進みます。

 これが現実であろうと夢であろうと変わりはありません。

 時がどれだけ進んだとしても、貴方も猫も、そして周囲のもの全ても変化はありません。

 睡魔、空腹も無ければ、生死も無い。

 貴方が自害を選んでも、猫は自害を選ばないでしょう。

 血も涙もなければ、何の感情も生まれない。

 貴方が泣こうとも、笑おうとも、猫は鳴き声さえ出さないでしょう。

 そして、貴方がどれだけそういった表現をしようとも、無駄に終わるでしょう。

 道はただ一つ。

 地面の下にも空の上にも、貴方は行けない。

 貴方は歩くか走るか止まることしか出来ない。

 また、猫もそうであるように。

 貴方は猫より前に一歩でも進むことが出来るでしょうか。

 可能か、不可能かではなく、どうすれば良いのかという答えのみをお聞き致します。

 貴方には特殊な能力設定も無ければ、貴方には『貴方』というだけで名も無い。

 所有物は何一つ無く、あるとすれば今着ている服だけ。

 その服で何かが出来るというわけでもなく、また猫も同じく何もありません。

 そろそろ答えは出たでしょうか。

 貴方は無力ですが、思考することは出来る。

 猫はただ思考すら出来ないで、貴方に合わせて動くでしょう。

 方法はわかりましたか?


 目の前に黒猫が一匹座っていた。

 俺が歩き出すと立ち上がり俺の前を歩き出す。

 まったく同じ速さで歩くものだから、走ってみればまたまったく同じ速さで走り出した。

 歩幅が違うはずなのに、追いつくことも無ければ、お互いの距離がひらくこともない。

 暫くそのまま歩いたり走ったりしてみても、何も変わらなかった。

 延々と一本道は続き、終わりは見えない。

『猫よりも前を歩けば、目的地に着くだろう。』

 そう頭の中で誰かが言った。

 空は快晴なのにどの方角にも太陽も月もない。

 明るいのだから昼間なのだろう。

 猫に大声で話し掛けても、振り向くことすらしない。

 俺が止まると、猫は足を止めて座った。

 このままでは何をしても猫より前を歩くことが出来ない。

 どれだけ時間が経っても、何一つ進まない状況。

 空腹も睡魔も襲ってこない。

 疲労も無い。

 ここは夢なのだろうか。

 それとも、現実?

 痛みも感じない、ここに来た理由も記憶も無い。

 俺は元きた道を戻ってみることにした。

 振り返れば、猫は立ち上がった。

 俺が完全に猫に背中を向けた時、にゃぁん、と猫の鳴き声が聞こえた。

 構わず俺はそのまま歩き出した。

 すると、猫がまったく同じ速さで追ってくる。

 道はやがて、見慣れたいつもの通学路に入る。

 振り返るとそこにはもう、先程まで歩いていた道も、居たはずの猫も失せて、ただただ知っているだけの風景へと化していた。

 そうだ、前へ行く為に後ろを向く。

 後ろを向いたなら、顔を上げるだけ。

 歩き出せばやがてそれは後ろではなく前となり、背中を向けた方が後ろと化す。

 ただ前に進んでも状況が変わらないのであれば、振り返って後ろを進んでみればいい。

 それだけのこと。

 後ろは前、前は後ろに。

 そうして歩けば自然に猫は自分の後ろとなって、何もせずとも猫の前を進むことが出来る。

 そのまま歩けば我が家に戻れる。

 そう、確信していた。

 ドアを開けるだけ。

 これが、猫より前を進む方法。


 ドアを開けると、黒猫が待っていた。

 そこに広がるのは一本道と、快晴の空。

 バタンと閉まったドアに気が付かなかった。

 俺が歩き出すと、猫は立ち上がり歩き出した。

 どれだけ歩いても猫に追いつけない。

 走っても、歩いても、追いつけない。

 猫よりも前には立てない。

 振り返るとあれだけ進んだのにそこにはドアが。

 我が家のドアだ。

 触れれば猫が鳴いた。

 無視してドアを開けると目の前には見慣れた通学路。

 そして、血塗れの俺が倒れている。

 傍には、黒猫が座っていて、倒れている俺を見下ろしていた。

 後ろでドアがバタンと閉まったのにも気付かなかった。

 血塗れの俺が顔を横にして俺を見る。

「気付かなかった、だろ。振り返れば、良かったのに。」

 ゾッとして俺は咄嗟にドアを開けて中に逃げ込んだ。

 前にはいつもの通学路。

 そこには俺は倒れていない。

 振り返ってもドアは無く、見慣れた風景。

 何が何だかわからなくなった。

 黒猫が目の前を横切っていく。

 後ろで足音がした。

 俺はずっと、ずっと目の前にいた猫が気になって追い掛けた。

 猫は俺とまったく同じ速さで走る。

 歩幅が違うはずなのに、お互いの距離は縮まるどころかひろがることもない。

 猫より前に進むことが出来ない。

 猫に追い付くことも出来ない。

 振り返ると後ろで猫が鳴いた。

 その鳴き声にまた振り返った。

 目前に迫るライト、車の急ブレーキの音。

 俺の体は吹っ飛ばされた。

 倒れ込んで血がじわじわと地面に広がる。

 バタンとドアが閉まる音に顔を向けた。

 俺が立って、目を見開いている。

 あぁ、さっきの俺だ。

 揺れる意識でそれだけを理解して、目を閉じた。


 目が覚めると教室の机の上に視界があった。

 起き上がって周囲をみると、教室には誰もいない。

 外からは運動部員の声。

 放課後、か。

 鞄を手に取って、玄関に向かった。

 下駄箱の中に手を入れると、カサリと紙の音がした。

 取り出すと黒猫の絵とスノードロップの絵が描かれている。

 なんの意味が込められているのかわからない。

 裏を見ると、誰からなのかすぐにわかった。

 幼馴染みの奴で、たまにこんな落書きの紙を俺にくれるんだ。

 紙を折り畳んでポケットに入れる。

 後ろで誰かの声がしたけど、気にせず俺は外へ出た。

 通学路をたった一人で歩いていた。

 誰かの足音が後ろでしたのに振り返ろうとした時、前方から車が来たので端に避けた。

 車を通り過ぎてから、また通学路を普通に歩き出した。

 バタバタという足音に気付いて振り返った瞬間、腹に何か衝撃が走った。

 冷たい感触と、それから痛みを感じる。

 腹に刺さっているナイフ。

 倒れ込みながら、そいつの顔を見て目を見開いた。

 そいつは、幼馴染みだった。


 スノードロップの花言葉がなんであったか、俺は記憶を振り返る。

 相手に贈る時、は。

『あなたの死を望みます』

 黒猫が俺を見下ろして、にゃぁ、と鳴いた。

 そして、俺はそのまま意識を手放した。


 目を覚ますとそこは病室のベットの上だった。

 母親が泣いている。

 起き上がっても痛みが無かった。

 ベットから抜け出して母親の背中に触れようとすると、スルりとすり抜ける。

 振り返るとまだ俺がベットに横たわっていた。


 もう、俺がいつから死んでいるのかもわからないくらいに、意味が分からなくて。

「あの道は、よく交通事故が起こりますから……。」

 本当に、わからなくなった。

 その言葉に、俺の記憶に。

 俺がどこで死んだのか、わからない。

 もう一度、振り返るとそこには一本道があった。

 猫が座っている。

 俺が歩き出すと立ち上がり俺の前を歩き出す。

 まったく同じ速さで歩くものだから、走ってみればまたまったく同じ速さで走り出した。

 歩幅が違うはずなのに、追いつくことも無ければ、お互いの距離がひらくこともない。

 暫くそのまま歩いたり走ったりしてみても、何も変わらなかった。

 延々と一本道は続き、終わりは見えない。

『猫よりも前を歩けば、目的地に着くだろう。』

 そう頭の中で誰かが言った。

 空は快晴なのにどの方角にも太陽も月もない。

 明るいのだから昼間なのだろう。

 猫に大声で話し掛けても、振り向くことすらしない。

 俺が止まると、猫は足を止めて座った。

 このままでは何をしても猫より前を歩くことが出来ない。

 どれだけ時間が経っても、何一つ進まない状況。

 空腹も睡魔も襲ってこない。

 疲労も無い。

 ここは夢なのだろうか。

 それとも、現実?

 痛みも感じない、ここに来た理由も記憶も無い。

 俺は元きた道を戻ってみることにした。

 振り返れば、猫は立ち上がった。

 俺が完全に猫に背中を向けた時、にゃぁん、と猫の鳴き声が聞こえた。

 構わず俺はそのまま歩き出した。

 すると、猫がまったく同じ速さで追ってくる。

 道はやがて、見慣れたいつもの通学路に入る。

 振り返るとそこにはもう、先程まで歩いていた道も、居たはずの猫も失せて、ただただ知っているだけの風景へと化していた。

 そうだ、前へ行く為に後ろを向く。

 後ろを向いたなら、顔を上げるだけ。

 歩き出せばやがてそれは後ろではなく前となり、背中を向けた方が後ろと化す。

 ただ前に進んでも状況が変わらないのであれば、振り返って後ろを進んでみればいい。

 それだけのこと。

 後ろは前、前は後ろに。

 そうして歩けば自然に猫は自分の後ろとなって、何もせずとも猫の前を進むことが出来る。

 そのまま歩けば我が家に戻れる。

 そう、確信していた。

 ドアを開けるだけ。

 これが、猫より前を進む方法。


 ドアを開けると、黒猫が待っていた。

 そこに広がるのは一本道と、快晴の空。

 バタンと閉まったドアに気が付かなかった。

 俺が歩き出すと、猫は立ち上がり歩き出した。

 どれだけ歩いても猫に追いつけない。

 走っても、歩いても、追いつけない。

 猫よりも前には立てない。

 振り返るとあれだけ進んだのにそこにはドアが。

 我が家のドアだ。

 触れれば猫が鳴いた。


 あれ………?


 無視してドアを開けると目の前には見慣れた通学路。

 そして、血塗れの俺が倒れている。

 傍には、黒猫が座っていて、倒れている俺を見下ろしていた。

 後ろでドアがバタンと閉まったのにも気付かなかった。

 血塗れの俺が顔を横にして俺を見る。

「振り返るな。絶対に。」

 その言葉に、俺は動けなくなった。

 なんだよ、これ。

 俺が前に進むと、猫が立ち上がって歩き出した。

 道の先にあったのは………。




















 幼馴染みの乗った車に轢かれて血塗れになり倒れている俺の死体だった。




 俺には、わからない。

 記憶が、もう、これしか無かった。

 どれだけ歩こうとも、走ろうとも、もう、この俺が轢かれた道から出ることは出来なくなった。

 振り返ろうとも、振り返らずとも。


 俺の死体の傍の電柱には、花束や水が置かれている。

 そこに紛れたスノードロップと、黒猫の絵の紙を、誰か、誰か………取り除いて欲しい。

 そして、その裏に刻まれた名を読めないくらいに消して欲しい。

 ただ、それだけが…俺の今の望みだった。





 僕は、クロという名の黒猫を飼っている。

 幼馴染みが死んでから、クロの目は赤くなった。

 獣医に聞いても、誰に聞いても、クロの目は赤くないっていうんだ。

 ただ、僕は気付いていた。

 今度は僕の番だ、と。


 目が覚めると、そこは一本道。

 目の前に黒猫が一匹座っていた。

 僕が歩き出すと立ち上がり僕の前を歩き出す………。

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振り返る猫 影宮 @yagami_kagemiya

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