今日も踏まない青井君。

fumire

第1話 


 あじさいの咲く季節が好きだ。湿った空気とたまにカラリと光る空。濡れた革靴のこもったにおい。厚い雲の隙間から光が差し込む。じっとりと壁に湿気が張り付いている。曇った黒板、汗の蒸れたにおい、少し遠くの君の机。手は伸ばしても届かない。

 初めて君を見たのは雪の溶けた放課後。まだ乾かない革靴に顔をしかめ外を睨んで校舎を後にしたのを見てどうしても耐えられなかった。周りを見渡して何食わぬ顔をして、そこに私の靴がありますという素振りで君の下駄箱を開け顔を近付けた。ゆっくりと離れ急いで自分の靴を履き走り出す。まだきっと外に君がいる。ちょうど校門を出る君を見かけた。左、覚えた。

 春のクラス替えで君と同じクラスになったのは運命としか言いようがなかった。青井というのが君の名字。名字に「わ」のつく私とは離ればなれで席が端と端。好都合だ。君より後ろの席だったら見つめることが出来なかったから。

 特に関わることもないまま君に関する知識だけがどんどん私の中に降り注ぐ。朝が苦手でいつも寝癖がついている。やることが少ないから保健委員を選んだ。パンよりご飯派。小さい頃からサッカーをやっているけどあまり上手くない。目の下と左足首にほくろがある。革靴を履いている。

 見つめているだけでは我慢がきかなくなってきた連休明けの午後、空っぽの教室のすみでチャイムを聞く。焦ってはいけない。誰の足音も聞こえなくなった頃心臓を押さえつけながら教室を出た。君は今頃苦手な数学と午後の眠気と戦っているんだろうか。すのこがきしむ。そっと指先に力を入れる。心臓がはじけ飛びそうに期待していた。かかとがななめにすり減っている。どうやら歩き方に癖があるらしい、青井君の革靴。少し顔を近づけて深呼吸する。ゆっくり振り返る。誰もいない。首を伸ばす、目を閉じる、唇がジャリっと小さく喜んだ。

 あじさいの蕾が濡れて雨に弾かれている。かたつむりがのそのそと近づく。空が暗いせいか最近、青井君は遅刻しがちだ。先週の金曜日はついに休んでしまった。果たして今日は来るだろうか。唇を噛むとあの日のざらついた感覚がよみがえってきて、私はどうしようもなくなる。はやく来て、青井君。午後のホームルームでは席替えをする予定だから。

 

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