第633話 犬の範疇
「シ、ロ……?」
零れた声は、誰のものだったか。
水色の瞳が前を向き、優美な四肢を踏み出した。
まだ震える手をやっと持ち上げたのは、引き留めたかったのか、それとも縋りたかったのか。
コーディは、危ない、と言いたかった。しかし、出かかった声はそのまま霧散する。
狂気に侵されていた戦場が、ひり、と冷えたような気がした。
戦場を支配していく静かな『圧』は、いかに鈍いゴブリンとヒトと言えど無視できるものでなく。
シロを中心に、敵味方双方の手が止まる。畏怖の視線が、集まっていく。
それは、まるで徐々に場が氷結していくようだった。
『シロ! やりすぎてはダメよ!』
三角の耳が、ぴくりと動いた。途端、その背中からは嘘のように圧が消える。
『行くぜ、シロ! やりすぎなきゃいいんだぞ!』
駆け上がってきたチュー助がシロの肩へ陣取り、短剣を振り回していっぱいに息を吸い込んだ。
「さあ…………突っっ込めーー!!」
「ウォウッ!」
持ち上がったしっぽが一度振られ、四肢が地面を蹴った。
――村人たちは、呆然と荒れた地面に座り込んでいた。
視界の怪しくなってきた薄闇の中、くっきりと映える白銀の獣が走る。
ただの一人も村人を傷つけることなく、隙間を縫うようにただ楽しげに走る。時折響く鈍い衝突音と、絶え間なく響く、逃げ惑うゴブリンの悲鳴。
一体、何がどうなったのか。自分たちが命がけで戦っていたゴブリンは、村を滅ぼしかねなかったゴブリンは、一体どこへ行ったのだろう。だってこれでは……これでは、ただ哀れな弱者ではないか。
たった一匹の犬が、まるで羽虫のようにゴブリンを蹴散らし、蹂躙していく。
ゴブリンの姿も、犬の姿も見えなくなるまで、村人たちはしばしその場から動くことができずにいた。
『――シロ、段々速くなってる! 俺様落ちる! 俺様が落ちない程度に走るんだぜ!』
『えっ、そう? 分かった!』
あくまで犬の範疇で。しかし、犬がゴブリンの大群を蹴散らせるはずもなく、中々困難なさじ加減だ。
口に入ったら不味いし効率が悪いとのことで牙は封印した結果、攻撃手段は突進体当たりになったらしい。犬の範疇に収まっているかどうかは非常にアレではあったが、ぎりぎり動物の範囲ではあるかもしれない。
戦意などとっくのとうに弾き飛ばされたゴブリンたちは、我先にとまろぶように逃げている。
『追えーシロ! もう二度と村を襲おうって気にならないようにな!』
『村から離れたら加減しなくていいわよー!』
『わかった!』
ならばゆっくり走ろうと速度をゆるめ、シロとチュー助は村から遠く離れるまで、残ったゴブリンを追い立てた。
『あれ? 前にもゴブリンがいるよ』
『生意気な! 俺様を迎撃するつもりか? よし、ここまで来たら遠慮はいらないんだぜ!』
森の方まで追ってきたところで、気付いた拠点のゴブリンが出てきたらしい。シロは振り返って村の位置を確認すると、足を止めた。
『じゃあ、ぼく遠慮しない』
それを聞くなり、チュー助はすぐさま短剣に飛び込んだ。ちなみに、短剣は水筒よろしくシロの首に掛かっている。
『もう来たらダメだよ。あれは、ヒトの村なの』
水色の瞳をゆっくりと瞬かせ、シロは、一気に神狼の気配を解放する。
どん、と衝撃波が広がるように。
圧力を伴った清廉な気配が夜の森を染め上げた。
銀粉をまぶしたように煌めく毛並み、雄々しい身体に充ち満ちる力。周囲を
すうっと澄んだ空気を吸い込み、ゆっくりと鼻面が天を向く。
ビリビリと周囲を振るわせ、力ある咆吼が森を、空を突き抜けた。
シロが再び前を向いた時、森は、時が止まったようにシンと静かだった。
『――帰ろっか!』
しばらく耳を立てていたシロが、くるりと踵を返す。もう二度とゴブリンが村へ来ることはないだろう。いそいそと出てきたチュー助が、当然のようにシロの頭のてっぺんでふんぞり返った。
『俺様の完璧な指示通り! ようし、凱旋だ!』
軽快な足取りで村へ歩み出したものの、何かに気付いたシロが頭を巡らせる。
『……あ』
轟音、そして、土煙。森の凍り付いた時間をぶち破ったのは、明らかな破壊の調べだった。
『お、おおう……』
ズズズ、と響く地響きにチュー助がぶるりと肩を震わせ、シロがちょっと耳を倒す。
と、こちらまで飛んできたいくつかの破片が、シロたちの前でぴたりと止まった。
「きゅっ!」
ふるる、と身体をふるって土埃を落とすと、破片だったものにはつぶらな瞳がついていた。
『あの、アリス姉さん……?』
恐る恐る声をかけたチュー助に、ふわふわの管狐が愛らしく首を傾げてみせる。
『え、完膚なきまでに……? いや、でも、割と結構遠慮なく押しきっていたというか……』
……アリスと言えど管狐、それを忘れてはいけなかったのだ。
どうやら少数精鋭を引き連れ、哀れなゴブリンたちの拠点攻撃をしてきたらしい。
『ええと、でもその山火事とか……』
「きゅきゅう!」
心外な、と言わんばかりのアリスがツンと鼻先を上げる。管狐と言えどアリス、そこはちゃんと配慮して火や雷は使わなかったらしい。
『そ、想定の範囲内だ! 俺様の……指示ではなかったかな! そこは!!』
チュー助は乾いた笑みを浮かべ、ちょっぴり地形の変わったであろうそこを見ないようにした。
* * * * *
「お、いたぞ! お前ら、早く戻れぇ!」
ラキを抱えて走り寄ってきたタクトに、警備班がなんとも言えない視線を向けた。
「君らこそ何遊んでるんだ……? ゴブリンが来るんだから、早く避難しなさい」
「集合、の指示でしょ~? 中央に集まるんだよ~!」
何事もなかったようにタクトから下りたラキが、さあ、と圧をかける。つい足を踏みだしかけた警備班が慌てて首を振った。
「い、いやでも、俺たちが戻っちゃダメだろ? 誰がゴブリンに立ち向かうんだよ」
「俺らだろ」
事も無げに言ったタクトは、警備班を見ていなかった。
その瞳がスッと細められ、彼らの背後に固定された。それが何を意味するのか、悟ってしまった彼らの口内が一気に干上がり、見開いた目が見つけてしまう。ライトによって地面に薄くできた自分の影、そしてもう一つ、何かを振り上げて己に飛びかかる影。
「――っ?!」
戦闘経験の薄い村人は、応戦よりもつい頭を庇って振り返った。
「え?」
こんな時に、村人の口から間抜けな声が漏れる。今、目の前にいた少年が、振り返った先にいたせいで。
「おらぁ!」
空中でかち合った一人と一匹の小柄な影は、片方が破壊的な音をたてて叩きつけられた。地面にめり込まんばかりのゴブリンだったものは、もう動くはずもない。
「剣士はどこ行ったの~?」
「い、いいんだよ! 剣士だって肉弾戦はするんだよ!!」
咄嗟にゴブリンを蹴り飛ばしたタクトが、今度は剣を抜き、建物の影から飛び出したもう一匹を薙いだ。
「とりあえず、中央に走れ! なんかさ、大群らしいぜ?」
にや、と肩越しに振り返って笑う表情が信じられず、警備班が息を呑む。小さく大きな背中の向こうには、方々から迫るゴブリンたちが見えた。どう考えても自分たちの手に負えない数が、押し寄せてくる。
ひゅっと喉が鳴った。走らなければ、と思う足は、意思に反して少しも動こうとしない。
その時、パララ、と軽い音と共に、先頭集団のゴブリンがもんどり打って倒れた。それに躓き、後続が次々折り重なって一時的なバリケードとなる。
「シールドに入ればみんな安全でしょ~? 行くよ~!」
穏やかな声で、警備班の金縛りが解除された。もしくは、恐怖の対象が移ったからかもしれない。
少年の柔らかな笑みをたたえた冷徹な視線が彼らを突き刺し、『早く行け』と威圧していた。
違う、と思った。この子たちは、自分たちと違う。声も出せずにこくこくと頷く自分たちとは。
「ラキの足でも逃げ切れるか?」
「失礼だな~このくらい大丈夫だよ~」
二人は走り出した警備班のしんがりを努めながら、後ろから迫るゴブリンの足音と、でたらめなわめき声を感じていた。
「うわ?!」
突如屋根から飛び降りてきたゴブリンに立ち塞がれ、警備班の足が止まる。我に返って武器を構えなおすより先に、またもや不可視の攻撃がゴブリンを打ち抜いた。
「止まったら、追いつかれるんだけど~」
安堵も束の間、明らかに間近くなった足音にゾッと体を震わせる。一体、何匹いるのか考えたくもない……追いつかれたら、終わりだ。
「ここは任せろ! 先に行け!」
「うん、じゃあ~!」
格好良く言い放ったはずのタクトが、かくりと傾いた。
「ためらえよ?!」
一瞥もなく警備班を追い立て走り去るラキは、ひらひらと後ろ手に手を振ってみせた。
頼られるのはいいけれど、様式美というものがあるのではないだろうか。
タクトはなんとなく納得いかない気分で、目の前のゴブリンを睨み付けたのだった。
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