第606話 ビバハラ
後ろへひっくり返るように滑り落ち、体勢を整えるより先にぽすんと何かが全身を包み込んだ。
こ、これは……
「あったか気持ちいい……」
思わずすり寄ってぎゅむっとしがみつくと、胸元で何かが蠢いている。何の気なしに視線を下げてみて、思わず悲鳴を上げた。
「うわわーっ! ちょ、うえええ?!」
い、いやだ! これ嫌だ!
オレの身体に挟まれてもすもすと蠢くのは、何を隠そうあの茶色い芋虫。害はない、芋虫さんだって挟まれて暴れているだけ。分かってるけどー!!
じたばたすると、オレを抱え込んでいたものは簡単に緩んだ。そのままひょいと後ろに引っぱられ、浮遊感と共に地面に降ろしてもらった。
『どうしたの? ゆーた、あれ嫌い? いい匂いだよ!』
振り返ると、どうやらついてきたシロが襟首を咥えて下ろしてくれたらしい。不思議そうに首を傾げている。
「え、あれいい匂いなの?!」
驚愕して茶色芋虫さんを見つめる。今、すごく嫌な想像が頭をよぎったけれど、意識的に排除しよう。
『そこはどうでもいいのよ』
『主、俺様今気にすべきはそこじゃないと思う』
両頬からのツッコミがまふまふペチペチと入り、それもそうだと改めて視線の先を変えた。
オレを受け止めてくれた……いやその前にオレを引き摺り落とした? 張本人の足先から頭の上までゆっくり見上げる。
なぜか芋虫さんは離さずにしっかり抱えてらっしゃるその方は、暖かそうな茶色い毛並みと平たい尻尾、げっ歯目らしい顔立ちの……何だろう。多分、オレの記憶の中ではビーバーが近いと思うけど。地中にいたのにモグラじゃないんだろうか。
『気になるの、そこ?』
『明らかにお前の記憶と大きさが違う』
今度は蘇芳とチャトに突っ込まれる。目の前にずうんと佇んでいるのは、縦にも横にも大きなビーバーモドキ……が、二足で直立した姿の生き物だった。横にも大きいから圧迫感を感じるけれど、身長的にはセデス兄さんくらいじゃないかな。
気にならなかったわけじゃないけど、この世界ってオレより大きな生き物がザラにいるからなあ。
「えっと、どうしたの? オレに用事?」
ただの動物じゃないし、ましてや魔物じゃない。レーダーで判別しなくても分かる知性の輝きと、穏やかな気配。巨大ビーバーさんは、小さな黒い瞳で何か言いたげにオレを見て、ますます芋虫さんを抱きしめた。そして芋虫さんはますますのたうった。
ビーバーさんは可愛いけど、できれば激しく蠢くそれは視界から外したい。
『ちょうだいって、言ってるよ』
シロが、少々残念そうな顔でそう言った。ちょうだいって、そういうこと? ビーバーさんにとってソレはごちそうなんだろうか。
「ど、どうぞ?」
地下に住んでいるなら、確かに樹上の芋虫はご馳走だろう。シロには申し訳ないけど、オレ、芋虫は捌けないし、生でもよければお散歩の時にこっそり味わっていただきたい。
当たり前みたいに会話? してしまったけれど、ぱあっと目を輝かせたので確実に伝わっている。ということは、やっぱりこれは幻獣さんかな。
いそいそと背中を向けたビーバーさんが、平たくて大きな尻尾でぺんぺんと地面を叩きながら通路の奥へ歩いて行く。このトンネルは、ビーバーさんが掘ったんだろうか。掘るのに適した身体でもないような気がするのに、不思議なものだ。
しばらく丸い背中を見送っていると、振り返ったビーバーさんが慌てた様子で戻って来た。
「どうしたの?」
のったのたと身体を揺らしてやって来ると、鼻息も荒くオレをたぐり寄せようとする。
「あ、ちょっとご遠慮していいかな?! オレ、芋虫さんと一緒に抱えられたくないよ!」
ずり落ちる芋虫さんを一生懸命抱え直しながら手を伸ばしていたビーバーさんは、つぶらな瞳をぱちくりさせてたくさん髭の生えた口元を忙しく動かした。
かと思うと、また通路の方へ進み出す。
『こっち、って言ってるよ』
「そっちに何かあるの?」
首を傾げて駆け寄ると、ビーバーさんはオレを確認してまた進む。
『道、なくなった』
オレの耳を引っぱって、蘇芳が後ろを見ろと促してくる。
「え?! うわ、本当だ。道がふさがっちゃった……どうなってるの?」
振り返って驚いた。通路があったそこには、最初から何もなかったように土壁が迫っていた。
試しにシロに乗って背後を凝視しながら進んでみると、のったりのったり歩くビーバーさんに合わせるように、まるで土壁がついてくるように通路がなくなっていく。良く見れば、ビーバーさんの前も近づくにつれて広がっているようだ。
「これも土魔法……なのかな」
感心していると、ひょいと方向を変えたビーバーさんが窮屈そうに四つ足で横穴の中に潜り込んだ。
続いてオレもしゃがんで穴の中を覗いてみる。
「わ、ここってお家かな?」
穴は狭かったけれど、奥はそれなりに空間が広がっていた。小部屋くらいあるだろうか。
巣、と言ってしまえばそれまでだけど、それは動物の巣よりも人っぽい気がした。無人島に流れ着いた人が生活を始めたら、こんな雰囲気じゃないかな。
物珍しくてキョロキョロしていたら、奥に行ったビーバーさんが戻ってきた。おぼつかない二足歩行で抱えてきたものを下ろすと、オレに向き直ってちょっと腕を広げて見せる。
みっしりと厚く詰まった柔らかな毛並み、茶色いそれが目の前でゲートオープンされている。
いいの?! では遠慮なくっ!!
「キウッ?!」
暖かな茶色に思い切り飛び込むと、ビーバーさんがビクッと揺れて小さな声が漏れた。図体の割に、随分可愛らしい鳴き声だ。
「ふあぁ~ふかふか~」
これはまた新たなタイプのもふもふ感……時折チクチクするのも、土の香りとほんのり獣の香りがするのもワイルド味があっていい。
もしかして、オレの欲望が全面に出ていたんだろうか。芋虫のお礼ってことだろうか。
一心不乱に堪能していると、遠慮がちに背中をつつかれた。
『あのね、ゆーた、もぐらさん困ってるみたい』
もぐらじゃなくてビーバーだよ、と言いかけて口をつぐむ。困ってる……?
視線を上げると、忙しく口元を動かしながらそうっとオレの身体を引きはがした。
「どうして……? お、オレ、何か悪いことした?!」
目を見開いて縋ろうとして、伸ばしかけた手を止める。ダメだ……オレにはもう、君に触れる資格はないんだね。せめて、そのまろやかな肢体をしっかり目に焼き付けて――
『もぐらさんね、お礼に美味しい実を持ってきたって言ってたよ! ゆーたが急に飛びついたからビックリしたんだよ』
……お芋? ああ、そう言えば何か抱えて来て……? さあっと顔から血の気が引いた。
「じゃ、じゃあオレっていきなり襲いかかった変な人?」
そんな……ビーバーハラスメント?! オレってば知らない間にビバハラを……?
『ビバハラ……なんだか歓迎されてそうなネーミングね』
どうでも良さそうなモモの呟きを尻目に、オレは誠心誠意謝罪したのだった。
「キウッ!」
もういいですよ、と言わんばかりのビーバーさんに促され、持ってきてくれたらしい実に目をやった。
木の皮をお盆のようにして持ってきてくれたのは、ドングリくらいの楕円形をした固い実。
「これ、食べられるの?」
手にとって力を入れてみたものの、潰れも割れもしない。しげしげ眺めていると、器用そうな手がオレの持つ実をさらっていった。
見ててごらん、と言うように、ゆっくり口元へ宛てがい……パリペリ、と一瞬で木の実が剥かれ、あっという間に黒い中身が取り出されてしまった。
「速っ! 蘇芳みたい」
『そう、スオーも上手』
もちろん、今の蘇芳じゃなくてハムスターだった頃の蘇芳だけど。
「へえ、中身は黒い……うん?」
この香り……!! 手渡されたそれに鼻を近づけ、シロのように必死に嗅いだ。いい香り……懐かしい香り。思い出されるのは、ぱくりと口へ入れた後の、とろける甘み。
『この匂い、知ってるよ! ぼく、昔は食べちゃだめなやつ! ね、今は食べていいよね!』
シロが嬉しげに跳ね回った。
「そうだね、見た目も似ているし匂いは同じだけど……食べたらどうなんだろうね」
まさか加工後のお菓子と同じ味がするはずもない。
――ラピス、知ってるの! 黒くて小さくて甘いの、ユータから聞いたの! ええと、そう、ヨーコレットなの!
うーん、惜しいような惜しくないような。
どうか、せめて似た味でありますように。そうすれば、みんなにも食べて貰える。
オレはもう一度鼻先に近づけて、チョコレートそっくりの香りをいっぱいに吸い込んだのだった。
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