第597話 ちゃんと大きくなっているから
「あ……なんだか不思議な匂いがするね」
鼻先を掠めた香りに気を取られて左手の力を抜けば、大きな手にぐっと握り込まれて苦笑する。さっきまではオレが脱力した手を掴んでいただけだったのに。
溢れるエネルギーは発散できたし、そんなにガッチリ捕まえなくたってもう走らないよ。多分。
「市場が近いのよ。ちょうど朝の人混みは避けられる時間だし、ユータちゃんのお買い物には丁度良かったんじゃないかしら」
ミラゼア様の言葉に目を輝かせ、すんすんと漂う香りを嗅いだ。これが、市場の香り? すごく独特で、どこか異国情緒溢れる刺激的な香り。
市場が見えてくるにつれ、香りもどんどん強くなる。オレの歩行速度もどんどん速くなる。短い足が高速回転だ。長い脚が余裕でついてくるのが腹立たしい。
青空市らしいそこには、小さなタープがたくさん並んで色とりどりだ。店先に並ぶ商品さえカラフルで、一体何だろうと目を凝らす。
基本的に食に関連するものしか販売していない市場らしいけれど、手前のお店にはカラフルな砂山みたいなものがずらりと並んでいる。
「あ! そっか、スパイス? オレの知らないスパイスがいっぱいあるんだ!」
いろんな香りが混じり合って、周囲はなんとも言えない刺激臭だ。
こ、これは……少しずつでも全部持って帰りたい! 知らないスパイスを使いこなすことなんてできないけど、持ち帰ればジフやプレリィさんがうまいことやってくれるはずだ。組み合わせ次第で無限の可能性があるスパイスは、プロに任せてオレが好む配合を教えてもらえばいい。
あとは、市場でどのくらいレシピを聞き出せるかにかかっている。
よし! メモのご用意を、だ。
フンス、と鼻息も荒く筆記具を取り出――せない。ぶん、と振ってみたけど、大きな手は緩むことなく小さな手を握り込んでいる。
「手! はなして! オレ今からいそがしいから」
「こんなごちゃついたトコで離すかっつうの。逃げられると面倒くせえ」
アッゼさんは、握る手にことさら力を込めて鼻であしらった。痛いんですけど!
「逃げないよ!」
「逃げなくても迷子になるだろうが」
思い切り頬を膨らませてみたけれど、ミラゼア様まで苦笑を浮かべてオレを撫でた。
「うーん、ユータちゃんってきっと夢中になるとはぐれるんじゃない……? お手々は繋いでおきましょう?」
ギクリ、と肩が揺れる。それは……安易に否定できない事実であるかもしれない。
だけど、それだと困るんだ。そんなことでは目的が達成されない。オレは眉根を寄せて、一生懸命打開策を検討した。
「――これがお肉にまぶして使う……こっちは油に香りを移す……。ねえ、これは煮込みに入れるんだっけ?」
「あ、ああ。好きに使えばいいけど、大体はそう使うもんだ」
オレは真剣な顔でメモを取る。積極的な幼児にお店のおじさんが若干引いているけど、構うもんか。
帰ってからはこのメモだけが頼りなんだから。きっとジフやプレリィさんはスパイスだけ渡してもなんとかしてくれるんだろう。だけど、通常の使用方法を知っていれば無駄を省けるってものだ。
「もうちょっと近づいて! あ、やっぱりこれ知らないやつだ。これ小袋で下さい!」
市場を歩きながら、めぼしいスパイス店を見つけては目を皿のようにして物色している。
最初からこうしていればよかった。オレはご機嫌でまたペンを走らせた。
と、書いている途中でごそりと机が動いてペンが滑る。
「あっ……! もう、動かないで」
「お前~、俺の頭を机にしてるだろ?!」
だって、ちょうどいいもの。
考えた末、オレは自分のプライドを諦めることにした。その代わり、周囲を見渡せる視界と、両手の自由、そして書き物をする台を手に入れた。
まあ、有り体に言えば……肩車してもらうってこと。これなら逃げもはぐれもしないし、オレにもメリットがある。Win-winの関係だと思う。
「どこがWin-winだ! 俺にメリットはねえよ! 手ぇ繋げばいいだろ」
アッゼさんは不服そうだけど、ちゃんと肩車してくれているんだからそれでいいのだろう。
背が高いとこんなに視界が拓けるんだね。香りも違えば、感じる風だって爽やかだ。
だけど、髪が違う、肩が違う、歩幅も、揺れ方も。
もっと、のしのし歩いて大きく身体が揺らされる。そして、ふわっと流れた髪が触れるんだ。
抱えた頭から前へ手をやって、ほっぺから顎までなぞってみる。
「くすぐってえ!」
「…………」
振り払うようにブンブンと頭を振って、アッゼさんが訝しげにオレを振り返ろうとする。
見られないよう、オレはぴたっと両手で頭を固定した。
「は? なんだよ」
「……なんでもないよ。おひげがないなと思って」
「当たり前だろ? いくらマリーちゃんがいないとは言え、このアッゼさんが身だしなみを疎かにするかよ」
胸を張るアッゼさんにくすりと笑って、ぽんぽんと頭を撫でた。
「おひげがあっても格好いいんだよ! 大人の色気が出るんだから」
オレも将来はちょっとだけおひげを生やすんだ。そうすれば、きっとあんな風になる。
漂う異国の香りの中、お日様の香りが、鋼の腕がまざまざと思い起こされた。
目の前の頭をぎゅう、と力任せに抱え込んでじっとする。
大丈夫、ここは外国だけど、すぐに帰れるもの。オレも、アッゼさんも転移できるし。
できるけど、すぐに帰れるけど、今は帰らない。
「ねえ、そろそろお昼かな? お腹すいちゃった!」
二人からどうした、と問われる前にパッと顔を上げてにっこり笑う。
お腹が空いたのは本当。お腹が空くと、心まで空いてしまうよね。
「そうね! たくさん歩いたし、休憩がてらお昼にしましょう!」
「賛成賛成! 夕方までゆっくりしようぜ!」
ほら、わくわくしてきた。
大丈夫、ほらね?
前を向いた顔に異国の風が当たって、さらさらと髪がなびく。
オレはここぞとばかりに速くなったアッゼさんの足取りにくすくす笑った。
お目当ての店は、思ったよりも大衆向けらしい。庶民向けというには敷居が高いけれど、貴族向けと言うにはお値段が手頃だし内装がシンプルだ。
テーブル席についたオレは、一応メニューを眺めてみたものの、書いてあるのが何のことだかサッパリ分からない。
「ユータちゃんの分も頼んじゃうわね。苦手なものはある?」
「お願いします! 苦手なものはないと思うけど……魔族の国では、結構スパイシーなお料理が多いんだね? あんまり特殊なスパイスだとどうかな……」
今まで食べられなかったものはないけれど、スパイスはかなり独特の香りがするものもある。元日本人としてはハーブやスパイスに馴染みが薄いので、多少心配になってくる。
「子どもが好きなものなら大丈夫じゃないかしら? 無難なものを選ぶわね」
子どもと言われると少々ムッとするけれど、その方が安全ではあるだろう。結局二人がいくつか注文してくれ、取り分けて食べる形式になったみたいだ。
さほど時間も置かずに運ばれてきた料理を、つい伸び上がるように身を乗り出して観察する。
濁った赤いスープは、もしかして辛いんじゃないだろうか。こっちのお肉は目にも鮮やかなスパイスをびっしりまとって、ドレスアップしたみたい。そしてこれはトルティーヤかタコスみたいに、具材が平たいもので巻かれている。
どの料理もしっかりスパイスが主張していて、いかにも刺激のありそうな様相だ。本当に子どもが好きなものなんだろうか。
たくさんの好奇心の前では未知への不安なんて些細なもの。
オレは二人に倣ってさっそく料理に手を伸ばしたのだった。
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