第498話 少し理解の悪いお前

ああ、そういう顔のキツネがいたっけ。確か……チベットスナギツネ。

「「…………」」

沈黙が突き刺さる。カロルス様とセデス兄さんの、なんとも言えない無表情に焦燥が募った。

「あの……大きくなれるだけで、他はなにもないの! だから大丈夫!」

冷や汗を垂らしつつ、もう一度えへっと笑顔を浮かべて見せる。

……ふう。

ため息をついたカロルス様が、そっとオレの頬に大きな手を添えた。


「――『だけ』じゃねえー!! それの! どこに! 大丈夫な要素があんだよ?!」 

いたいいたい! 高速でほっぺをもにもにする手を何とかもぎ取り、じんとするそこをさすった。

「だ、だって! エアスライムだってビックリシダだって大きくなるよ! 一緒だよ!」

さらにはほっぺをつまもうとする手から逃げ惑い、必死に言い募る。

フグみたいに膨らむスライムや、折りたたまれた花弁を一気に広げて巨大化する魔法植物。急に大きくなる生き物なんて、きっと他にもいるよ!

「何ひとつ一緒じゃねえし、大丈夫でもねえよ?!」


久々に見た気がする、その頭の痛そうな顔。うん、多分久々のはず。

「でも大丈夫! 人前で大きくならなかったらいいから。そしたら普通の亜種グリフォン(大)だよ!」

「それも大丈夫じゃねえ! 何も普通じゃねえ!!」

オレは追いかけてくるカロルス様の手を逃れ、きゃあっとチャトに飛びついた。

「チャト、飛んで!」

『行くか?』


にゃあ、と鳴いたチャトが跳躍する。開いた窓枠を蹴って、さらに跳んで――飛んだ。

「うわあっ!」

ばさり、と大きな羽音を響かせ、左右に翼が広がった。

やわやわする身体にぎゅうっとしがみついていると、振動がなくなったことに気がついて目を開けた。

まるで、ルーの背中に乗っている時みたい。だけど、それより遥かに高く、高く。

「本当に、飛んでる……」


ロクサレン家が掴めそうなほどの高さまで高度を上げて、チャトはゆったりと翼をはためかせた。

澄んだ風が、するするとオレたちを通り抜けていく。前髪を持ち上げた風が、ついでのようにおでこを撫でていった。

「気持ちいい……。ねえ、重くない? オレを乗せて大丈夫?」

お日様に照らされて、明るい茶トラはますますオレンジ色に見えた。

『乗せられなければ、意味がない。オレは、好きな場所に行く』

緑の瞳が閃いた。うん、好きな場所に行くための翼でしょう? 乗せられなくても意味があると思うんだけど。独特の物言いにくすりと笑う。

『…………』

じいっと見つめていた瞳が、少々鋭くなった。とても細くなった瞳孔、明るい陽光の下で透ける緑がとてもきれい……。

だけど、これは少々拗ねただろうか。むっとした雰囲気を感じて、平たくなった耳の後ろをわしわしやった。チャトは自分からはあまり話さないし、話すのが上手とは言えないみたいだ。そんなに口下手だったとは思わなか……いや、チャトらしいかな。

いつも無言で見つめられては「おやつ? トイレ? 遊び? それとも気分悪い?」なんて頭を悩ませていたんだった。そして、ふいと視界から消えて、気付けばまたそこにいる。


「チャトは、好きなところへ行っていいよ。危ないこともあるから、モモやシロと一緒に行くといいよ。町を歩くなら、小さい姿になるのを忘れないでね」

風に流れる少し長めの毛並みを撫でつけ、不定期にばさりと上下する大きな翼を眺めた。

毛並みと羽毛はどこで成り代わっているんだろう。肩から生えた逞しい翼は、風を掴むように広げられている。背中の毛並みから滑らかにオレンジが続いていて、末端の羽根になるほど白い。巨大な風切り羽は、文字通りひょうひょうと風を切ってはためいていた。

『………お前は?』

美しい翼に見とれていたら、ぽつりと低い声が聞こえた。

オレ? オレが何? だけど、続く言葉は一向に出て来ない。

「――あ、もしかしてさっきの? ええと、オレは行かないの? ってこと?」

なんとなくこの感覚を懐かしく思いつつ、慌てて言葉を継いだ。

「もちろん、連れて行ってくれるならオレも行くよ!」

『…………』

そうでもないけど、まあそれでもいい。今、その目にそう言われた気がした。答えの的がやや外れているらしい。チャト……話せるようになったら意思疎通が簡単になると思ったのに、どうやらそうではないようだ。

相変わらずオレの頭を悩ませる茶色のふわふわがおかしくて、突っ伏して頬ずりした。


(それじゃ、ゆうたには伝わらないんじゃないかしら)

チャトは、ワガママなのよ。モモはひとり嘆息した。


* * * * *


小さな体の脇の下に潜り込み、チャトはふと顔を上げて見回した。開ききった瞳孔のせいで、普段のきつい視線が随分と柔らかく見える。

狭い寮の一室を見回し、満足して翼を舐めた。

おれは、好きな場所に行ける。ちゃんと、望みの姿になれた。これなら、おれはもう好きな場所を失ったりしない。

おれは、失いたくなかった。居心地のいい、おれの好きな場所。


お前がいる部屋、お前がいる椅子、お前がいる布団、お前がいる庭。


この翼があれば、どこへでも連れて行ける。

『あなたが好きなのは場所じゃないでしょう……どうして、ゆうたと一緒にいるのが好き、って言わないのかしら』

モモが呆れた様子でふよんと揺れた。

チャトは耳をピクリとさせて、ユータの身体に顎を乗せた。

一緒にいるのが好き。そうだろうか。

別に、側に居なくてもいい。その辺りにいればいいだけ。そして時々、おれを見ればいいだけ。おれが寄れば撫でればいいし、離れたらそこにいるといい。

おれは、好きな場所に行く。


お前がいる場所が好きな場所。お前がいるから好きな場所。


『そこまで言ってどうして、「場所」の方に視点がいくのかしら』

平べったくなったモモに視線をやることもせず、チャトは遠慮なく手足を伸ばした。

「ううん……」

突っ張られた手足に、すやすやと寝ていたユータが眉根を寄せて唸った。寝返りを打った身体をかわし、チャトは当たり前のようにユータを踏み越える。小さな口から、うっと声が漏れた気がした。


とん、と窓枠に飛び降りて、チャトは長いしっぽをゆらりと揺らした。

おれが、お前といるのが居心地いいなら、お前もおれといて居心地いいだろう。少し理解の悪いお前だけれど、この姿ならお前が分かっていなくてもおれが勝手に連れて行ける。


窓の外は、月が明るかった。空も真っ黒で綺麗だ。この空を飛んだら、さぞ気持ちいいだろう。

連れて行ってやろうか。きっと喜ぶ。

振り返ってにゃあ、と鳴いた。いくらか呼べば、あの頃のように起きるだろう。

『チャトも、寝よう。あのね、気持ちよく寝ている時に起こしちゃダメなんだよ』

『ゆうたはまだ子どもなの、夜中寝ている時に起こさないのよ』

ベッドを見上げると、声を揃えるように言われ、そうかと視線を戻した。

勿体ないことだ、こんなに美しいのに。


『まあいい』

前肢を折りたたんでうずくまると、独りごちた。

明日も明後日もおれはいるし、夜も来る。

そして、お前もいるのだろう。明日も、明後日も、その先も。

おれがいなくなってもいいけれど、お前はいなくてはいけない。そこが、おれの好きな場所だから。

チャトはそれが確実に守られることに満足して、機嫌良く目を閉じた。



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